眠らされた違和感 3
その頃、オリヴァー工房では徹夜の準備が進んでいた。
作業台には、白石粉を練り込んだ厚手の封印布が広げられている。オリヴァーは鉛銀の薄板を細く切り、布の縁へ縫い込むための溝を作っていた。
隣では、古い弟子のロアンが小型換気具の枠を組んでいる。
ロアンは二十代後半の青年で、無口だが手先が器用だった。かつてオリヴァーの工房で学び、今は独立して小さな修理屋を営んでいる。
「師匠、本当に現地へ行くんですか」
「ああ」
「危ないんでしょう」
「危ないから行く」
「ミラちゃん、また厄介なところにいますね」
オリヴァーは少しだけ笑った。
「昔から、人が困っている場所を見つけるのが上手い子だったよ」
「褒めてます?」
「半分は」
「残り半分は?」
「父親としての胃痛だね」
ロアンは小さく笑ったが、すぐに真剣な顔へ戻った。
「換気具は二台で足りますか」
「足りない。けれど、荷馬車で運べるのは二台だ。現地の風向きに合わせて置く。完全に浄化するものではない。瘴気を含んだ風を白石粉の布へ通して、薄める」
「坑道の中に入らずに?」
「入らない。ミラにも入らせない」
オリヴァーの声はきっぱりしていた。
「坑道内部の箱を処理するのは、もっと準備がいる。今の目的は、村へ漏れる量を減らすことだ」
ロアンは頷いた。
「分かりました」
そこへライヘルが入ってきた。
手にはオルガが書いた黒輪術式の写しがある。
「父さん。黒輪の抑制具ですが、手首全体を覆う形がよさそうです。輪そのものを剥がすのではなく、反応を遅らせるだけにしてください」
「解除はしない」
「はい。解除は危険です。術式の芯に触れれば、ネロという男の魔力路が壊れる可能性があります」
「分かった」
オリヴァーは新しい革布を取り出した。
「なら、内側に白石粉、外側に鉛銀糸。締めすぎない形にする」
「それから、ミラに向けてもう一通書きます」
「書きなさい」
ライヘルは少しだけ手を止めた。
「父さん、現地へ行ったら、無茶はしないでください」
オリヴァーは作業を続けながら言った。
「君たちは最近、そればかり言うね」
「ミラにも言っています」
「あの子は聞いている?」
「最近、少しは」
「なら私も少しは聞こう」
「少しじゃなくて、ちゃんと聞いてください」
オリヴァーは苦笑した。
「分かった。約束する」
王立魔術院の古文書庫では、オルガが一冊の古い禁術目録を閉じた。
彼女の前には、黒輪術式に関する断片的な記録が並んでいる。
契約封じ。
発言遮断。
逃亡抑制。
瘴気を媒介にした魔力路拘束。
古い時代には、罪人や捕虜を縛るために使われた禁術の一種だったらしい。
「吐き気がするね」
オルガは低く呟いた。
人を縛る術式は、記録上は廃止されたはずだった。
だが、廃止されたはずのものほど、地下で生き残る。
彼女は写しをまとめながら、別の資料に目を向けた。
騎士団長アルベルト・レーヴェンに関する古い記録。
試し石の儀式の立会人一覧。
二年前、エリオット・バーンスタンの儀式に立ち会っていた者の中に、騎士団長の名があった。
そして、ガレス・オルブライトの名も。
オルガは目を細めた。
「団長は何を見たんだろうね」
その問いに答える者はいない。
ただ、古い紙が静かに鳴った。
ユアンは、その夜、王都の外れにある小さな馬具工房を訪ねた。
そこにいたのは、片目に古い傷を持つ退役騎士だった。
名はダリオ。
かつてユアンと同じ部隊で戦い、今は王都で馬具職人をしている。
「久しぶりだな、ユアン」
「頼みがある」
「再会早々だな。まぁ、何かあるとは思っていた」
ダリオは工具を置いた。
「危ない話か」
「かなり」
「騎士団絡みか」
「表向きは違う。だが、裏では絡む」
ダリオはしばらくユアンを見ていた。
そして、ため息をつく。
「命を張るほどか」
「私にとっては」
「誰を守る」
「治療しながら旅をしている元同僚と、旅治療師。それから王都から出発する魔道具職人と積荷」
「多いな。一人じゃないのか」
「すまない」
「謝るな。そういう顔をしたお前に頼まれて断ったことがない」
ダリオは棚から古い外套を取った。
「俺は何をすればいい?御者役でいいのか」
「ああ。表向きはオリヴァー工房の荷馬車護衛。目立つ武装は避ける」
「剣は?」
「隠して」
「分かった」
ダリオは短く頷いた。
「出発は?」
「明朝」
「なら、今夜のうちに馬を見ておく」
ユアンは深く頭を下げた。
「助かる」
「その元同僚というのは、エリオットか」
ユアンは顔を上げた。
「分かるのか」
「お前がそんな顔をする相手は多くない。しかも治療中の人物ともなればおのずと絞れる」
ダリオは静かに言った。
「頼まれたからには全力で守る。」
ユアンは一瞬、短く頷いた。
「ああ、よろしく頼む」
深夜。
騎士団長アルベルトは、自室で眠れずにいた。
机の上には、古い儀式記録の写しがある。
試し石の儀式。
新任騎士たちが王家の騎士として剣を捧げる、形式的な伝統。
だが、アルベルトは知っていた。
ごく一部の者だけが知る、その本当の意味を。
試し石は、王家の守護騎士を見つけるためのものだった。
その記憶が、今夜はなぜかはっきり浮かんでいた。
エリオット・バーンスタン。
若い騎士が、剣を振る仕草をした時。
試し石の奥に、白い光が走った。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
「……私は見た」
アルベルトは低く呟いた。
次の瞬間、頭痛が襲った。
彼は机に手をつく。
視界が揺れる。
耳の奥で、誰かの声がする。
――療養が最善です。
――これ以上刺激しない方が本人のためです。
――団長は前線に集中を。
――記録はこちらで処理します。
「誰が……」
アルベルトは歯を食いしばった。
「誰が、私に忘れさせた」
答えはまだ出ない。
だが、眠っていた違和感は、確かに目を覚まし始めていた。
同じ頃、グレイル村では、ミラとエリオットが朝を待っていた。
前夜に眠れたおかげで、二人の顔にはわずかに力が戻っている。
窓辺の反応針は、薄曇り。
坑道からの風はまだ黒い。
けれど、ミラは白花のペンダントを握り、静かに言った。
「今日も、持ちこたえます」
エリオットは左手で杖を持った。
「ああ。救援が来るまで」
まだ遠い王都で、父が動き出したことを二人は知らない。
騎士団長の記憶が揺らぎ始めたことも。
ガレスとヴィクトルが新たな確認を命じたことも。
救援の荷馬車が、夜明けには王都を出ることも。
それでも、確かに。
遠く離れた場所で、いくつもの歯車が音を立てて動き始めていた。




