二人で断つもの 1
その夜、グレイル村の空気はいつもより重かった。
風は強くない。
むしろ、村の中は不自然なほど静かだった。
坑道へ続く道には、村人たちが交代で見張りに立っている。倉庫の前にも灯りが二つ。診療所代わりの空き家には、窓辺と封印箱のそばに反応針が置かれていた。
ミラは、帳面に今日の患者の経過を書き込んでいた。
重症者二名、呼吸安定。
軽症者四名、薬草茶と蒸気薬で経過観察。
ネロ、黒輪反応やや強いが呼吸は維持。
エリオットさん、右腕痛み三、熱は肘まで。
そこまで書いたところで、窓辺の反応針が黒く染まった。
ミラの手が止まる。
「エリオットさん」
呼ぶより早く、入口側に座っていたエリオットが顔を上げていた。
「来ている」
「坑道からですか」
「ああ。昨日より細い。だが、速い」
その声は低く、硬かった。
ミラはすぐに立ち上がり、封印箱のそばの針を確認する。そちらも、銀色の針先がじわじわと黒く染まり始めていた。
黒変。
第二段階。
次の瞬間、針が震えた。
第三段階。
「村長さんを呼びます」
ミラが言うと同時に、外で鐘が鳴った。
カン、カン、カン。
今度は一度きりではない。
村全体に危険を知らせる音だった。
最初に異変が起きたのは、診療所ではなかった。
倉庫だった。
ネロを見張っていた村人が、真っ青な顔で駆け込んできた。
「治療師さん! 隔離の男が、急に苦しみ出して……黒いものが、手首から!」
ミラは反応針と隔離布を掴んだ。
「エリオットさんはここに」
「行く」
「右腕が」
「見るだけだ」
エリオットは杖を取った。
ミラは一瞬だけ彼を見た。
止めたい。
けれど、今は彼の感知が必要だった。
「無理はしないでください」
「分かっている」
二人は倉庫へ向かった。
夜の村はざわついていた。あちこちの家から咳の音が聞こえる。昨日まで落ち着いていた患者たちも、急に胸を押さえて苦しみ始めているらしい。
ミラの胸が冷える。
これは、ただの漏出ではない。
何かが、意図して村へ伸びている。
倉庫の中で、ネロは床に転がっていた。
右手首の黒い輪が、まるで生き物のように脈打っている。そこから細い黒い糸が何本も伸び、喉へ、胸へ、そして床板の隙間へ絡みついていた。
「ぐ……っ、あ、ああ……!」
ネロは声にならない声を上げている。
反応針は激しく震えた。
ミラは隔離布を広げ、白石粉を撒いた。
「村人さんは外へ! 近づかないでください!」
エリオットが低く言った。
「ネロだけじゃない。床の下を通って、診療所の方へも伸びている」
「患者さんたちに?」
「ああ」
ミラは奥歯を噛みしめた。
ネロを助けるか。
患者たちを助けるか。
選べない。
どちらも、今まさに黒い糸に触れられている。
「ミラ」
エリオットが言った。
「君は浮かせられるか」
「黒い糸を?」
「ああ」
「できます。でも、切れません」
「切るのは、俺が見る」
「駄目です。右腕は」
「右腕で斬るんじゃない」
エリオットは護符を左手で握った。
白花と剣の紋が、淡く光っている。
「君が浮かせたものなら、見える。たぶん、そこだけなら」
ミラは彼を見た。
エリオットの顔は青白い。右腕にはすでに熱が上がっているはずだ。
それでも、その目は揺れていなかった。
「無理はしない。だが、何もしなければネロも患者たちも持たない」
ミラは息を吸った。
怖い。
でも、今は怖がって立ち止まる場面ではない。
「分かりました」
彼女はネロのそばに膝をついた。
「私が黒い糸を浮かせます。エリオットさんは、それだけを見てください。絶対に、右腕で断とうとしないで」
「ああ」
「約束です」
「約束する」
ミラは白花のペンダントを握った。
胸元から、温かい光が広がる。
治すための光。
戻すための光。
無理に剥がすのではなく、異物を身体から浮かせるように。
ネロの喉に絡んでいた黒い糸が、ほんのわずかに浮いた。
エリオットの護符が強く光る。
「見えた」
彼の声が落ちる。
右手の指が、かすかに動いた。
ミラは叫びそうになった。
けれど、その前に、エリオットは右腕を動かさず、左手で護符を押さえた。
護符の白い光が、細く刃の形になった。
剣ではない。
短く、薄く、息をするような光。
それが、ミラの白い治癒の光に沿って伸びる。
次の瞬間。
黒い糸が一本、音もなく断ち切れた。
ネロが大きく息を吸った。
「っ、は……!」
ミラはすぐに次の糸へ光を流す。
「胸の方へ逃げます!」
「見えている」
エリオットの額に汗が浮かぶ。
白い刃は揺れている。
長くは持たない。
ミラが浮かせる。
エリオットが断つ。
一本。
また一本。
ネロの身体に絡んでいた黒い糸が、少しずつほどけていった。
だが、床下から新しい糸が伸びる。
今度はミラの足元へ。
「ミラ、下がれ!」
エリオットの声。
ミラは反射的に身を引いた。
黒い糸が空を切る。
だが、その一部が彼女の裾に触れた。
冷たい。
刺すような冷気が、足元から膝へ這い上がろうとする。
その瞬間、エリオットの護符が眩しく光った。
「ミラに触れるな」
低い声だった。
怒鳴ったわけではない。
けれど、その言葉には確かな力があった。
白い刃が一瞬だけ大きく伸び、ミラの裾に絡んだ黒い糸を断った。
同時に、エリオットの右腕がびくりと跳ねた。
「エリオットさん!」
「まだ、平気だ」
「平気じゃありません!」
ミラは白花の光を一気に広げた。
ネロの黒輪を完全に外すのではなく、輪の周囲に白い膜を張る。黒い糸が外へ伸びるのを抑え込む。
それだけで精一杯だった。
反応針の震えが少しずつ弱まる。
黒変は残っている。
けれど、第三段階から第二段階へ落ちた。
ネロは荒い息をしながら、床に倒れたまま動けない。
「……たす、かった……のか」
「まだです」
ミラは息を切らしながら言った。
「でも、今は息ができています」
ネロは目を閉じ、笑うように、泣くように顔を歪めた。




