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落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
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黒い盤の向こう側

 王都の北区には、古い研究棟がある。

 王立魔術院の敷地内にありながら、正規の研究室一覧には載っていない建物だ。外から見れば、閉鎖された旧実験棟にすぎない。窓は狭く、扉は重く、昼でも中は薄暗い。

 その最奥で、セヴラン・ノックスは黒い水晶盤を見下ろしていた。

 盤面には、細い黒い筋がいくつも走っている。

 一つは王都。

 一つは西の街道。

 そしてもう一つは、グレイル村の坑道奥。

 黒い筋は、呼吸するように微かに脈打っていた。

「ガレス閣下は、相変わらず焦りやすい」

 セヴランは、先ほど切れた通信具を横目で見ながら、穏やかに言った。

 そばに控えていた若い研究員が、慎重に口を開く。

「騎士団長が記憶を取り戻しかけているなら、確かに危険では?」

「危険ですよ」

 セヴランは笑った。

「だから面白い」

 研究員は黙った。

 この男の「面白い」は、普通の人間が口にするそれとは違う。

 新しい術式を見つけた時。

 被験者が予想外の反応をした時。

 禁じられた記録の中に、失われた女神信仰の痕跡を見つけた時。

 セヴランはいつも、同じように笑う。

 人の苦痛も、恐怖も、祈りも、彼にとっては観察対象の一部だった。

「副団長閣下は、守護騎士が戻ることを恐れている」

 セヴランは黒い盤に指を置いた。

「彼にとって守護騎士とは、腐敗した騎士団を照らす光ですからね。光は、隠したいものを暴いてしまう」

「では、先生にとっては?」

「私にとって?」

 セヴランは少し考えるように首を傾げた。

「守護騎士は、実に優れた反応体です。瘴気封入触媒を断つ可能性がある。禁術で歪めた魔力路を見つける可能性がある。黒輪のような拘束術式にも干渉できるかもしれない」

 その声は、まるで珍しい鉱石について語る職人のようだった。

「潰してしまうには惜しい」

 研究員が息を呑む。

「ですが、二年前は」

「ええ。あの時は、潰す必要がありました」

 セヴランの指が、盤面の黒い筋を撫でた。

「芽が開ききる前でしたから」

     

 二年前。

 エリオット・バーンスタンという若い騎士の名が、ガレス・オルブライトからもたらされた時、セヴランは最初、さほど興味を持たなかった。

 地方出身の有望な若手。

 魔物討伐で成果を上げている。

 試し石の儀式で、秘匿された兆候が現れた。

 そこまでは、珍しくはあるが、驚くほどではない。

 だが、ガレスは焦っていた。

 ――あれが本当に守護騎士の兆しなら、放置はできん。

 セヴランはその時、初めて少し興味を抱いた。

 騎士団上層部の腐敗を守りたいガレス。

 禁術研究を進めるために、騎士団の輸送網と記録隠蔽を利用したいセヴラン。

 二人の利害は、その一点で噛み合った。

 エリオット・バーンスタンの力が開く前に、封じる。

 殺す必要はなかった。

 死体は騒ぎになる。

 英雄候補の死は、余計な同情と疑惑を呼ぶ。

 ならば、騎士としての道だけを奪えばいい。

 剣を握る右腕。

 魔を断つ力が通るはずの魔力路。

 そこに瘴気封入触媒を噛ませ、魔物討伐の事故に見せかける。

 エリオットは生き残った。

 右腕を失い、騎士を辞め、故郷へ帰った。

 それで終わるはずだった。

 少なくとも、ガレスにとっては。

「私は少し惜しいと思っていましたよ」

 セヴランは静かに言った。

「開花しかけた守護騎士の魔力路を、もう少し観察したかった」

 研究員は答えなかった。

「しかし、副団長閣下は慎重でした。いえ、臆病と言うべきでしょうか。守護騎士という言葉に、あの方は本能的な恐怖を抱いている」

「先生は恐ろしくないのですか」

「恐ろしいですよ」

 セヴランは微笑んだ。

「未知とは、常に恐ろしいものです。だから調べる価値がある」

   

 黒い盤の上で、グレイル村の反応が揺れた。

 そこには、坑道奥に置かれた箱型触媒源の反応がある。

 あれは本来、グレイル村で病を広げるためだけに置いたものではない。

 古い坑道は、瘴気の滞留を調べるには都合がよかった。

 風の流れ、地下水、石の性質、村への薄い影響。

 人が少なく、王都の目も届きにくい。

 小規模な触媒保管と環境反応の観察。

 そういう位置づけだった。

 だが、雨で入口が崩れた。

 風が通った。

 想定よりも早く、村へ黒い粉が漏れた。

 さらに、そこへミラが来た。

 若い旅治療師。

 王都魔術学校では平凡と評価され、王都治療院にも入れなかった娘。

 その娘が、患者の体内から黒い棘を押し出した。

 白い光で、瘴気の糸を浮かせた。

 守護騎士候補の感知と合わせて、黒い棘の位置を追った。

 セヴランの口元に、ゆっくり笑みが浮かぶ。

「王都の評価というものは、時に実に雑ですね」

「ミラ・コックスですか」

「ええ。落ちこぼれと呼ばれた治療師が、二年前の封印を揺らしている」

 研究員は黒い盤を覗き込んだ。

「捕獲しますか」

「今はまだ」

「では、観察を?」

「もちろん」

 セヴランは即答した。

「彼女が何に反応し、どこまで剥がせるのか。守護騎士候補と共にいることで、力が増幅されるのか。女神由来の治癒に近いのか、それとも彼女固有の性質なのか」

 その目が細くなる。

「調べるべきことが多すぎる」

 研究員は少し躊躇ってから言った。

「オルブライト閣下は、エリオットの右腕を再度潰すつもりのようですが」

「でしょうね」

「止めますか」

「必要なら」

 セヴランは黒い盤から視線を外さなかった。

「しかし、直接止める必要はありません。オルブライト閣下にはオルブライト閣下の恐怖がある。グレイン卿にはグレイン卿の保身がある。彼らは自分たちの都合で動くでしょう」

「では、こちらは?」

「こちらは、彼らが壊す前に必要なものを見極める」

 必要なもの。

 それが人を指しているようには聞こえなかった。

    

 部屋の隅で、別の黒い石が淡く光った。

 通信具ではない。

 黒輪の反応を拾うための小さな盤だ。

 研究員が確認する。

「運び屋ネロの輪が、昨夜から不安定です」

「まだ生きていましたか」

「はい。治療師に処置されています」

「優しいことですね」

 セヴランは軽く言った。

 その声には、感心も同情もない。

「黒輪を外せそうですか?」

「外せません。反応を鈍らせているだけのようです」

 彼は盤面の別の線を見た。

「ネロは口が軽い。けれど、黒輪のおかげで核心は話せない。治療師が彼を助けるなら、彼女はより多くの情報に触れる。その分、より深く黒に近づく」

「危険では?」

「彼女にとっては」

 セヴランは微笑んだ。

「私にとっては有益です」

    

 ガレスは焦っている。

 騎士団長アルベルト・レーヴェンが、試し石の記憶を取り戻しかけているからだ。

 あの団長は、愚かではない。

 政治には鈍い。

 書類の裏に隠された悪意を見抜くのは得意ではない。

 だが、騎士としての勘はまだ死んでいない。

 認識阻害も、永久ではない。

 強く縛れば痕跡が残る。

 弱くかければ、時間と違和感で緩む。

 ガレスはそれを理解していない。

 力で蓋をすればいいと思っている。

「だから俗物は困ります」

 セヴランは呟いた。

「蓋をするほど、内側で圧が高まるというのに」

 研究員は恐る恐る尋ねた。

「団長への認識阻害は、補強しないのですか」

「今はしません。目覚めかけた相手に強く触れれば、術式の痕が残る。オルガ・フェンネルあたりが見れば、気づくかもしれません」

「では放置を?」

「いいえ」

 セヴランは黒い盤へ手をかざした。

「意識を逸らします」

 盤面の中で、グレイル村の坑道にある黒い筋が濃くなった。

「守護騎士候補が本当に戻るなら、彼は黒に反応する。治療師が本当に白い力を持つなら、彼女は患者を見捨てない」

 セヴランの声は、静かだった。

「なら、少し揺らせばいい」

     

 グレイル村の坑道奥。

 暗闇の中に置かれた箱が、微かに脈打った。

 黒い幌の荷馬車が運び込んだ箱。

 鉛のような黒い木材で覆われ、内側に瘴気封入触媒が納められている。雨で崩れた岩の隙間から風が入り、箱の表面に積もった黒い粉を少しずつ村へ運んでいた。

 その箱が、セヴランの操作に応じて、ほんのわずかに開いた。

 大きくではない。

 村を一気に呑むほどではない。

 ただ、眠っていた黒い糸を一本、坑道の外へ伸ばす程度。

 それは地面を伝い、石の隙間を抜け、灰色の風に混じる。

 村へ向かう。

 患者たちへ向かう。

 そして、白い治癒の気配がある場所へ向かう。

     

 セヴランは黒い盤に映る反応を見て、満足そうに目を細めた。

「さあ」

 彼は優しい声で囁いた。

「ミラ・コックス。あなたの手は、どこまで黒を剥がせる?」

 盤面の端で、もう一つの反応が微かに光る。

 白花と剣の護符。

 エリオット・バーンスタンの右腕。

「そして守護騎士殿」

 セヴランは、まるで遠い相手に挨拶するように、指先を盤へ添えた。

「あなたは、まだ断つことを我慢できますか?」

 黒い筋が、静かに村へ伸びていく。

 王都の闇の中で、セヴラン・ノックスは微笑んでいた。

 ガレスは恐れる。

 ヴィクトルは保身に走る。

 騎士団長は目覚めかけている。

 オリヴァーたちは救援へ向かう。

 それらすべてを、黒い盤の向こうから眺めながら。

 セヴランは、まだ一度も焦っていなかった。



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