第90話 白樺湖での合宿⑤ 大詰めを迎えたスピードトレーニング
8月17日(金)
あれから1週間以上が経過した――。
合宿中の「長距離・駅伝部」の練習メニューは、僕が考案したスケジュール通り極めて論理的かつ厳格に運用されていた。
午前の練習では「女神湖陸上競技場」を使ったスピードトレーニング――インターバル走を実施。
午後は女神湖周回コースを使い、6分30秒/kmほどのペースで15kmから21kmのゆっくりとしたジョグを行う。
そして練習の最後には体幹トレーニングと自重による筋力トレーニングを行い、その日の練習を終了する。
ただし、メインのスピードトレーニングを行った翌日は、女神湖周回コース(一周1.8km)で20km〜25kmのイージーペース走(Eペース:4分15秒〜4分30秒/km)を3組に分けて走り、午後は15kmの疲労抜きジョグと軽めにした。
最後は体幹トレーニングだけにして終了する。
つまり「スピード練習」と「繋ぎのイージーペース走」を交互に組み込んだサイクルを徹底したのである。
僕の経験から、2日間続けてのスピードトレーニングは、シンスプリントなどの故障のリスクが高まる危険性があるからだ。
準高地でのスピードトレーニングは、効果が期待できる反面、故障のリスクもはらんでいる。決して楽ではないし昨日今日で簡単に出来るものではない。
部員達は、ここまで来るために4ヶ月もの間、地味で泥臭い基礎固めをしていた。その効果が現れたことにより、誰一人として故障者を出すことなくこの過酷な準高地でのトレーニングに全員がついてきている。
そして、その陰には朱里の存在も大きかった。
看護師である朱里は、練習後の部員たちの状態を細かくチェックしてくれていたのだ。
「ちょっと待って。蘭ちゃん、昨日よりふくらはぎ張ってない?」
「え? そう?」
「そう。ちょっと触るね」
「……どうですか?」
「軽い張りだけだから大丈夫。でも今日はケアをしっかりしておこうか」
「ありがとうございます」
「ゼッタイ無理はダメだからね」
そんなやり取りが、合宿中のあちこちで見られるようになっていた。朱里の細やかなケアのおかげもあって、部員たちの疲労の蓄積も上手くコントロールできている。
僕も自身のトレーニング時間をしっかり確保でき、夜は朱里の「極上のケア?!」によって疲労を残さず、スッキリとリフレッシュする日々を送っていた。
期間限定で引き受けたラグビー日本代表チームのフィジカルトレーナーも、僕のメニューに従って実施しており、代表チームの選手らは着実に力をつけてきている。
今さらながらではあるが、理事長から聞いた話しによると、来年(2019年)に「ラグビーワールドカップ・2019」がここ日本で開催されるのだそうだ。
そのための代表合宿なのだそうだ。
そして、毎週水曜夕方に実施している「東相大学ラグビー部」へのフィジカル指導も大詰めを迎えていた。
すでにトレーニングの効果による体系化——フィジカルの強化とパワーアップとスピード強化と回復力の強化は完了に近づいており、僕が驚くほどの成長を遂げた選手たちを見ながら、内心(……もう僕がフィジカルコーチとして教えることは残りわずかだな)と確かな手応えを感じていたのである。
――ただ一つ、8月15日(水)に大きな出来事があった。
東相大学ラグビー部が、信州長野県をホームとする最高峰プロリーグ“R1”所属の「信州ヴァルキリーズ」と練習試合を実施。この日限定で日本代表合宿から戻っていた義妹のリリカを含む5名の東相大学の日本代表候補組も合流した。
結果はなんと――東相大学ラグビー部の圧勝であった。
圧倒的なフィジカルの強さと無尽蔵のスタミナと、終盤まで一切落ちないスピードで試合を完全に支配し、最高峰プロチーム相手に“6トライ”を奪う大金星を挙げたのだ。プロ側は意地の1トライを返すのが精一杯という惨敗であった。
この世界線におけるラグビーは、R1を頂点としR2、R3、R-Next(控え選手のリーグ)までの4つのカテゴリーに分かれる超人気スポーツだ。
当日のグラウンドには10000人を超えるギャラリーが詰めかけていた。
「すごい熱気ね……」
「ほんと……すごーい!」
「ああ、本当に凄いな……」
観客席でクリスや朱里とともに観戦していた僕は、練習試合であるにも関わらず、多くの「信州ヴァルキリーズ」のユニフォームを着たサポーターが応援に訪れている光景に目を奪われていた。
およそ9割ほどがプロチームのサポーターだった。
更に驚いたのは集まった観客のうち約500名ほどもユニフォームを着た男性ファンがいたことだ――それも殆どが高校生くらいの美少年たちが、目を輝かせて女性ラガーウーマンへ惜しみない熱い声援を送っていたのだ。
この世界線における男子高校生ともなれば結婚を意識しなければならない年齢(16〜18歳)となる。
そんな熱い声援を送る男子高校生らは、少しでもプロ選手の気を引こうと必死に熱い声援を送っていたのだ。
男性にこれほど愛されるスポーツであれば、女性たちが目指すのも当然だと僕は深く納得した。
ちなみに、ヨッシーこと「高木良明」(本名:大舘真人、クリスとリリカの父親で理事長の夫)も撮影の合間をぬって映画の役である「清野隆」の姿で練習試合を静かに観戦していた。
完全に役になりきっていたこともあり、大物俳優の「高木良明」とは気付かれなかったが、黒スーツにサングラスをかけた護衛(全て女性)4名を引き連れており、威厳とオーラがあって逆に目立ってしまっていた。
その圧倒的に発せられるオーラから、観客らには「ヴァルキリーズのオーナーの一人か?」と勘違いされていた。
大学チームがR1プロチームに勝った。この大金星はマスコミで大々的に報じられ、試合後にリリカが熱狂気味に試合後のインタビューに答える。
「今回の勝利は、すべて天馬兄さん―—いえ、甲斐田コーチの指導のおかげです!」
その言葉がテレビで流れるたびに、ネット上ではさらに騒ぎが大きくなっていった。
『日本代表とリリカちゃん率いる東相大が対戦したら、東相大が勝つんじゃない?』
『今日の試合見たけどマジで強い!』
『あのフィジカル何なんだよ!』
『プロ相手に終盤まで走力が落ちないのヤバすぎる!』
そんな書き込みが大量に並んでいた。
さらに――。
『男神どんだけ凄いんだ!』
『東相大には男神が付いてる!』
『また男神が日本代表のフィジカルコーチになった!』
『これで次こそワールドカップ優勝だ!』
『男神がついてれば、ハワイに勝てる!』
……などなど。
僕に殺到しかけたマスコミ取材は、沖ホールディングス広報部長である第五夫人の愛理が速攻で仕切って防いでくれた。天馬は電話口で愛理に深々と感謝を伝えたのだった。
~~~~~~~~~~
―—そんな大狂乱の余波が冷めやらぬ、8月17日(金)の朝食時——
その余波は、白樺湖の合宿所にまで届いていた。朝食のため朱里と一緒に食堂へ入った瞬間だった。
「あっ!」
「甲斐田コーチ!」
「アテナ!……朱里さん!」
と声が飛んでくる。
見ると、別の大学から来ている学生たちがこちらへ駆け寄ってきた。どうやら新しく始まったサークル合宿やゼミ合宿の参加者らしい。ほとんどが女子学生だった。
「すみません、サインお願いしてもいいですか?」
「私も!」
「ツーショット写真、いいですか?」
「アテナ……朱里さんとも撮りたいです!」
僕は朱里と顔を見合わせた。
「……これで何回目だ?」
「さあ?」
朱里が笑う。
「でもダーリン、人気者だから仕方ないよ」
「朱里もだろ」
「えへへ」
僕たちは気さくに応じた。
「ありがとうございます!」
「頑張ってください!」
「応援してます!」
そんな声に手を振って応えていると、今度は少し離れたところから10人ほどの男子学生たちが近づいてきた。
「甲斐田さん……ファンです!写真、お願いできますか?」
「もちろん」
「サインもいいですか?」
「いいよ」
憧れの眼差しでサインを求めてくる男子学生らに、僕は一人ひとりに丁寧に対応した。
この男女が逆転した世界では男性そのものが少なく、男性アスリートは僕しかいない。
だからこそ、男子学生たちからすれば僕は憧れの存在なのだろう。
そんな様子を少し離れたところから見ていたクリスが、呆れたようにため息をついた。
「サービス精神旺盛なのはいいけど、二人とも少しは自重してよね」
僕と朱里は顔を見合わせる。
「……はい」
「はい」
二人そろって笑ってごまかした。
「まったく……」
クリスは呆れたように言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
~~~~~~~~
「女神湖陸上競技場」へ移動し、午前の練習が始まる。
秋の気配を微かに含んだ冷涼な風がトラックを吹き抜ける中、僕は凛とした声で全員へ告げた。
「みんな、合宿のスピードトレーニングもいよいよ大詰めだ。今日は、最もキツく、そして最も走力が跳ね上がるメニューを行う。1600m×5本(レスト3分完全休養)のインターバルだ!」
部員たちにどよめきが走る。トラックを4周回(1600m)という中途半端で絶妙な長さを疾走するのは、肉体のみならず精神的にも極限の苦痛を伴う。
「1600mは無酸素領域と有酸素領域のギリギリを攻める。身体的にも精神的にも強烈な負荷がかかるが、これを乗り越えれば確実に箱根への道が開ける! 各自のVDOT値に基づいた設定ペースを厳守すること!」
いつものようにA〜Eの5グループに分かれ、天馬は三上と蘭(鳴野)のAグループのペーサーとして先頭に立った。
『位置について――スタート!』
男子マネージャーの掛け声とともにスタートする。
1本目から、部員たちは酸欠で顔を歪めた。
3本目を終えた時点で、全員が膝に手を置き、荒い息を吐きながら俯く。しかし、誰一人としてトラックへ座り込む者はいない。
「途中で尻もちをつくと乳酸が固まり、身体が完全に動かなくなる」という天馬の教えを愚直に守っているためだ。
設定タイムはなんとか全員がクリアしていたものの、疲労と苦痛で全員の表情は暗く沈み込んでいた。
その時――先頭で息を荒げていたキャプテンの蘭が、バッと顔を上げた。
「みんな!! そんな暗い顔するなっ!! 笑顔を作れーっ!!」
蘭の鋭い一閃が、トラックに響き渡る。
「コーチがいつも言ってたでしょ!『苦しい時こそ笑顔だ』って!! このあとコーチは地獄の自主トレをやるんだぞ!? 私たちがここで潰れてどうするのよっ!! あとたったの2本……ここでへたれたら女が廃るわよっ!! 私たちは箱根に行くんでしょーーーっ!!」
「「「オオォォォーーーーーッッ!!!!」」」
蘭の魂の叱咤に、部員たちの瞳へ一瞬で火が灯った。
(……すごいな、蘭。最高のキャプテンだよ)
僕とクリスは顔を見合わせ、頼もしすぎる蘭の姿に胸を熱くした。
男子マネージャーの鷹司君と一条君も声を張り上げる。
「あと二本です!」
「絶対いけます!」
4本目、そして極限の5本目――。
部員全員が限界を超えたスパートを見せ、誰一人遅れることなく、見事に1600m×5本を設定タイム通りに駆け抜けたのだった。
「ハァッ……ハァッ……っ!!」
走り切った瞬間、全員がトラック内側の芝生へとなだれ込むように倒れ込んだ。
天馬、クリス、朱里、マネージャーたちが即座に駆け寄り、スポーツドリンクを配る。立ち上がれない部員には、天馬が優しく頭を起こして水を飲ませて回った。
「ナイスランだ、みんな! 本当によく耐え抜いた!」
天馬は部員全員に労いの言葉をかけた。
「きつい……!」「もう無理……」
「……できた」「五本、全部……」「設定タイム、守れた……」
「ハァ……ハァ……っ! コーチ……ありがとうございました……っ!」
激しく胸を上下させながらも、部員たちの瞳は眩しいほどの達成感で満ちあふれていた。
部員たちが芝生で荒い息を整える中、僕はスタートラインへと向かった。僕自身のトレーニングをするためだ。
身体を冷やさないよう、部員たちは倒れ込んだまま僕の走りを見守る構えだ。
(みんなが最高の走りを見せてくれたんだ……僕がダサい走りを見せるわけにはいかない!)
僕のメニューも同じく【1600m×5本】のインターバル走だ。
だが、設定タイムは【疾走4分23秒(2分45秒/kmペース)/レスト2分30秒】という超高負荷である。
「天馬コーチ! ファイトーーーッ!!」
スタートと同時に、蘭が一番大きな声を張り上げた。それに続いて部員たちからも「コーチー! 頑張ってー!」と声援が飛ぶ。
驚異的なスピードと流れるような美しいフォームで、天馬は1本、2本、3本と精密機械のようにラップを刻む。しかし、1600mという絶妙な距離と高地の薄い空気は、容赦なく天馬の心肺を破壊しにかかる。
4本目を終え、天馬の表情が激しい苦痛で歪んだ。完全に一杯いっぱいの状態だ。
「よしっ……!! ラスト一本……っ!!」
天馬は叫び、スタート地点の脇に立っていた蘭に向かって右拳を突き出した。
蘭は満面の笑みを浮かべ、自分の小さな拳をコツンッと天馬の拳へ重ね合わせた。
「テンさん! ラスト、行ってきて!!」
「おうっ!!」
僕はラスト5本目。限界を超えた脚を動かし最後の一本をスタートさせ最初から全力に近いペースで押していく。
一周、二周、三周、そして最後の一周。
脚は重く呼吸も苦しく吐く息は生臭い。
それでも――(あと400m……!)
最後の直線にさしかかると蘭の声が聞こえる。
「いけぇぇぇぇ!」
「コーチー!」
「頑張れー!」
部員たちの声も重なる。僕は最後までフォームを崩さなかった。
そして――ゴール!
僕は4分23秒フラットでゴールラインへと飛び込んだ。
「ハァッ……! ハァッ……! ぐっ……!」
さすがの天馬もその場に膝から崩れ落ち、芝生の上へ仰向けに倒れ込んだ。
すかさず駆け寄ってきたのは、汗ばんだユニフォーム姿の蘭だった。蘭は滑り込むように天馬の頭を自分の太ももに乗せ、至高の「膝枕」をしてくれた。
「テンさん……すごい! すごいよぉ……っ! はい、お水飲んで!」
「……ふぅ。ありがとう、蘭……」
口元に運ばれたボトルから水を飲みながら、天馬は蘭を見上げた。首筋から漂う蘭の汗は、甘く香ばしい匂いがして、疲れた心身を心地よく癒やしてくれる。
その光景を、トラックの外側から朱里とクリスが微笑ましく眺めていた。
「ねえ、くーちゃん。私……“当たり日”は過ぎたから……今日から蘭ちゃんにダーリンとの夜(褥)を譲ろうかしら」
朱里が自分のお腹を愛おしそうに撫でながら呟くと、クリスは目を丸くして身を乗り出した。
「えっ!? 本当に!? 後で蘭に言っておくわ!朱里さん、ありがとう!」
「ふふ、私もくーちゃんと同じように、ダーリンの子を身籠れたらいいな〜って思ってね」
顔を見合わせてクスリと笑い合う二人の妻。
合宿も残りあと4日、過酷な「準高地スピードトレーニング」を完遂しつつある部員たちは、確実に一皮も二皮も剥けて強くなっていた。そして天馬自身もまた、アスリートとして、指導者として確固たる手応えを掴んでいた。
(よし……明日と明後日は軽めの繋ぎにして、20日にハーフマラソン(21.0975km)のタイムトライアルをやろう)
女神湖の澄んだ風が、汗ばんだ天馬の肌を爽やかに撫で抜けていくだけであった。
【あとがき】
最後までお読みいただきありがとうございます。
明日投稿予定の「閑話5」では、クリスとリリカの義父・大舘真人と「信州ヴァルキリーズ」との関係性を掘り下げています。あわせて、本作の世界線において長野県がプロチームを所有できている理由や背景についても触れていますので、お楽しみいただけますと幸いです。
本編第92話の更新は来週月曜日を予定しております。
作品への★評価や感想・ご意見などもお待ちしております。いただいた応援は、今後の執筆の大きな原動力となっております。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




