黒い盤の向こう側
王都の北区には、古い研究棟がある。
王立魔術院の敷地内にありながら、正規の研究室一覧には載っていない建物だ。外から見れば、閉鎖された旧実験棟にすぎない。窓は狭く、扉は重く、昼でも中は薄暗い。
その最奥で、セヴラン・ノックスは黒い水晶盤を見下ろしていた。
盤面には、細い黒い筋がいくつも走っている。
一つは王都。
一つは西の街道。
そしてもう一つは、グレイル村の坑道奥。
黒い筋は、呼吸するように微かに脈打っていた。
「ガレス閣下は、相変わらず焦りやすい」
セヴランは、先ほど切れた通信具を横目で見ながら、穏やかに言った。
そばに控えていた若い研究員が、慎重に口を開く。
「騎士団長が記憶を取り戻しかけているなら、確かに危険では?」
「危険ですよ」
セヴランは笑った。
「だから面白い」
研究員は黙った。
この男の「面白い」は、普通の人間が口にするそれとは違う。
新しい術式を見つけた時。
被験者が予想外の反応をした時。
禁じられた記録の中に、失われた女神信仰の痕跡を見つけた時。
セヴランはいつも、同じように笑う。
人の苦痛も、恐怖も、祈りも、彼にとっては観察対象の一部だった。
「副団長閣下は、守護騎士が戻ることを恐れている」
セヴランは黒い盤に指を置いた。
「彼にとって守護騎士とは、腐敗した騎士団を照らす光ですからね。光は、隠したいものを暴いてしまう」
「では、先生にとっては?」
「私にとって?」
セヴランは少し考えるように首を傾げた。
「守護騎士は、実に優れた反応体です。瘴気封入触媒を断つ可能性がある。禁術で歪めた魔力路を見つける可能性がある。黒輪のような拘束術式にも干渉できるかもしれない」
その声は、まるで珍しい鉱石について語る職人のようだった。
「潰してしまうには惜しい」
研究員が息を呑む。
「ですが、二年前は」
「ええ。あの時は、潰す必要がありました」
セヴランの指が、盤面の黒い筋を撫でた。
「芽が開ききる前でしたから」
二年前。
エリオット・バーンスタンという若い騎士の名が、ガレス・オルブライトからもたらされた時、セヴランは最初、さほど興味を持たなかった。
地方出身の有望な若手。
魔物討伐で成果を上げている。
試し石の儀式で、秘匿された兆候が現れた。
そこまでは、珍しくはあるが、驚くほどではない。
だが、ガレスは焦っていた。
――あれが本当に守護騎士の兆しなら、放置はできん。
セヴランはその時、初めて少し興味を抱いた。
騎士団上層部の腐敗を守りたいガレス。
禁術研究を進めるために、騎士団の輸送網と記録隠蔽を利用したいセヴラン。
二人の利害は、その一点で噛み合った。
エリオット・バーンスタンの力が開く前に、封じる。
殺す必要はなかった。
死体は騒ぎになる。
英雄候補の死は、余計な同情と疑惑を呼ぶ。
ならば、騎士としての道だけを奪えばいい。
剣を握る右腕。
魔を断つ力が通るはずの魔力路。
そこに瘴気封入触媒を噛ませ、魔物討伐の事故に見せかける。
エリオットは生き残った。
右腕を失い、騎士を辞め、故郷へ帰った。
それで終わるはずだった。
少なくとも、ガレスにとっては。
「私は少し惜しいと思っていましたよ」
セヴランは静かに言った。
「開花しかけた守護騎士の魔力路を、もう少し観察したかった」
研究員は答えなかった。
「しかし、副団長閣下は慎重でした。いえ、臆病と言うべきでしょうか。守護騎士という言葉に、あの方は本能的な恐怖を抱いている」
「先生は恐ろしくないのですか」
「恐ろしいですよ」
セヴランは微笑んだ。
「未知とは、常に恐ろしいものです。だから調べる価値がある」
黒い盤の上で、グレイル村の反応が揺れた。
そこには、坑道奥に置かれた箱型触媒源の反応がある。
あれは本来、グレイル村で病を広げるためだけに置いたものではない。
古い坑道は、瘴気の滞留を調べるには都合がよかった。
風の流れ、地下水、石の性質、村への薄い影響。
人が少なく、王都の目も届きにくい。
小規模な触媒保管と環境反応の観察。
そういう位置づけだった。
だが、雨で入口が崩れた。
風が通った。
想定よりも早く、村へ黒い粉が漏れた。
さらに、そこへミラが来た。
若い旅治療師。
王都魔術学校では平凡と評価され、王都治療院にも入れなかった娘。
その娘が、患者の体内から黒い棘を押し出した。
白い光で、瘴気の糸を浮かせた。
守護騎士候補の感知と合わせて、黒い棘の位置を追った。
セヴランの口元に、ゆっくり笑みが浮かぶ。
「王都の評価というものは、時に実に雑ですね」
「ミラ・コックスですか」
「ええ。落ちこぼれと呼ばれた治療師が、二年前の封印を揺らしている」
研究員は黒い盤を覗き込んだ。
「捕獲しますか」
「今はまだ」
「では、観察を?」
「もちろん」
セヴランは即答した。
「彼女が何に反応し、どこまで剥がせるのか。守護騎士候補と共にいることで、力が増幅されるのか。女神由来の治癒に近いのか、それとも彼女固有の性質なのか」
その目が細くなる。
「調べるべきことが多すぎる」
研究員は少し躊躇ってから言った。
「オルブライト閣下は、エリオットの右腕を再度潰すつもりのようですが」
「でしょうね」
「止めますか」
「必要なら」
セヴランは黒い盤から視線を外さなかった。
「しかし、直接止める必要はありません。オルブライト閣下にはオルブライト閣下の恐怖がある。グレイン卿にはグレイン卿の保身がある。彼らは自分たちの都合で動くでしょう」
「では、こちらは?」
「こちらは、彼らが壊す前に必要なものを見極める」
必要なもの。
それが人を指しているようには聞こえなかった。
部屋の隅で、別の黒い石が淡く光った。
通信具ではない。
黒輪の反応を拾うための小さな盤だ。
研究員が確認する。
「運び屋ネロの輪が、昨夜から不安定です」
「まだ生きていましたか」
「はい。治療師に処置されています」
「優しいことですね」
セヴランは軽く言った。
その声には、感心も同情もない。
「黒輪を外せそうですか?」
「外せません。反応を鈍らせているだけのようです」
彼は盤面の別の線を見た。
「ネロは口が軽い。けれど、黒輪のおかげで核心は話せない。治療師が彼を助けるなら、彼女はより多くの情報に触れる。その分、より深く黒に近づく」
「危険では?」
「彼女にとっては」
セヴランは微笑んだ。
「私にとっては有益です」
ガレスは焦っている。
騎士団長アルベルト・レーヴェンが、試し石の記憶を取り戻しかけているからだ。
あの団長は、愚かではない。
政治には鈍い。
書類の裏に隠された悪意を見抜くのは得意ではない。
だが、騎士としての勘はまだ死んでいない。
認識阻害も、永久ではない。
強く縛れば痕跡が残る。
弱くかければ、時間と違和感で緩む。
ガレスはそれを理解していない。
力で蓋をすればいいと思っている。
「だから俗物は困ります」
セヴランは呟いた。
「蓋をするほど、内側で圧が高まるというのに」
研究員は恐る恐る尋ねた。
「団長への認識阻害は、補強しないのですか」
「今はしません。目覚めかけた相手に強く触れれば、術式の痕が残る。オルガ・フェンネルあたりが見れば、気づくかもしれません」
「では放置を?」
「いいえ」
セヴランは黒い盤へ手をかざした。
「意識を逸らします」
盤面の中で、グレイル村の坑道にある黒い筋が濃くなった。
「守護騎士候補が本当に戻るなら、彼は黒に反応する。治療師が本当に白い力を持つなら、彼女は患者を見捨てない」
セヴランの声は、静かだった。
「なら、少し揺らせばいい」
グレイル村の坑道奥。
暗闇の中に置かれた箱が、微かに脈打った。
黒い幌の荷馬車が運び込んだ箱。
鉛のような黒い木材で覆われ、内側に瘴気封入触媒が納められている。雨で崩れた岩の隙間から風が入り、箱の表面に積もった黒い粉を少しずつ村へ運んでいた。
その箱が、セヴランの操作に応じて、ほんのわずかに開いた。
大きくではない。
村を一気に呑むほどではない。
ただ、眠っていた黒い糸を一本、坑道の外へ伸ばす程度。
それは地面を伝い、石の隙間を抜け、灰色の風に混じる。
村へ向かう。
患者たちへ向かう。
そして、白い治癒の気配がある場所へ向かう。
セヴランは黒い盤に映る反応を見て、満足そうに目を細めた。
「さあ」
彼は優しい声で囁いた。
「ミラ・コックス。あなたの手は、どこまで黒を剥がせる?」
盤面の端で、もう一つの反応が微かに光る。
白花と剣の護符。
エリオット・バーンスタンの右腕。
「そして守護騎士殿」
セヴランは、まるで遠い相手に挨拶するように、指先を盤へ添えた。
「あなたは、まだ断つことを我慢できますか?」
黒い筋が、静かに村へ伸びていく。
王都の闇の中で、セヴラン・ノックスは微笑んでいた。
ガレスは恐れる。
ヴィクトルは保身に走る。
騎士団長は目覚めかけている。
オリヴァーたちは救援へ向かう。
それらすべてを、黒い盤の向こうから眺めながら。
セヴランは、まだ一度も焦っていなかった。




