第87話 白樺湖での合宿② 予期せぬ訪問者と契約
8月8日(水) 早朝5時30分――。
高原の静寂に包まれた研修館の客室に、柔らかい朝の光が差し込んできた。
昨日は白樺湖に到着して早々、朱里の強烈な“欲望の急襲”を受けて翻弄された僕だったが、昨夜は一転して、僕のリードのもとで甘い時間を過ごしていた。
朱里の豊満で張りのある胸部装甲を存分に有効活用し“ご奉仕”――させたのだ。
最初は加減が分からずに、ぎこちなさのあった朱里だったが、愛里から教わったのか⋯⋯最近ではすっかり上達し、甘やかな恍惚へと誘う術を身につけていた。だが昨夜は、そのあまりの気持ちよさと愛おしさに、僕もつい感情が高ぶり、勢いで朱里の首筋にクッキリとした紅いマーキングを刻み込んでしまったのだ。
「……ふんっ♪ふふふふふふ♪、ふんっ♪、ふんっ♪……♪ ふんっ♪ふふふふふふ♪、ふんっ♪、ふんっ♪」
(笑〇のテーマ曲のつもり)
ふと目を覚ました僕の耳に、洗面所から漏れ出てくる甘い吐息が届いた。
覗いてみると、全裸のまま洗面所の大きな鏡の前に立つ朱里が、ウットリとした表情で自身の首筋をなぞっていた。指先で愛おしそうに撫でているのは、昨夜僕が刻みつけたばかりの鮮烈なキスマークだ。
(うわっ!……やっぱり、かなり大きく付けちゃったな……)
男性側から付けられる痕は、この世界線において「至高の愛の証明」だ。鏡に映る自分自身の姿に酔いしれる朱里は、後ろから僕が近づいてきたことに気づくと、くるりと振り返り、花が咲くような満面の笑みを向けた。
「おはよう! ……ふふっ、見て見て〜? ダーリンがこんなに素敵な痕を残してくれて、私、本当に幸せ……!」
「あ、朝からそんなに堂々と見せられると、ちょっと恥ずかしいんだけど……」
天馬が照れくさそうに頬をかくのを余所に、朱里は「何言ってるの! 隠すなんて勿体ないわ!」と胸を張り、朝食の席へもその首筋を堂々と露出しながら向かったのだった。
当然のことながら、朝食時の食堂ではちょっとした大騒ぎとなった。
「ちょっと朱里さんっ……! その首筋、まさか天馬に……!?」
「キャーッ! ズルい! ズルすぎます朱里さんっ!」
クリスと蘭が驚き、少し声を上げてしまう。すると、部員や他の女子学生たちの視線が集まり騒めいてしまう。
そんな女性(女子学生)らの注目を浴びながらも、朱里は隠す素振りなど微塵も見せず、むしろ「どう? 凄いでしょ?」と言いたげな勝利者の微笑みを浮かべている。向かいに座る天馬は、ただただ肩を小さくして、苦笑いしながら味噌汁を啜るしかなかった。
午前8時。
研修館の多目的広場に部員30名が集まり、入念なストレッチを行ってから、本日のトレーニングがスタートした。
「よし、全員揃ってるね。今日の午前中のメニューを説明する」
僕がが部員たちの前で爽やかに声を張る。
「この標高(1400m)に身体を適応させるため、今日も白樺湖の周回コースを使ってじっくりと距離を踏む。午前中は20kmでペースはキロ5分15秒だ。午後も同じペースで15kmを予定している」
「「「はいっ!」」」
昨日と同じく、部員たちは東相大学の公式セパーレートウェア(水色のブラトップにブルーのショーツ)姿となり、僕も胸元までのピチピチなノースリーブとローライズのショートタイツという露出度の高いユニフォーム姿に着替えた。そこから全員で軽く走り、起点となる白樺湖畔の公共駐車場へと移動する。
駐車場には、すでに監督のクリスと男子マネージャー陣、そして救護要員の朱里が冷えたドリンク類を整列させて待機していた。担当官の北川さんと護衛たちも万全の体制で周囲を警戒している。
「白樺湖の周回コース(1周3.8km)を、6名ずつ5つのグループに分かれて走るぞ。僕も一番先頭のグループに入る」
天馬は全員の顔を見渡しながら、事故やトラブルを防ぐための指示を出した。
「コースは公道だから給水時に歩行者や観光客の皆さんの邪魔にならないよう、全員給水ポーチを装着してペットボトルのスポーツドリンクを携帯すること。給水は必ず1周ごとに各自しっかり摂るように!」
「「「はいっ!!」」」
こうして今日のトレーニングがスタートした。
午前9時前の白樺湖畔は、すでに観光客で賑わい始めていた。
澄んだ湖面には色とりどりのスワンボートが浮かび、沿道のホテルや土産物店、カフェからは香ばしい匂いが漂ってくる。
(改めて見ると……元の世界の白樺湖と変わらないくらい、本当に綺麗な湖だな)
走りながら、天馬は周囲の景観に目をやった。
美しい湖面を阻害しないよう配慮されたホテル群、そして立ち並ぶ飲食店。この世界線ではスキーリゾートや夏場のアクティビティ(テニスコートやアウトドアスポーツ)が非常に発達しているため、かなりの賑わいを見せている。
しかし、走ってみて気づくことがあった。沿道やランニングコースですれ違うランナーは、観光客と思われる女性が数名いる程度で、他大学の陸上部や実業団チームの姿はまったく見当たらない。
(そうか……この世界線には『準高地トレーニング』という概念自体が存在しないんだ。だから、こんな最高の環境があるのに、ここで合宿をするスポーツチームが一つもないんだな)
天馬は改めて自分の持ち込んだ知識の価値を実感していると、すれ違う観光客の女性たちが一斉に歓声を上げた。
「あっ、見て! 甲斐田天馬さんよっ!」
「カッコいいーーっ! 天馬さ〜ん!」
「ハーイ、みんなおはよう! 事故に気をつけて楽しんでね!」
僕が気さくに手を振って爽やかな笑顔を振りまくと、黄色い悲鳴が湖畔に響き渡る。その横では、ピンク色のバイクジャージに身を包んだ僕の護衛2名が、ロードバイクでピタリと並走しながら僕の安全を確保していた。
1時間40分後――午前10時半過ぎ。
予定通り20kmのジョグを走り切り、全員が起点である公共駐車場へと戻ってきた。
「ハァ……ハァ……! 20km、走り切ったぁ……!」
標高の影響もあり、部員たちは少しだるそうな表情を浮かべていたが、やり切った達成感に溢れていた。
「みんな、ナイスラン! 監督たちが用意してくれたスポーツドリンクを、とにかく多めに摂取して。水分補給もトレーニングの一部だ!」
「「「はいっ、ありがとうございます!」」」
部員たちにしっかり水分を摂らせた後、研修館へと帰還する。午前中の練習を終了し、午後の練習は14時から行う旨を全員に告げた。
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着替えを済ませた天馬は、研修館のロビーにあるふかふかのソファに腰掛けていた。
周りには北川さん、護衛たち、朱里、クリス、そして婚約者の蘭が並び、淹れたてのコーヒーを飲みながら和やかに寛いでいる。
そこへ――。
「あら、みなさんお揃いね。お邪魔するわよ」
高身長ながらも上品で豪奢な雰囲気を纏った女性が、満面の笑みを浮かべてロビーに入ってきた。
東相大学理事長の「大舘さおり」さんだ。
「りっ、理事長……!?」
僕は思わず身構えてしまうが、ここは東相大学が所有するセミナーハウスなのだから、理事長が訪れること自体は何もおかしくはない。
だが、僕の直感が「何か厄介なことが起きる」と激しく警鐘を鳴らしていた。
理事長は優雅な所作で天馬の真向かいのソファに腰掛けると、挨拶もそこそこに本題を切り出してきた。
「天馬さん、急な話で申し訳ないのだけれど……予定通りラグビー部のフィジカルトレーナーをお願いしたいの」
「えっ? ですが、僕たちは今ここで合宿中ですよ?」
僕が怪訝な表情をすると、理事長はお茶目にくすりと微笑み、衝撃の事実をカミングアウトした。
「ふふっ、実はね……ラグビー部も、すぐ近くの『女神湖』で合宿中なのよ。宿泊先はこの白樺湖畔のホテルなの」
「「「えぇぇっ!?」」」
ここにいた全員が声を揃えて驚いた。
「ですから、今日の16時からラグビー部の練習に行って、フィジカル指導をお願いできないかしら?」
そう言って理事長は頭を下げた。天馬は呆気にとられつつも、毎週水曜日はラグビー部のフィジカルコーチを務める契約になっているため、「そういうことなら……分かりました」と承諾するしかなかった。
(ん? 待てよ……理事長は僕たちが白樺湖で合宿することを知っていて、わざわざラグビー部の合宿地もここにぶつけてきたんじゃないのか……?)
僕が疑いの視線を向けると、理事長は言い訳をする。
「いやね、先週までは山中湖で合宿をしていたのだけれど、宿の都合とか……まあ、いろいろと事情がありましてね……ほほほ」
理事長は急にしどろもどろになり、視線を泳がせた。僕はこれ以上追及するのは野暮かと、突っ込むのを止めた。
だが、理事長の“本当の目的”はこれだけではなかった。
彼女はどこか言いづらそうに、チラチラとエントランスの方へと視線を送っている。
(何か……とても嫌な予感がする……絶対にまだ何かあるぞ……)
僕が身構えたその時――。
カツン、カツンと杖を突く音がロビーに響いた。年配の男性が、数名の護衛(4名で全員女性)を引き連れて静かに入ってきたのだ。
長く豊かな白い顎髭を風に揺らし、目元には鼈甲フレームのサングラス、頭上には涼しげなパナマハットを小粋に被っている。身にまとうのは、さらりとしたサックスブルーのリネン(麻)ジャケットに、仕立てのいい白いコットンパンツ。首元に巻いた濃紺のシルクスカーフが、上品なアクセントとして全体の印象を引き締めている。足元のクラシカルなメッシュの革靴が、軽やかさと確かな品格を物語っていた。
見た目はどう見ても80歳半ばを超えた車いす一歩手前の老人である。身体を小さく丸め、トボトボと覚束ない足取りで歩いている。……だが、その身から放たれる空気だけは、異様なほど堂々としており、腹の底に響くような圧倒的な威圧感を放っていた。
その老人は、挨拶もなしに図々しく天馬の正面――理事長のすぐ隣のソファへと当たり前のように腰掛けた。
理事長はその老人に対し、恭しく小さく一礼している。
(誰だ……? 理事長の知り合いか? 政治家かか……?)
天馬が訝しんでいると、老人は少しサングラスをずらし、掠れた小声で天馬に話しかけてきた。
「……はじめまして。清野 隆と申します。突然お伺いいたしましたこと、深くお詫び申し上げます。甲斐田様のご活躍はかねてより拝見しておりましたので……本日こうしてお目にかかれて、大変光栄に存じます」
どこか哀愁と気品を漂わせた、実に見事なご老人の挨拶であった。
「あ、恐縮です。甲斐田天馬です……」
天馬も反射的に頭を下げて挨拶を返す。
(何者なんだ……?)
助けを求めるように隣の理事長へ視線をやると、なんと理事長は両手で口元を覆い、肩をプルプルと震わせて爆笑を堪えているではないか。
さらに、隣に座るクリスまでもが、口元を押さえて「くくっ……」と顔を背けている。
僕が混乱していると、目の前の老人がニヤリと口角を上げた。
そして、サングラスを指で少し押し下げ、低くくぐもった声でささやいた。
「……な〜んちゃって! 天馬、久しぶり!」
「よッ……!? ――んぐぐっ!?」
叫びそうになった僕の口を、隣のクリスが素早く手で塞いだ。
「大声出しちゃダメよ」
クリスが楽しそうに耳元で囁く。
そう、その老人の正体は――天馬の友人であり、日本……いや世界一の大俳優『ヨッシー』こと高木良明(本名:大舘真人)だったのだ!
「んぐっ……ぷはっ! よっ、ヨッシー!? なんでここに……っていうか、その格好はなに? 変装!?」
天馬が驚きを隠せずに小声で尋ねると、ヨッシーは付け髭を弄りながらニカッと笑った。
「いや〜、たまたま近くで映画の撮影があってさ。役作りも兼ねて、この格好で挨拶に来た次第さ」
そして次の瞬間、ヨッシーの顔つきがガラリと変わった。
一瞬で瞳に深い陰影が宿り、声のトーンが完璧な掠れ声へと切り替わる。
「……あ〜、ワシは清野じゃ。清野隆じゃで。よろしくな、甲斐田君」
そのままスッと差し出された手を、天馬は半ば呆然としながら握り返した。
(す、凄すぎる……! 一瞬で80代の老人に成り切ったぞ……。これが『至高俳優』の演技力なのか……!)
僕は恐怖すら感じるほどの圧倒的な役作りのクオリティに、心からの尊敬と感嘆の念を抱かずにはいられなかった。クリス以外の全員――朱里も、蘭も、北川さんも、護衛たちも、目の前で起きた完璧すぎる変貌ぶりに開いた口が塞がらず、ただただ絶句している。
笑いをようやく噛み殺した理事長が、コホンと咳払いをして再び天馬に向き直った。
「さて、天馬さん。ここからが今日の本題なのだけれど……」
「……まだ何かあるんですか?」
「実はね、ラグビーの『日本代表チーム』も、女神湖で合宿を行っているのよ。それでね……夕方の1時間だけでいいから、ラグビー日本代表のフィジカルトレーナーも引き受けてはいただけないかしら……?」
と理事長は言ってから深々と頭を下げる。
(やっぱりか……! 嫌な予感の正体はこれだったのか……!)
僕は頭を抱えた。東相大学のラグビー部ならまだしも、日本代表となれば話の規模が違う。長距離・駅伝部の指導、僕個人のトレーニング、大学ラグビー部の指導、そして日本代表の指導まで抱えるとなれば、いくらなんでもスケジューリングが過密すぎる。
「理事長、流石にそれは……長距離・駅伝部の指導がありますし、それに……自分のトレーニングもあります。これ以上はキャパシティが――」
僕が断ろうとした、その時だった。
スッと横から、重々しいオーラを纏った「清野隆」が身を乗り出してきた。
「あ〜……甲斐田君。ワシからも、一言意見を言わせてはくれんじゃろうか……」
枯れた老人声だが、その言葉には空気を振動させるような凄まじい気迫と、拒絶を許さない絶対的なオーラが宿っていた。
「甲斐田君が大きな目標を目指しておることは、ワシも重々承知しておる。……だがじゃ。ほんの一時間……たった一時間でええのじゃ……。これまで血の滲むような努力を重ね、国を背負うて戦ってきた選ばれし戦士(女性選手)たちのために……君のその尊い知識を、ほんの少し分けてあげてはくれないだろうか……?」
ヨッシー演じる清野隆の目は、まるで世界の命運を託すかのように熱く、深く、天馬の瞳を射抜いていた。
しかしながら……冷静に考えれば、言っている内容はただの情に訴えかける精神論であり、具体的な解決策は何一つ示されていない。支離滅裂と言ってもいい内容だ。
――だが、圧倒的な演技力とオーラが、その言葉に「絶対的な正当性」と「説得力」を与えていた。
(な、なんだこの気迫は……!? 断ったら……僕が歴史的な大悪人になってしまうような錯覚に陥る……っ!)
天馬の背中に汗が伝う。ヨッシーの演じる「清野隆」というキャラクターは、あらゆる交渉事を言葉巧みに、そして圧倒的な空気感で相手を丸め込んでしまう奇跡の説得術を持った人物だったのだ。
その圧に飲まれそうになったのは、天馬だけではなかった。
「……ううっ……天馬さん……っ!」
横で聞いていた北川さんが、感極まったように涙目を浮かべて天馬の袖を掴んできた。
「清野様のおっしゃる通りです……! スケジュールは私が責任を持って完璧に調整いたしますから! 天馬さん、どうか……どうか日本代表のフィジカルトレーナーを引き受けてあげてくださいっ!」
「天馬……私からもお願いするわ! あの戦士たちを救ってあげて……っ!」
「天馬! 私も応援するから! 引き受けてあげてっ!」
「テンさん……お願い!引き受けてあげてくださいっ!」
クリスも、朱里も、蘭も、完全に「清野隆」の放つオーラと感動的な空気に呑まれ、涙ぐみながら天馬へ懇願し始めたのだ。
(うっ、嘘だろ……全員完全にヨッシーの演技に毒されてる……! この状況で『嫌だ』なんて言えるわけないじゃないか……!)
天馬は引きつった笑顔を浮かべ、ついに腹を括った。
「……分かりました。夕方の1時間だけなら……お引き受けします」
「本当ですか!? ありがとうございます、天馬さん!」
天馬が頷いた瞬間、待ってましたとばかりに理事長が鞄から契約書を取り出し、あらかじめ用意されていた『ラグビー日本代表・期間限定フィジカルトレーナー契約書』をテーブルの上に滑らせた。
(やっぱり最初から仕組まれていたな……。ヨッシーを連れてきたのも、僕を説得するための秘密兵器だったんだ……)
まんまと乗せられた感は否めなかったが、北川さん立ち合いのもとで契約書にサインを済ませた。ちなみに、日本代表チームの宿泊先は白樺湖畔にある超高級リゾートホテルで、選手たちは全員夫や家族同伴で合宿に参加しているのだという。
「ふう……助かったわ、天馬さん。これで日本代表も万全ね!」
満足そうに微笑む理事長のかたわらで、ヨッシーはサングラスを外し、天馬に向かって片目をパチンとウインクしてみせた。
(まったく……恐ろしい大俳優だよ、ヨッシーは……)
まんまとハメられ苦笑いを浮かべつつも、天馬は「至高俳優」の凄まじい演技力に、改めて深い尊敬を覚えずにはいられないのだった。
【あとがき】
主人公の天馬は、なかなか一つのことに集中できない状況が続いていますが、この世界線では天馬の持つトレーニング理論そのものが革新的なものです。
そう考えると、あちこちから声がかかってしまうのも、ある意味では仕方のないことなのかな……と思ってしまいます(笑)。
とはいえ、現在は合宿期間中ですので、何とかトレーニングと両立しながら乗り切ってくれる……と思っております。
次回の投稿は、来週月曜日を予定しております。
これからも天馬たちの物語にお付き合いいただけましたら嬉しいです。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
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それでは、次回もよろしくお願いいたします。




