第92話 白樺湖での合宿⑥ 下された裁定
8月20日(月) ―― 07時00分。
18日(土)、19日(日)の2日間、部員たちは午前・午後ともに15kmの疲労抜きジョグと軽めの補強筋トレを実施し、過酷だったスピードトレーニングの疲労を確実に抜いていた。
そして合宿も大詰めを迎えた20日の朝7時頃——。
研修館のロビーで朝の支度をしていたクリスのスマホに、東相大学の「理事長・大舘さおり」から緊急の着信が入った。
「……ええ、分かりました。天馬と一緒にロビーでお待ちしております」
電話を終えたクリスに向かい、隣で聞き耳を立てていた天馬が心配そうに尋ねる。
「何かあったかい? まさか……また新しいトレーナーの依頼とかじゃ……」
「ふふ、大丈夫よ。また別の指導依頼とかではないわ。……あと10分ほどでこちらに到着されるから、話を聞いてから本日の練習に入ってほしいとのことよ。それと……三上……ルイを同席させてほしいと」
「ルイを……? そうか、先月のあの件だな」
天馬とクリスは即座に察した。
先月7月15日に行われた『関東州大学長距離競技会』にて、レース中に三上ルイが他大学(西北大学)の選手から露骨な走行妨害を受けたあの不祥事の件である。
7時10分頃——。
研修館のエントランスに漆黒の高級ワゴン車が横付けされ、理事長とともに黒のパンツスーツに身を包んだ40代ほどの凛とした女性と、同じくパンツスーツ姿の若い女性がロビーへと入ってきた。
ソファーに向かい合って腰掛け、理事長が二人を紹介する。
「天馬さん、クリスさん、三上さん。朝早くに申し訳ありません。こちらの方は、【関東州大学陸連競技委員会】会長の大沢さん。そして、学生役員(幹事長)を務める高崎さんです」
「お初にお目にかかります、関東州大学陸連の大沢です。本日は先日の競技会における重大な処分結果をご報告に伺いました」
挨拶もそこそこに、会長の大沢が重々しい口調で本題を切り出した。
「まず、7月15日の競技会において【三上ルイ】選手に対し、露骨な進路妨害を行った西北大学の選手2名についてですが――競技委員会の精査により『故意の進路妨害』と認定いたしました。競技規則に基づき、当該レースを『失格』処分と決定いたしました」
※なお、一緒に走っていた他2名の選手については、1名は単にハイペースで引っ張っただけ、もう1名は三上に追走していただけと判断され、処分の対象外となった。
「失格……ですか」
「……!」
クリスと三上が驚きで息をのむ。天馬は「まあ、妥当な線だろうな。1ヶ月はちょっと時間がかかりすぎた気がするが」と冷静に受け止めていた。
だが、大沢会長の口から語られた真実は、単なる選手同士のラフプレーにとどまらない、さらに根の深い不祥事であった。
「問題はここからです。当日参加していた西北大学陸上部の部員および関係者への聞き取り調査を行った結果……三上選手への走行妨害を直接指示したのが、当日グラウンドで指揮を執っていた西北大学陸上部の監督(女性)であったことが判明いたしました」
「「「監督が……!?」」」
クリスと三上、そして理事長が声を揃えて絶句した。
「当陸連にて本人へ直接問いただしたところ、指示の事実を認めました。指導権の濫用、非淑女的行為、および重大なコンプライアンス違反と認定し、関東州大学陸連競技委員会の規則に基づき、西北大学陸上部監督に対し【6ヶ月間の資格停止処分】を課すことを決定いたしました」
大沢会長が手元の書類を提示する。
「この決定により、当該監督の【公認スポーツ指導者資格】および【陸連登録資格】は即座に凍結されます。資格停止期間中は、大会での指揮、選手への公式な指導、競技場への立ち入りが一切禁止されます」
さらに、連盟は前代未聞の【牽制措置】まで盛り込んでいた。
「もし資格停止期間中に裏での指導や違反行為が発覚した場合、来年1月に開催される『箱根駅伝』において、違反1件につき5分のペナルティタイムを課すことといたしました」
「箱根で……5分遅れのペナルティ!?」
三上は目を丸くした。
西北大学は、5か月後に開催される「箱根駅伝」本大会のシード権を獲得している。違反が一件発生するごとに、5分遅れでスタートしなければならないというペナルティが科されるのだ。
西北大学は箱根駅伝の常連でもある強豪校である。そんなチームが、本番を目前に控えたこの時期に指揮官を完全に失うことは、大学にとって痛恨の極みであり、致命的な打撃となるのは間違いなかった。
天馬以外の全員がその重い処分に息をのんでいたが、天馬自身は「ふん、まあそんなものか」と特に動じた様子も見せない。
「世界大会の泥臭いレースに比べたら、これくらいよくあることだけどね。見えないところで elbow(肘打ち)や Heel-kick(踵蹴り)が飛んでくる世界なんだから」
「「「え……?」」」
天馬が事もなげに言った持論に、大学陸連役員の2人も、理事長も、クリスも三上も目を見開いてフリーズした。
大沢会長は深々と息を吐き、さらに衝撃の事実を告げた。
「事態はそれだけにとどまりません。当日、現場で指揮を執っていた審判長およびトラック審判1名が、反則行為をその場で認識していながら失格とせず『警告』のみで済ませた不自然な対応についても調査を行いました」
「やっぱりな……そこが一番おかしかったんだ」
僕は腕を組んで頷く。大沢会長が恥じ入るように頭を下げた。
「調査の結果……当該審判2名が西北大学のOGであり、監督と古くからの昵懇の間柄であったことが発覚いたしました。監督からの直接の依頼はなかったものの、『母校の選手を不利にしたくない』という身勝手な忖度があったことを本人が認めました。この審判2名についても、【6ヶ月間の資格停止および再教育処分】といたしました」
そう言って、大沢会長と高崎幹事長は、天馬とクリス、そして被害者である三上に向かって深々と頭を下げた。
「公正であるべき競技の場において、このような醜悪な不正を防止できなかったこと、深くお詫び申し上げます。本当に、申し訳ありませんでした」
大学陸連のトップが深々と頭を下げる光景に、クリスも三上も言葉を失っていた。
だが――天馬はまったく怒っていなかった。
天馬はこの世界線に転移してきた当初、動画サイトでトラック競技(1500m〜10000m)の過去映像を徹底的に分析していた。その際、審判の死角で1レーンの選手に肘打ちを喰らわせたり、意図的にポケット(囲い込み)を作って優勝候補を閉じ込めたり、前を走るランナーのカカトをかすめるように蹴ったりする嫌がらせが、この世界の陸上界(女性のみ)でも横行しているのを確認していたのだ。
天馬は静かに立ち上がると、大学陸連役員の2人に向かって優しく語りかけた。
「大沢会長、高崎さん。頭を上げてください。……僕から一つ“お願い”があるのですが?」
「え……? お願い、ですか?」
天馬は穏やかな、しかし芯のある強い瞳で二人を見つめた。
「レース中のポジション争いや多少の接触、小競り合いというのは、世界大会の舞台へ行けば日常茶飯事です。三上は将来、間違いなく日本代表として世界へ羽ばたく選手です。今回、審判の目をごまかすような汚いラフプレーを身をもって体験できたことは、彼女にとって教科書には載ってない最高の経験になりました」
天馬は言葉を区切り、なんと大学陸連の役員に向かって逆に深々と頭を下げたのだ。
「ですから……不正をしてしまった審判の方々や、西北大学の皆さんに対し、どうか最大の恩赦を与えてあげてはくれないでしょうか。これ以上追及せず、彼女たちの再起を温かく見守ってあげてほしいのです」
「「「ええええぇぇぇっっーーー!?!?」」」
ロビー全体に、ひっくり返るような驚愕の声が響き渡った。
被害者側である天馬が、不正を働いた相手や忖度した審判に対して「恩赦を与えてください」と頭を下げたのだ。クリスも理事長も、そして三上ルイ本人すらも開いた口が塞がらない。
大沢会長は目を丸くして固まっていたが、やがて感極まったように目元を濡らし、静かにかぶりを振った。
「甲斐田さん……あなたというお方は……なんと器の大きい……! ですが、今回の不祥事は他方面への示しがつきませんので、下した処分は規定通り執行させていただきます。……ただ、甲斐田さんがおっしゃってくださった温かいお言葉は、失意の底にいる審判2名と西北大学へ、必ず私が直接伝えます」
そう言って、大学陸連の役員2人は何度も天馬に感謝の礼をしてから、処分の詳細が記された書類を置いて、研修館をあとにしていったのだった。
役員たちを見送ったあと、クリスが呆然とした様子で天馬の顔を覗き込んだ。
「天馬……『恩赦』だなんて、本気で言ってるの? あなたなりの考えがあるのかしら?」
天馬は微笑みながら、隣に立つ三上ルイの肩に“ぽん”と手を置いた。
「もちろんだよ、トラック競技において、選手は誰もが勝つために必死だ。自分の有利なポジションを取るために、肘を張ったり身体をぶつけてきたりするのは、世界基準で見れば当たり前の攻防なんだよ。ルール違反ギリギリの“グレーゾーン”を突いてくる相手は、世界中にごまんといる」
「ルールギリギリの攻防……」
クリスは静かに応える。
「そう。だからこそ、そうした『審判に見えない反則』や体当たりに遭遇した時、走りを乱されずに跳ね返すための物理的な強さが必要になる。僕がいつもみんなにやらせている『体幹トレーニング』はね、単に走りのフォームを保つためだけじゃないんだ。相手の体当たりに負けない軸を作るためでもあるんだよ」
天馬の言葉が、三上ルイの胸にまっすぐに突き刺さった。
「ルイ!君はあの競技会で、誰よりも過酷な妨害を受けながらも、折れずに最後まで走り切った。あの経験と、鍛え上げた体幹があるからこそ、君はこれから世界で戦える強いランナーになれるんだ。だから……あの妨害すらも、君の成長のための糧なんだよ」
天馬の温かく、どこまでも高い次元を見据えた言葉に、三上ルイの瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「天馬コーチ……っ!! そこまで……そこまで私の将来のことを考えてくださっていたなんて……っ!!」
いつも冷静沈着で、感情を表に出さない三上が、涙を流しながら天馬の胸へドカンと飛びついて抱きすくんだ。
「天馬コーチ……っ! もし天馬コーチが女性だったら……私、完全に惚れてしまってます……っ!! 大好きです、天馬コーチ……っ!!」
「わっ、ちょっと三上……!? 泣かないでくれよ」
僕は困惑しながらも、我が子を撫でるように三上の頭を優しくポンポンと撫でてあげるのだった。
その感動的な光景を横で見ていたクリスと理事長は、いつもクールな三上が見せた感情の爆発に目を丸くしつつも、温かい微笑みを浮かべていた。
この処分決定と天馬の「恩赦」の言葉は、その後のミーティングで部員全員へ共有された。
婚約者の蘭(鳴野)は当初「西北大学のやつら絶対に許せない!」とカンカンに怒っていたが、天馬の意図を聞くと「……さすがテンさん! 考えのスケールが違いすぎるぞ……!」と、目をトロトロに輝かせて天馬へ心酔するのだった。
―—こうして、先月の走行妨害事件は完全に決着を見た。
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ちなみに――。
18日、19日の2日間の夜、天馬の部屋へ訪れたのは婚約者の蘭であった。
排卵の当たり日を無事に過ぎた第二夫人の朱里が、「今日からは蘭ちゃんにダーリンを譲るわね♪」と気を利かせて別の客室へ移動してくれたからだ。
蘭は千代乃から夜のテクニックを伝授されていたらしく、天馬が驚くほど“ご奉仕”が上達していた。
何より、天馬の深い愛を一身に受けた蘭は、この2日間ずっと肌にツヤが宿り、全身からハッピーなオーラを放っていたのだ。
「テンさん、首筋とお腹に痕つけて!」という蘭のリクエストに応え、天馬が全身にたっぷりとマーキングを刻み込んであげたところ、翌朝の蘭はそれを一切隠すことなく堂々と披露。研修館に滞在する他の女子学生たちから「いいなぁ……」「男神様のキスマーク……」と、熱い羨望の眼差しを浴びて優越感に浸っていた。
……ただ一つ、困ったことといえば。
今朝の朝食時、大勢の女子学生や部員たちが集まる食堂の真ん中で、蘭が自分の下腹部をポンポンと可愛らしく叩きながら――
「テンさんチャージ、まーーんたーーん♡ 今日の練習も頑張れるぞ〜っ!」
と、館内全体に響くような大声で言い放ったことくらいか。
「ら、蘭……っ! 人前で何言ってるんだよ、恥ずかしいからやめなさいっ!」
僕が顔を真っ赤にして注意すると、周囲の女子学生たちは「男神様のチャージ……」「えっっ!……男神様の子種……!」「濃厚な夜だったのね……っ」と、ドロドロに蕩けた眼差しを天馬へ送ってくるのだった。
「ふふっ、だって本当のことだもん♪ テンさん、大好きっ!」
僕の腕にギュッと抱きつく蘭。
ちょっとした恥ずかしさに頭を抱えつつも、愛する婚約者(第7夫人候補)の笑顔と絆を胸に、天馬たちの白樺湖合宿は最高の雰囲気のまま、いよいよ集大成へのステップへと進んでいくのだった。
【あとがき】
ようやく先月の走行妨害に関する裁定が下りましたね。聞き取り調査等を含めると大体1ヶ月ほどかかるので、作中でもこのタイミング(今話)で裁定を下すことにいたしました。
トラック競技はまさに“走る格闘技”です。勝つためには見えない場所での壮絶なポジショニング争いがあり、いくら圧倒的な走力があってもポジション取りは欠かせません。実体験からも、やはり「1レーンのトップから3~4番手付近」をキープし続けられる選手が最も優位だと感じています。
そうした小競り合いを制するためには、体幹とメンタルの強い選手が生き残る世界でもあります。三上ルイにとっても、今回は非常に大きな糧となる経験ができたのではないかと作者自身も思っております。今後のさらなる活躍にご期待ください!
次回の更新は金曜日を予定しております。
今後とも本作品をよろしくお願いいたします。




