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落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
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112/193

二人で断つもの 1

 その夜、グレイル村の空気はいつもより重かった。

 風は強くない。

 むしろ、村の中は不自然なほど静かだった。

 坑道へ続く道には、村人たちが交代で見張りに立っている。倉庫の前にも灯りが二つ。診療所代わりの空き家には、窓辺と封印箱のそばに反応針が置かれていた。

 ミラは、帳面に今日の患者の経過を書き込んでいた。

 重症者二名、呼吸安定。

 軽症者四名、薬草茶と蒸気薬で経過観察。

 ネロ、黒輪反応やや強いが呼吸は維持。

 エリオットさん、右腕痛み三、熱は肘まで。

 そこまで書いたところで、窓辺の反応針が黒く染まった。

 ミラの手が止まる。

「エリオットさん」

 呼ぶより早く、入口側に座っていたエリオットが顔を上げていた。

「来ている」

「坑道からですか」

「ああ。昨日より細い。だが、速い」

 その声は低く、硬かった。

 ミラはすぐに立ち上がり、封印箱のそばの針を確認する。そちらも、銀色の針先がじわじわと黒く染まり始めていた。

 黒変。

 第二段階。

 次の瞬間、針が震えた。

 第三段階。

「村長さんを呼びます」

 ミラが言うと同時に、外で鐘が鳴った。

 カン、カン、カン。

 今度は一度きりではない。

 村全体に危険を知らせる音だった。

     

 最初に異変が起きたのは、診療所ではなかった。

 倉庫だった。

 ネロを見張っていた村人が、真っ青な顔で駆け込んできた。

「治療師さん! 隔離の男が、急に苦しみ出して……黒いものが、手首から!」

 ミラは反応針と隔離布を掴んだ。

「エリオットさんはここに」

「行く」

「右腕が」

「見るだけだ」

 エリオットは杖を取った。

 ミラは一瞬だけ彼を見た。

 止めたい。

 けれど、今は彼の感知が必要だった。

「無理はしないでください」

「分かっている」

 二人は倉庫へ向かった。

 夜の村はざわついていた。あちこちの家から咳の音が聞こえる。昨日まで落ち着いていた患者たちも、急に胸を押さえて苦しみ始めているらしい。

 ミラの胸が冷える。

 これは、ただの漏出ではない。

 何かが、意図して村へ伸びている。

    

 倉庫の中で、ネロは床に転がっていた。

 右手首の黒い輪が、まるで生き物のように脈打っている。そこから細い黒い糸が何本も伸び、喉へ、胸へ、そして床板の隙間へ絡みついていた。

「ぐ……っ、あ、ああ……!」

 ネロは声にならない声を上げている。

 反応針は激しく震えた。

 ミラは隔離布を広げ、白石粉を撒いた。

「村人さんは外へ! 近づかないでください!」

 エリオットが低く言った。

「ネロだけじゃない。床の下を通って、診療所の方へも伸びている」

「患者さんたちに?」

「ああ」

 ミラは奥歯を噛みしめた。

 ネロを助けるか。

 患者たちを助けるか。

 選べない。

 どちらも、今まさに黒い糸に触れられている。

「ミラ」

 エリオットが言った。

「君は浮かせられるか」

「黒い糸を?」

「ああ」

「できます。でも、切れません」

「切るのは、俺が見る」

「駄目です。右腕は」

「右腕で斬るんじゃない」

 エリオットは護符を左手で握った。

 白花と剣の紋が、淡く光っている。

「君が浮かせたものなら、見える。たぶん、そこだけなら」

 ミラは彼を見た。

 エリオットの顔は青白い。右腕にはすでに熱が上がっているはずだ。

 それでも、その目は揺れていなかった。

「無理はしない。だが、何もしなければネロも患者たちも持たない」

 ミラは息を吸った。

 怖い。

 でも、今は怖がって立ち止まる場面ではない。

「分かりました」

 彼女はネロのそばに膝をついた。

「私が黒い糸を浮かせます。エリオットさんは、それだけを見てください。絶対に、右腕で断とうとしないで」

「ああ」

「約束です」

「約束する」

 ミラは白花のペンダントを握った。

 胸元から、温かい光が広がる。

 治すための光。

 戻すための光。

 無理に剥がすのではなく、異物を身体から浮かせるように。

 ネロの喉に絡んでいた黒い糸が、ほんのわずかに浮いた。

 エリオットの護符が強く光る。

「見えた」

 彼の声が落ちる。

 右手の指が、かすかに動いた。

 ミラは叫びそうになった。

 けれど、その前に、エリオットは右腕を動かさず、左手で護符を押さえた。

 護符の白い光が、細く刃の形になった。

 剣ではない。

 短く、薄く、息をするような光。

 それが、ミラの白い治癒の光に沿って伸びる。

 次の瞬間。

 黒い糸が一本、音もなく断ち切れた。

 ネロが大きく息を吸った。

「っ、は……!」

 ミラはすぐに次の糸へ光を流す。

「胸の方へ逃げます!」

「見えている」

 エリオットの額に汗が浮かぶ。

 白い刃は揺れている。

 長くは持たない。

 ミラが浮かせる。

 エリオットが断つ。

 一本。

 また一本。

 ネロの身体に絡んでいた黒い糸が、少しずつほどけていった。

 だが、床下から新しい糸が伸びる。

 今度はミラの足元へ。

「ミラ、下がれ!」

 エリオットの声。

 ミラは反射的に身を引いた。

 黒い糸が空を切る。

 だが、その一部が彼女の裾に触れた。

 冷たい。

 刺すような冷気が、足元から膝へ這い上がろうとする。

 その瞬間、エリオットの護符が眩しく光った。

「ミラに触れるな」

 低い声だった。

 怒鳴ったわけではない。

 けれど、その言葉には確かな力があった。

 白い刃が一瞬だけ大きく伸び、ミラの裾に絡んだ黒い糸を断った。

 同時に、エリオットの右腕がびくりと跳ねた。

「エリオットさん!」

「まだ、平気だ」

「平気じゃありません!」

 ミラは白花の光を一気に広げた。

 ネロの黒輪を完全に外すのではなく、輪の周囲に白い膜を張る。黒い糸が外へ伸びるのを抑え込む。

 それだけで精一杯だった。

 反応針の震えが少しずつ弱まる。

 黒変は残っている。

 けれど、第三段階から第二段階へ落ちた。

 ネロは荒い息をしながら、床に倒れたまま動けない。

「……たす、かった……のか」

「まだです」

 ミラは息を切らしながら言った。

「でも、今は息ができています」

 ネロは目を閉じ、笑うように、泣くように顔を歪めた。

  

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