同じ根の黒 1
翌朝、グレイル村の空気は、昨日よりわずかに軽かった。
完全に澄んだわけではない。
坑道から流れる灰色の風はまだあり、窓辺の反応針も薄く曇っている。
けれど、震えてはいなかった。
診療所代わりの空き家に置かれた小型換気具が、低く静かな音を立てている。白石粉を通した濾過布がゆっくり揺れ、部屋の中にこもる重さを少しずつ外へ逃がしていた。
ミラは久しぶりに頭が少しだけ澄んだ状態で目を覚ました。
身体はまだ重い。
けれど、昨夜は眠れた。
父が見張ってくれていた。
エリオットも薬草茶を飲んで休んだ。
村人たちも交代で見張りを続けてくれた。
誰かに任せて眠る。
それは、思った以上に難しくて、思った以上に必要なことだった。
「おはよう、ミラ」
中央の部屋へ出ると、オリヴァーが机の前に座っていた。
机には、反応針、封印箱の記録紙、黒い粉を収めた小瓶、そして王都から持ってきた封書が並んでいる。
「父さん、寝てないの?」
「少しは寝たよ」
「少し、なの?」
「君に言われると返す言葉がないね」
穏やかな笑みだったが、目の下には疲れがある。
ミラは眉を寄せた。
「父さんも薬草茶を飲んでください」
「そうする。けれど、その前に渡すものがある」
オリヴァーは机の上の封書を取った。
「ライヘルから。道中で追加された手紙だ」
ミラの表情が引き締まる。
封を開くと、兄の几帳面な文字が並んでいた。
――ミラへ。
――まず、生きていること。これを最優先にしなさい。患者を助けるためにも、君自身が倒れないこと。
――王都では、騎士団長アルベルト・レーヴェンがグレイル方面への無許可接触を禁じる団長命令を出しました。騎士団記録室を名乗る者の動きは、少なくとも表向きには鈍るはずです。
――ただし、これはガレス側と思われる騎士団の非公式な動きを抑えるもので、禁術派側の動きには効きません。警戒を解かないこと。
――エリオットさんの右腕について。白刃状光の発現は大きな手がかりですが、現状では再現禁止。発現時の状況、痛み、熱、痺れ、護符反応のみ記録してください。
――『黒い盤』『先生』という語は、禁術派研究院のセヴラン・ノックスに繋がる可能性があります。断定はまだしません。現地でその名を不用意に出さないこと。
――父さんの指示を聞くこと。
――食事と睡眠を記録すること。
――本当に記録すること。
最後の一文で、ミラは思わず息を詰めた。
「兄さん……」
「心配していたよ」
オリヴァーが静かに言う。
「王都に残るのは、かなり堪えたみたいだ」
「兄さんが来てくれたら心強かったけど……でも、王都にもいてくれないと困る」
「そうだね。あの子はあの子で、王都の暗いところに手を伸ばしている」
ミラは手紙をそっと畳んだ。
騎士団長が動いてくれている。
それは良い知らせだった。
けれど、ガレス側。
禁術派側。
セヴラン・ノックス。
名前が増えるほど、闇の形もはっきりしていく。
そして、はっきりすればするほど、深さが分かってしまう。
「父さん」
「うん」
「この村で起きていることは、やっぱりエリオットさんの右腕と繋がっているんだよね」
オリヴァーはすぐには答えなかった。
代わりに、机の上の三つのものを指した。
小瓶に入れた黒い粉。
ミラから預かった核を収めた二重遮断箱。
ネロの黒輪に使った抑制具の予備部品。
「今日、それを確認する」
エリオットは、朝の診察を受けていた。
昨夜は薬草茶の助けもあり、何度か目を覚ましながらも、普段より長く眠れた。だが、右腕の状態はまだ悪い。
昨日の黒い糸を断った反動が残っていた。
「痛みは?」
ミラが尋ねる。
「三。動かそうとすると四」
「熱は?」
「手首から肘。肩は少し軽くなった」
「痺れは?」
「薬指と小指。親指は昨日より鈍い」
ミラが記録する横で、オリヴァーが改良帯を調整していた。
肩側に小さな逃がし金具をつけ、熱と魔力の反応がこもらないように白石を薄く挟む。固定を強めるのではなく、負荷を分散するための調整だった。
「これは動かすための補助具ではありません」
オリヴァーが言った。
「むしろ、反応が起きた時に右腕へ負担を集中させないためのものです」
「分かりました」
エリオットは素直に頷いた。
ミラは少し驚いたように彼を見る。
「何だ」
「いえ。反論しないんですね」
「反論しても、君と君の父親に止められる」
「良い判断です」
「褒めるな」
いつもの言葉だった。
オリヴァーはそのやり取りを見て、少しだけ目を細めた。
「二人でずいぶん手順ができているね」
「手順?」
ミラが聞き返す。
「状態を確認する。無理を止める。できる範囲を決める。片方が前に出すぎたら、もう片方が引く。これは、かなり大事な手順だよ」
エリオットは視線を伏せた。
「昨日は、止まりきれませんでした」
「それも記録して、次に使えばいい」
オリヴァーは逃がし金具を固定した。
「失敗しない人間はいない。大事なのは、同じ壊れ方を繰り返さないことだ」
その言葉は、エリオットの右腕だけではなく、何かもっと深いところに触れたようだった。




