父の手 3
最後に、オリヴァーは封印箱を確認した。
ミラがずっと持ち歩いていた、瘴気の核。
白花の布。
補強輪。
隔離布。
携行袋。
できる限りの対策はしてある。
それでも、オリヴァーは箱を見た瞬間、顔色を変えた。
職人の目が、父親の目を押しのける。
「ミラ」
「はい」
「これはもう、君が持ち歩く段階のものじゃない」
分かっていた。
それでも、その言葉が実際に父の口から出ると、ミラの胸が少し痛んだ。
「でも、これは証拠です。前の村で拾った核で、エリオットさんの腕の瘴気とも、グレイルの坑道の箱とも同系統で……」
「だからこそ、君が持っていてはいけない」
オリヴァーの声は穏やかだった。
だが、引く気はない。
「証拠なら、守らなければならない。君の身体で守るものではない」
「私は」
「君は患者を診る手を空けなさい」
ミラは言葉を失った。
オリヴァーは続ける。
「この箱を抱えて眠れない夜を増やす必要はない。反応に怯えながら治療を続ける必要もない。これは父さんが預かる」
ミラは箱を見つめた。
これを手放すことに、なぜ抵抗があるのか自分でも分からなかった。
自分が拾ったから。
自分が封じたから。
自分が責任を持たなければならないと思っていたから。
だが、それもまた抱え込みだったのかもしれない。
エリオットが静かに言った。
「俺も、コックスさんに預けた方がいいと思う」
ミラは彼を見る。
「君が持っている限り、黒いものは君を追う。患者を診る時も、眠る時も、ずっとだ」
「でも」
「証拠は必要だ。だが、君が持ち続ける必要はない」
その言葉は、まっすぐだった。
ミラはしばらく黙った。
そして、ゆっくり頷いた。
「……分かりました。父さん、お願いします」
オリヴァーは柔らかく頷いた。
「任せなさい」
彼は箱を開けなかった。
封印箱ごと、さらに大きな二重遮断箱へ移す。内側に白石、外側に鉛銀板。隙間には白石粉を含ませた布を詰める。反応針を近くに置き、黒変しないことを確認する。
針先は薄く曇ったが、震えなかった。
「今は安定している」
オリヴァーは言った。
「この村の風上に、臨時封印庫を作ろう。白石粉の輪、封印布、反応針を置いて、私が管理する。王都へ戻すのは、経路が整ってからだ」
「すぐ持ち帰らないんですか」
ミラが尋ねると、父は首を横に振った。
「これが追跡されている可能性がある。王都へ戻せば、工房へ黒い目を向けさせることになる。まずは現地で遮断し、反応を見よう」
ミラは頷いた。
やはり、父は頼もしい。
自分一人では、ここまで判断できなかった。
夕方までに、オリヴァーたちは当面の方針を決めた。
坑道には入らない。
入口から流れ込む黒い粉と風を弱める。
診療所に小型換気具を設置する。
ネロは黒輪抑制具をつけたまま隔離保護。
瘴気の核はオリヴァーが管理。
エリオットの右腕は調整具を追加し、感知と白刃状光の使用は禁止。
ミラの直接治療は一日三人まで。
「三人?」
ミラが思わず聞き返す。
オリヴァーはにこりとした。
「三人」
「重症者が四人いた場合は」
「優先順位を決める」
「でも」
「ミラ」
父の声が少しだけ低くなった。
「君が倒れたら、四人どころか誰も診られない」
エリオットが横で頷いた。
「俺も同意する」
ミラは二人を見た。
父と患者に挟まれている。
逃げ場がなかった。
「……分かりました」
「よろしい」
オリヴァーは満足そうに頷いた。
ロアンが小声でエリオットに言う。
「師匠、怒ると静かで怖いんですよ」
「少し分かります」
エリオットが真面目に返したので、ロアンは笑いを堪えた。
夜、診療所の窓辺には新しい換気具が置かれた。
白石粉を通した布が、ゆっくり空気を吸い、外へ逃がす。完全に瘴気を消すことはできないが、反応針の曇りは少し薄くなった。
ミラはそれを見て、長く息を吐いた。
「薄くなっています」
「応急だよ。根本解決ではない」
オリヴァーは言った。
「それでも、今夜の空気は昨日よりましになる」
その言葉だけで、十分だった。
オリヴァーは薬草茶を淹れ、ミラへ差し出した。
「飲みなさい」
「父さん」
「入眠しやすい薬草茶だ。君も、エリオット君も。今夜は父さんが見張る」
「でも」
「でも、ではない」
エリオットが静かに言った。
「俺も同意する」
ミラは彼を見た。
「エリオットさんまで」
「昨日、君に眠らされた。今日は君の番だ」
「エリオットさんも飲みます」
「ああ。飲む」
オリヴァーは二人を見て、少しだけ目を細めた。
「いい相棒になったんだね」
ミラは少し驚いた。
エリオットも言葉に詰まったようだった。
相棒。
その言葉は、しっくり来た。
恋でも、特別な甘さでもない。
今はまだ、互いに命を預け、支え合うための言葉。
ミラは薬草茶の杯を受け取った。
「はい。たぶん」
エリオットは少し遅れて、低く答えた。
「俺は、そう思っています」
オリヴァーは穏やかに笑った。
「なら、二人とも相棒のために眠りなさい」
反論できなかった。
その夜、グレイル村にはまだ黒い風が残っていた。
坑道の奥の箱も、消えてはいない。
ネロの黒輪も、外れてはいない。
セヴランの目も、完全には離れていない。
それでも、診療所の空気は昨日より少し澄んでいた。
窓辺の反応針は、薄曇り。
震えはない。
ミラとエリオットが薬草茶を飲み、ようやく横になった後、オリヴァーは椅子に座り、反応針と封印箱の記録をつけ始めた。
父の手が、静かに夜を見張っていた。




