団長命令 1
翌朝、騎士団長アルベルト・レーヴェンは、自分の机の上に置かれた一枚の紙を見下ろしていた。
そこには、自分の筆跡で短い言葉が書かれている。
――バーンスタン。試し石。白光。忘れるな。
アルベルトは、その文字からしばらく目を離せなかった。
昨夜、確かに自分が書いた。
頭痛に耐えながら、記憶が霞む前に、忘れてはならないものを掴むようにして書き残した。
エリオット・バーンスタン。
二年前の騎士叙任式。
王家の騎士となる者が、古い試し石の前で剣を捧げる、形式的な伝統儀式。
だが、アルベルトは知っている。
あの石は、ただの儀式道具ではない。
王家に光をもたらす守護騎士を見つけるための、古い聖遺物だった。
エリオットが剣を振る仕草をした瞬間、石の奥に白い光が走った。
ほんの一瞬。
あまりにも微かで、見間違いだと思えるほどの光。
けれど、アルベルトは見た。
確かに見た。
「なぜ、忘れていた」
低く呟く。
その瞬間、こめかみに鈍い痛みが走った。
だが、今朝は手を止めなかった。
アルベルトは机の引き出しを開け、もう一枚の紙を取り出した。そこに、さらに言葉を書き足す。
――頭痛。思考の霞み。ガレスの説明後に強まる。
――エリオットの件、正式記録を確認。ガレス経由不可。
――グレイル村。黒熱症状。騎士団名を名乗る者あり。正式命令未確認。
書き終え、彼は深く息を吐いた。
まだ確証はない。
ガレスを黒だと断じるには、材料が足りない。
自分の記憶も、完全には信じきれない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
自分は、何かを忘れさせられている。
そして、その中心にエリオット・バーンスタンがいる。
朝議の前、アルベルトは副官を呼んだ。
ガレスの息がかかっていない古参の副官だ。名をオスカー・ヘルムートという。長く騎士団に仕え、派閥争いには関わらず、ただ命令と実務を淡々とこなす男だった。
「団長、お呼びでしょうか」
「ああ。命令書を出す」
アルベルトは新しい紙を引き寄せ、迷いなく書き始めた。
――団長命令。
――グレイル村周辺において、黒熱症状に類似する病症および瘴気汚染の疑いあり。
――騎士団員、記録室職員、ならびに騎士団名義で行動する全関係者は、団長の許可なく同地域へ立ち入ることを禁ずる。
――すでに同地域へ赴いている者は、速やかに帰還し、団長室へ直接報告すること。
――患者および療養者への接触、聞き取り、記録採取は、治療師および現地責任者の許可なく行ってはならない。
――違反した場合、職務権限の逸脱として処分対象とする。
オスカーは読み終え、わずかに眉を上げた。
「グレイル村、ですか」
「そうだ」
「騎士団から正式に人員を出している記録はありません」
「そのはずだ」
アルベルトは静かに言った。
「だからこそ、この命令が必要だ」
オスカーは一瞬で理解したようだった。
正式な派遣がない。
ならば、この命令は一見、感染対策に見える。
しかし実際には、騎士団名を使って勝手に動く者を炙り出すためのものだ。
「掲示範囲は?」
「本部内全体。記録室にも回せ。写しは門番、馬車管理、通行証発行所にも」
「副団長室にも?」
アルベルトは少しだけ沈黙した。
そして答える。
「当然だ」
「承知しました」
「それから」
アルベルトは、もう一枚の封書を用意した。
「ユアン・クロフォードを呼べ。非公式でいい。目立たぬようにな」
「クロフォード卿を?」
「ああ。報告は私へ直接。ガレスを通すな」
オスカーの表情が、今度こそはっきり変わった。
だが、何も問わなかった。
「承知しました」
彼は深く頭を下げ、命令書を持って部屋を出た。
命令書が掲示されると、騎士団本部の空気は少しざわついた。
黒熱症状。
瘴気汚染。
グレイル村。
その地名に心当たりのある者は少ない。ほとんどの騎士にとっては、辺境の鉱山村の一つにすぎなかった。
だが、騎士団記録室の奥では、明らかに反応があった。
若い事務官が命令書の写しを見て、顔色を変えた。
「団長命令……?」
その様子を、ヴィクトルは横目で見ていた。
彼は表情を動かさないよう努めたが、内心では舌打ちしていた。
速すぎる。
グレイルへ追加の者を出したばかりだ。
まだ報告も戻っていない。
そこへ団長命令。
団長の許可なく立ち入り禁止。
すでに赴いた者は帰還し、団長室へ直接報告。
最悪に近い文面だった。
非公式に動かした者たちは、表向きには存在しない。
だが、この命令が出た以上、彼らがグレイル周辺で騎士団名を使えば、団長命令違反になる。
しかも、戻れば団長室へ直接報告しなければならない。
ガレスを通せない。
「……面倒なことを」
ヴィクトルは低く呟いた。
そこへ、ガレスが記録室へ入ってきた。
表情はいつも通り穏やかだ。
だが、目の奥は冷えていた。
「見たか」
「はい」
ヴィクトルは命令書を差し出した。
ガレスはそれを読み、短く息を吐いた。
「団長が動いた」
「どこまで気づいているのでしょう」
「まだ真相には届いていない。届いていれば私を呼びつけている」
「では、違和感で?」
「おそらくな」
ガレスは命令書を指で弾いた。
「正面からこちらを疑えないから、公式命令で周囲を塞いできた。武骨な男にしては、悪くない手だ」
その口調には、わずかな苛立ちが混じっていた。
「追加で出した者はどうします」
「すぐ引かせろ」
「しかし、エリオットの右腕の確認が」
「団長命令違反で捕まれば、こちらの手が表に出る。今は引かせる」
ヴィクトルは唇を引き結んだ。
「グレイルには、すでに記録室を名乗った者が接触しています」
「そいつにも戻らせろ。団長室へは行かせるな」
「どう処理しますか」
ガレスは冷えた目でヴィクトルを見た。
「自分で考えろ。お前が動かした駒だ」
ヴィクトルの背中に冷たい汗が伝った。
ガレスは淡々と続ける。
「それから、団長の認識阻害が弱まっている。セヴランへ伝えろ」
「セヴランに?」
「こちらだけでは手を出しにくい。だが、団長が試し石の記憶を取り戻せば厄介だ」
ヴィクトルはわずかに顔をしかめた。
「セヴランは、エリオットと治療師の観察を優先しているようです。こちらの都合では動かないかもしれません」
「動かせ」
ガレスの声は低かった。
「奴も、守護騎士が王都へ戻るのは望まないはずだ」




