父の手 1
グレイル村の午後は、灰色の光に沈んでいた。
朝から風は弱い。
けれど、窓辺に置いた反応針は、何度確認しても薄く曇ったままだった。
ミラは診療所代わりの空き家で、患者の胸に手を当てていた。
昨日の夜、坑道から伸びてきた黒い糸は、ネロの黒輪と患者たちの黒い棘を同時に揺らした。ミラとエリオットがどうにか断ち切ったものの、その代償は大きかった。
エリオットの右腕は、まだ熱を持っている。
ミラ自身も、朝から身体の奥が重かった。
それでも患者は待ってくれない。
「息は、昨日より楽ですか?」
ミラが尋ねると、寝台の上の石切り職人が小さく頷いた。
「ああ。まだ咳は出るが、胸を押さえつけられる感じは減った」
「今日は無理に黒い棘を抜きません。薬草茶と蒸気薬で様子を見ます。悪化したらすぐ呼んでください」
「分かった。ありがとう、治療師さん」
ミラは微笑み、立ち上がった。
その瞬間、少しだけ視界が揺れた。
「ミラ」
壁際に座っていたエリオットが、すぐに気づく。
彼は立ち上がりかけたが、ミラは手で制した。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔をしている」
「……少し、疲れただけです」
「休め」
「次の患者さんを確認してから」
「ミラ」
声が低くなる。
患者の前で強く言わないよう抑えているのが分かった。
ミラは返事をしようとした。
その時だった。
外から、村人の声が上がった。
「荷馬車だ!」
ミラは顔を上げた。
エリオットも窓の外を見る。
村の入口の方が、にわかにざわついていた。見張りの鐘は鳴っていない。悲鳴でもない。むしろ、驚きと安堵が混じった声だった。
村長が駆け込んでくる。
「治療師さん! リンドル方面から荷馬車が来ました。魔道具屋の荷に見えます!」
ミラの胸が跳ねた。
まさか。
まだ早いのではないか。
でも、もし。
彼女は外へ出た。
村の入口に、一台の荷馬車が止まっていた。
御者台には片目に傷のある男。
荷台には白石粉の袋や布包みが積まれている。
そして、荷台の横から一人の男が降りた。
落ち着いた灰色の外套。
柔らかな目。
けれど、今はその目の奥に、隠しきれない心配がある。
「……父さん」
声が、思ったより小さくなった。
オリヴァーは、ミラを見つけると、足を止めた。
一瞬だけ、職人の顔ではなく、父親の顔になった。
「ミラ」
それだけ言って、彼は近づいてきた。
ミラは動けなかった。
言いたいことは山ほどあった。
グレイル村の患者のこと。
坑道の箱のこと。
ネロの黒輪のこと。
エリオットの右腕のこと。
昨日の夜の黒い糸のこと。
助けを呼んだこと。
自分たちだけでは足りなかったこと。
けれど、オリヴァーはそのどれより先に、ミラの肩へそっと手を置いた。
「よく持ちこたえたね」
その一言で、胸の奥に張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだ。
ミラは唇を噛む。
泣いている場合ではない。
まだ患者がいる。
まだ坑道は危険なままだ。
それでも、声が震えた。
「父さん、患者さんがまだいます。坑道の反応も止まっていません。ネロさんの黒輪も、昨夜また暴走して……」
「うん」
オリヴァーは頷いた。
「順番に見よう。もう一人で説明しなくていい」
ミラは目を伏せた。
「一人ではありませんでした。エリオットさんも、村の人たちも」
「そのようだね」
オリヴァーはそこで、エリオットへ視線を向けた。
エリオットは少し離れた場所に立っていた。
右腕は改良帯で固定され、顔色は決して良くない。それでも背筋を伸ばし、オリヴァーへ頭を下げた。
「エリオット・バーンスタンです。ミラさんには、何度も助けられました」
オリヴァーは静かに彼を見た。
「オリヴァー・コックスです。娘を支えてくれて、ありがとう」
「支えられていたのは、俺の方です」
「それでも、君がいたからミラはここまで来られたんだと思う」
エリオットは少しだけ言葉に詰まった。
ミラはその横顔を見た。
父の言葉は、エリオットにも届いているようだった。
荷馬車から降りたロアンは、村の広場に荷を下ろし始めていた。
「師匠、換気具はこっちでいいですか?」
「診療所の風向きを見てからだ。まず反応針を置く」
オリヴァーの声は、すぐに職人のものへ戻った。
ダリオは村の入口と坑道へ続く道を一目で確認し、村長へ向き直った。
「見張りの配置を教えてくれ。村の出入り、倉庫、坑道道。怪しい足跡があれば確認する」
村長は慌てて頷く。
「はい、こちらです」
救援が来た。
その事実だけで、村の空気が少し変わった。
完全な安心ではない。
でも、張り詰めていた人々の顔に、ほんのわずかな余裕が戻る。
ミラはそれを見て、胸の奥が熱くなった。
助けを呼んでよかった。
そう思えた。




