眠らされた違和感 1
王都騎士団本部の上層階は、夜になっても灯りが消えなかった。
廊下には磨かれた甲冑が並び、壁には歴代騎士団長の肖像画が掛けられている。王家の剣として魔物と戦い、国境を守り、王都の秩序を支えてきた者たちの顔だ。
その奥にある執務室で、騎士団長アルベルト・レーヴェンは、一枚の報告書を見下ろしていた。
白髪の混じる金髪。
長年剣を握ってきた大きな手。
背筋は今もまっすぐで、老いよりも鍛錬の痕が強く残っている。
彼は前線上がりの騎士だった。
魔物討伐で名を上げ、幾度も部下を生かして帰した。王家への忠誠も厚く、騎士たちからの信頼もある。
だが、政治は得意ではなかった。
書類、人事、貴族との調整、予算、記録室の管理。
そうしたものは、長く副団長ガレス・オルブライトに任せてきた。
ガレスは有能だった。
少なくとも、表向きは。
「バーンスタン……」
アルベルトは報告書に書かれた名を、低く呟いた。
エリオット・バーンスタン。
二年前に右腕を負傷し、退団した若い騎士。
将来有望だった。
地方出身ながら剣筋は素直で、魔物を相手にしても怯まない。何より、あの試し石の儀式の時――。
そこまで考えた瞬間、アルベルトのこめかみに鈍い痛みが走った。
「……っ」
彼は眉間を押さえた。
最近、この痛みが多い。
特定の記録を読み返そうとした時。
エリオットの名前を目にした時。
試し石の儀式を思い出そうとした時。
頭の奥に霞がかかる。
何か大事なものを見落としている気がするのに、それ以上考えようとすると、思考が滑る。
扉が叩かれた。
「団長。ガレスです」
「入れ」
入ってきたガレスは、いつものように隙のない身なりをしていた。
銀縁の眼鏡。
整った軍服。
穏やかな声。
彼は一礼し、アルベルトの机の前に立った。
「バーンスタンの件ですか」
「ああ」
アルベルトは報告書を指で叩いた。
「療養状況の確認をしたとある。なぜ今さらだ」
「二年前の退団者記録の整理です。最近、古い記録を確認する動きがありましたので、念のため周辺情報も洗わせました」
「古い記録?」
「魔術院側で、南西辺境討伐任務に関する閲覧があったようです」
ガレスの声は落ち着いていた。
「大事には至っていません。ですが、念のため、関係者の現在地を確認しているところです」
「エリオットは療養中だったはずだ」
「はい。ですが、現在は故郷を離れ、旅治療師と共にグレイル村にいるようです」
「旅治療師?グレイル村?」
「ミラ・コックス。王都魔術学校出身ですが、王都治療院へは入っていません。現在は地方を巡る旅治療師です。」
アルベルトは目を細めた。
「その治療師が、エリオットを診ているのか」
「そのようです」
「腕は」
「回復の確証はありません。派遣した者の報告では、右腕は固定され、杖を使用。療養中と見て差し支えないとのことです」
ガレスは淀みなく答えた。
だが、アルベルトの胸には小さな違和感が残った。
回復の確証はない。
それなら、なぜ報告書はここまで慎重に書かれている。
なぜ、ただの療養確認に、グレイル村という地名が出てくる。
なぜ、エリオットの名を聞いた時、こんなに頭が痛む。
「グレイル村では何が起きている」
「鉱山粉塵による咳症状が出ているようです。旅治療師がその対応をしているのでしょう」
「それだけか」
「今のところは」
ガレスは微笑んだ。
「団長が気にされるほどの案件ではありません。バーンスタンも、復帰できる状態ではない。むしろ、刺激せず療養させるのが本人のためです」
その言葉を聞いた瞬間、アルベルトの思考が少し鈍った。
療養させるのが本人のため。
二年前にも、同じような説明を受けた気がする。
王都治療院でも治療不能。
本人の精神状態も不安定。
これ以上騎士団が関われば、かえって傷つける。
静かな故郷へ帰すのが最善。
そう聞いた。
そう納得した。
本当に?
アルベルトは拳を握った。
「……エリオットは、あの試し石で」
また痛みが走る。
今度は強かった。
視界の端がわずかに霞む。
ガレスが一歩近づいた。
「団長?」
「いや……何でもない」
「お疲れでは。最近、魔物討伐の調整も続いています。細かな退団者記録はこちらで処理します」
ガレスの声は穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
「団長は王家への報告と前線編成に集中なさってください」
アルベルトはしばらく沈黙した。
本来なら、その言葉を受け入れていた。
いつものように。
だが今夜は、なぜか胸の奥に小さな棘が残った。
「エリオットの件は、私にも続報を上げろ」
ガレスの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
「もちろんです」
「グレイル村の件もだ。鉱山粉塵による症状で済むならいい。だが、元騎士がそこにいて、旅治療師が対応している。念のため把握しておく」
「承知しました」
ガレスは頭を下げた。
その顔に、もう乱れはなかった。




