救援の荷馬車 2
リンドルへ着いたのは、さらに翌日の午後だった。
町はいつも通りの賑わいを見せていたが、オリヴァーには空気の底に小さなざわめきがあるように思えた。
旅人の町は、噂の流れが早い。
黒熱症状。
グレイル村。
若い治療師。
右腕を負傷した大柄な男。
黒い幌の荷馬車。
騎士団記録室を名乗る男。
断片はもう、この町に散っている。
魔道具屋へ向かうと、店主は荷馬車を見るなり表へ出てきた。
「オリヴァー・コックスさんですか」
「ええ。あなたがリンドルの」
「中へ。話は奥で」
挨拶もそこそこに、店主は三人を店の奥へ通した。
表にはすぐ「調整中」の札が掛けられる。
奥の作業室に入ると、店主はまず深く頭を下げた。
「娘さんからの手紙、無事に届いたようで何よりです」
「あなたが繋いでくれたおかげです」
オリヴァーも頭を下げた。
「ミラのことを助けてくださって、ありがとうございます」
「礼は、娘さんを無事に連れて戻ってからにしましょう」
店主はそう言い、すぐに机へ数枚の紙を広げた。
「分かっていることを話します。まず、ミラさんとエリオットさんはここで封印箱や薬草を買いました。その後、黒い幌の荷馬車の痕跡を追い、グレイル方面へ」
「黒い幌の荷馬車は、リンドルで荷を下ろしていますか」
「三番倉庫に一箱だけ。その後、西の鉱山道へ向かったと聞いています」
オリヴァーの目が細くなる。
「一箱だけ」
「ええ。全部ではありません」
ロアンが小声で言った。
「つまり、グレイルの坑道以外にも?」
「可能性はある」
オリヴァーは静かに答えた。
店主は続ける。
「あなたからの荷物は、二人が出た後に届きました。追送しましたが、到着までに一日遅れています。その後、グレイルから救援要請が届きました。トマとニルという若者二人を裏で保護し、荷を整えて戻しました」
「彼らは無事に?」
「戻ったはずです。こちらからは東へ出るふりをして、西の小道へ入らせました」
「助かりました」
オリヴァーはもう一度、深く礼をした。
店主は首を横に振る。
「問題は、騎士団記録室を名乗る男です」
室内の空気が変わった。
「右腕を負傷した男と若い治療師を探していました。正式な文書は持っていません。町役場でも断られ、厩で情報を拾ったようです。グレイルへ向かったはずですが、その後、騎士団側に何か命令が出たのか、周辺の動きは少し鈍りました」
「団長命令です」
オリヴァーは言った。
「王都の味方が動いてくれました」
店主は目を見開いた。
「騎士団長が?」
「まだ全面的な味方とは言い切れません。でも、騎士団側の非公式な動きはかなりやりにくくなったはずです」
店主はゆっくり息を吐いた。
「それは大きい」
「ただし、禁術派の動きは止まりません」
「禁術派……セヴラン系、ですか」
店主が苦々しげに言った。
オリヴァーは頷いた。
「そちらの方が、むしろ厄介です」
リンドルの魔道具屋で、救援荷馬車はさらに荷を増やした。
白石粉を三袋。
鉱山道用の防塵面布。
予備の封印箱。
簡易反応針。
浄化布。
薬草と蒸気薬の材料。
さらに、店主が自作した小さな粉塵吸着板。
「坑道入口の近くに置けば、多少は黒い粉を吸うはずです。強い瘴気は無理ですが」
「十分です」
オリヴァーは吸着板を確認した。
作りは粗いが、現地で使うには頼もしい。
「現場で換気具と組み合わせます」
ロアンは店の作業台を借りて、換気具の濾過布をさらに補強した。
「リンドルの白石粉、質がいいですね」
「鉱山町が近いからね。皮肉なものだよ」
店主は苦笑した。
その横で、ダリオは店の外を確認していた。
往来。
馬車。
向かいの屋根。
路地の影。
退役しても、目はまだ騎士だった。
やがて彼は奥へ戻り、低く言った。
「見張られている気配はない。だが、厩番の口が軽い。こちらの出発先は悟られるかもしれない」
「では、出方を変えます」
店主が地図を広げた。
「正面の西門ではなく、北の石材道から出て、途中で鉱山道へ合流してください。少し遠回りですが、目は少ない」
「馬車は通れますか」
「通れます。揺れますが」
ロアンが荷台を見た。
「揺れは困ります」
「緩衝布を増やそう」
オリヴァーは即座に判断した。
ミラたちに一刻も早く届けたい。
けれど、道具が壊れては意味がない。
焦りを手順に変える。
それが今、彼にできることだった。
出発前、店主はオリヴァーに小さな封筒を渡した。
「これはミラさんへ」
「何ですか」
「この町で聞いた話の写しです。黒い幌の荷馬車、騎士団記録室の男、グレイルへ向かった道。読めば、彼女の記録と照らせるでしょう」
「ありがとうございます」
「それと」
店主は少しだけ声を落とした。
「娘さんは、かなり冷静でした。危険なものを持っていると分かっていても、手順を守っていた。大柄な男も、無理をしそうではありましたが、彼女の言葉を聞いていた」
オリヴァーは目を伏せた。
「そうですか」
「二人は、ただ患者と治療師というだけではなさそうですね」
オリヴァーは少し考え、静かに答えた。
「今は、互いに生きて帰るための相棒なのでしょう」
「なるほど」
店主は小さく笑った。
「では、その相棒ごと連れて帰ってください」
「ええ。必ず」
リンドルを出る頃、空は夕方に傾きかけていた。
北の石材道は、店主の言った通り悪路だった。荷馬車は大きく揺れ、ロアンは荷台で換気具を押さえながら顔をしかめていた。
「師匠、これ、グレイルに着く前に僕の方が分解されそうです」
「道具が無事なら、君は後で組み直せる」
「僕も道具扱いですか」
「職人は半分くらい道具と同じだよ」
「ひどい」
軽口を叩きながらも、ロアンの手はしっかり換気具を押さえている。
御者台のダリオが、ふと馬を緩めた。
「止まる」
荷馬車がゆっくり停止する。
道の脇、灰色の砂利の中に、深い轍が残っていた。
普通の荷馬車より幅が広く、沈み込みが深い。
重い箱を積んだ馬車の跡。
ダリオは地面へ降り、指で轍の縁をなぞった。
「古くはない。雨の後に通っている」
オリヴァーも降りた。
轍の近くの石に、黒い粉がほんの少し付着していた。
彼は手袋をはめ、反応針を近づける。
針先が薄く曇った。
ロアンが息を呑む。
「同系統ですか」
「おそらく」
オリヴァーは慎重に黒い粉を隔離布で拭い取り、小瓶へ入れた。
「この道を、黒い幌の荷馬車が通った」
ダリオは西の空を見た。
「行き先はグレイルで間違いなさそうだな」
オリヴァーは小瓶をしまい、馬車へ戻った。
「急ぎましょう」
その声は静かだった。
けれど、ロアンにもダリオにも分かった。
オリヴァーの中で、父親としての心配と、職人としての怒りが同じ熱を持ち始めている。
人の暮らす村へ、こんなものを運び込んだ者がいる。
娘はその中で、患者を診ている。
エリオットは壊された腕で、まだ立っている。
ならば、一刻でも早く行かなければならない。
夜が近づくにつれて、グレイル方面の空はさらに灰色を濃くした。
風が変わる。
乾いた石の匂いに混じって、かすかに焦げたような、苦い匂いがした。
オリヴァーは荷台の中で反応針を確認した。
針先は、まだ澄んでいる。
だが、西へ進むにつれて、白石粉の袋がほんの少し温もっている気がした。
「近いですね」
ロアンが言う。
「ええ」
オリヴァーはミラへ用意した手紙を、上着の内側に確かめた。
――ミラへ。
――よく助けを呼びました。
――父さんは、それを誇りに思います。
――到着するまで、どうか一人で抱えないこと。
――エリオットさんにも、無理をしないよう伝えてください。
――これは父からのお願いであり、職人からの警告です。
直接会うのだから手紙は不要だったかもしれない。
だが、書かないと落ち着かなかった。
まだ、渡せていない手紙。
けれど、必ず渡す。
荷馬車は灰色の道を進んだ。
遠く、鉱山の影が夜に沈み始めている。
その向こうに、グレイル村がある。
ミラとエリオットが、救援が来るまで持ちこたえようとしている村が。
ダリオが手綱を握り直した。
「少し飛ばすぞ。夜道に入る前に、次の休憩地点まで行く」
「お願いします」
荷馬車が速度を上げる。
車輪が石を踏み、灰色の粉を跳ね上げた。
救援の荷馬車は、黒い幌の馬車が残した轍を追うように、西へ進んでいった。




