第74話 臨時でのフィジカルトレーナーに就任
「もしもし、理事長、お電話代わりました」
僕が北川さんのスマホを耳に当てて応対すると、受話器の向こうから、東相大学理事長であり日本ラグビー協会会長でもある「大舘さおり」さんの、少し焦燥を含みながらも、気品のある声が響いてきた。
『ああ、天馬さん! 練習中に本当に申し訳ないわね。実はね、単刀直入にお願いがあるの――現在、新座駐屯地で合宿を開始したラグビー日本代表の、臨時のフィジカルトレーナーを引き受けてはもらえないかしら?』
「えっ? 日本代表の、ですか……?」
思わぬ要請に、僕は思わず声を裏返してしまった。
『ええ。本来ならこんな急なお願い、ルール違反なのは分かってるわ。でもね、あなたが新座駐屯地で保護生活を送っている間だけでもいいの。どうか、彼女たちの指導をしてあげてくれないかしら?』
受話器の向こうで、あの威厳ある理事長が、まるで祈るように懇願してくる。しかし、僕は困惑して頭を掻いた。
「うーん……。理事長、メニューと具体的なトレーニング方法は、事前にかなり詳しくデータで送ってありますよね? それをベースに進めていただければ、何とかなると思うのですが……」
『データは素晴らしいわ。でもね、それを正しく選手に落とし込み、フォームをしっかりと見極められる『目』を持っているのは、世界中で、あなただけなのよ!』
「光栄ですが……。私自身のトレーニングもありますし、大学の長距離コーチにラグビー部のフィジカルトレーナー、さらにはここでの保護生活中、臨時で体育隊のコーチまで引き受けている状態です。これ以上は物理的に手が回りません。申し訳ありませんが、お断りさせてください」
これ以上のタスクを抱えれば、どれも中途半端になる。そう判断してきっぱり断ったが、理事長は諦めない。
『そこを何とか……お願いします! 今の日本代表には、あなたの科学的アプローチがどうしても必要なのよ……っ』
「ですが――」
僕がさらに言葉を続けようとした、その時だった。
『――よぉ、天馬! 久しぶりだな!』
「うわっ!? よ、ヨッシー!?」
突然、野太くも聞き馴染みのある、義父のヨッシーの声がスピーカーから飛び出してきた。僕はは飛び上がって驚く。
『はははっ! 驚かせて悪かったな。今日はさ、ほらっ、さおりと過ごす日でね。 隣で話を聞いててな、お前が困ってると思って電話を代わってもらったんだ』
ヨッシーは相変わらずの豪快な笑い声を響かせつつも、僕を落ち着かせるように、どこか優しく、諭すようなトーンに声を落とした。
『天馬。さっきリリカと電話で話したんだよ。奴もさ、天馬兄さんが直接指導してくれた方が絶対みんな強くなるって、鼻息を荒くしてたぞ』
「リリカがですか……」
『それだけじゃない。お前、さっきグラウンドで優の嫁さんの、悦子さんに会っただろ?』
「あ、はい。ご挨拶させていただきました。すごく綺麗な方でびっくりしました」
『だろ? 優の最愛の妻なんだ。あいつは今、日本代表として、ものすごい重圧を背負って戦ってる。俺としても、身内びいきになってしまうが、悦子さんの今後の活躍のためにも、お前の力を貸してやってはくれないか?……もちろん、お礼は弾むし、他に何か望むものがあれば、叶えると約束しよう。天馬、可愛い優のために⋯⋯ここはひとつ、無理を承知で頼まれてほしい。力を貸してやってくれ!』
「優君のために……」
その名前を出されたら、僕に断わる選択肢はなかった。あの可愛くて、ラグビーを心から愛している天使のような義弟のため。そして、その大切な人のためだ。
(……よし、やるか!)
腹は決まった。しかし、僕はただの一般人ではなく、この世界では貴重な存在である「稀人」だ。僕の一存で勝手に物事を決めて、周囲の護衛や政府関係者に迷惑をかけるわけにはいかない。
「分かりました。引き受ける方向で考えます。ただ、僕の一存では決められないので、周りと相談してから、すぐにかけ直します!」
『おう! 待ってるぞ!』
電話を一旦切ると、僕はすぐ隣で心配そうに僕を見つめていた北川さんに事の仔細を話した。
「というわけなんです。ラグビー日本代表の臨時トレーナーの要請なんですけど……」
北川さんは僕の言葉を聞くと、ふっと柔らかく微笑み、頼もしげに胸を張った。
「天馬さん、ご心配には及びません。天馬さんさえ良ければ……ぜひ引き受けてください。旦那様方へのご連絡は私の方からしておきますし、スケジュールの管理や各所との調整は、この私が何とかしてみせます。それが私の仕事ですから」
「北川さん……!」
さらに、その隣で話を聞いていた椿姫大尉も、一歩前に出て強く拳を握りしめた。
「天馬さん! 私もぜひ、全力でサポートさせてください! 天馬さんが少しでも動きやすくなるよう、お役に立ちたいのです!」
「二人とも……ありがとう!」
二人の美女が、僕のためにここまで親身になって協力を申し出てくれたことが、本当に嬉しかった。感極まった僕は、考えるより先に、目の前の北川さんを勢いよく抱きしめていた。
「わっ……!? ご、ごちそうさまです!」
北川さんは一瞬驚いたものの、すぐに嬉しそうに目を細め、「役得ですね」と呟きながら僕の腰に器用に手を回してギュッと抱きしめ返してくれた。
それを見ていた椿姫大尉は、顔を真っ赤に染めてモジモジとしている。
僕は北川さんから離れると、その勢いのまま、今度は椿姫大尉をもガシッと腕の中に抱き込んでしまった。
「ひゃうっ!?」
椿姫大尉は一瞬で顔を破裂しそうなほど赤くし、全身の筋肉を硬直させてカチコチにフリーズしてしまった。陸軍のエリート大尉が、僕の腕の中で完全に借りてきた猫のようになっている。
数秒のフリーズの後、彼女は恐る恐る僕の肩へとトロンとした顔で頭を埋め、
「て、てんま……さん……っ、……もの凄く、しあわせです……」
と、消え入りそうな声で愛おしげに呟いた。その健気な姿があまりにも可愛くて、僕はついつい、さらに力強く彼女の身体を抱きしめてしまった。
「はいはい、そこまでにしてください。天馬さん、これ以上やるとグラウンドの選手たちが過呼吸で倒れてしまいます。早く理事長に連絡を入れてあげてください」
見かねた北川さんが笑顔のまま二人の間に割って入り、僕と椿姫さんを“すぱんっ”と引き剥がした。
椿姫さんは「あぅ……」と名残惜しそうに蕩けた表情で僕を見つめている。
僕はコホンと咳払いをし、再び理事長の携帯へと電話を掛け直した。
ワンコールで、またヨッシーが出た。
『おう、天馬か! どうだ!?』
「ヨッシー、お待たせしました。周囲のサポートも得られることになったので、臨時のフィジカルトレーナー、期間限定で引き受けさせていただきます!」
『おおおおおっ! ありがとう! 聞いたか、さおり、天馬がやってくれるってよ!!』
受話器の向こうから、ヨッシーの割れんばかりの大歓声が聞こえる。隣にいる大舘理事長も「本当にありがとう、天馬さん……!」と、心底ホッとしたように喜んでいる気配が伝わってきた。
「ただ、引き受けるにあたって、ひとつ条件があります!」
『ん? なんだ、言ってみろ! 金か? それとも何か欲しい物でもあるのか?何でも言ってくれ』
「いえ、そういうんじゃなくて……。この保護生活が終わったら、またみんなを集めて、盛大にバーベキューをしてください。それが条件です!」
一瞬、電話の向こうが静まり返った。あまりの欲のなさに、ヨッシーは数秒ほど呆気にとられていたようだが、すぐに腹の底から響くような大声で笑い出した。
『アハハハハ! バーベキューだと!? お前って奴は、相変わらず欲がねえな〜! 分かった、約束だ! 最高の一級品の肉を、俺がこれでもかってくらい用意してやるからな!』
こうして僕は、ラグビー日本代表チームの臨時のフィジカルトレーナーという、またしてもとんでもない肩書きを背負うことになったのだった。
近くで一部始終を見ていたクリスに「というわけだから、ちょっと忙しくなるよ」と伝えると、「天馬ならそう言うと思った。私も全力で手伝うよ!」とウインクを返してくれた。
その後、午前中の練習を無事に終え、僕たちは椿姫さんや体育隊の選手たちと別れ、一度宿舎へと戻った。
時計の針は正午を回り、昼食の時間になった。
僕と、妻たち、そして婚約者の蘭、北川さんや護衛の皆さんを引き連れて、いつもの隊員食堂へと向かう。
トレイに載ったボリューム満点の定食をテーブルに並べ、みんなで「いただきます」と手を合わせたところで、僕は一呼吸置いて全員に切り出した。
「実はみんなに報告があるんだ。さっき、理事長とヨッシーから要請があってね……。新座駐屯地にいる間の期間限定で、ラグビー日本代表の臨時フィジカルトレーナーを引き受けることにしたんだ」
「さきほど、クリスと北川さんから聞いたわ。天馬……絶対に無理はしないでね」
美月が真っ先に僕に心配そうな眼差しを向けて言う。
蘭が味噌汁の椀を持ったまま目を丸くするが、すぐに「あぁ、やっぱりね」といった風に得心のいった顔で笑い始めた。
「テンさん頼まれたら放っておけないんでしょ?」
蘭がクスッと笑う。
しかし、僕の隣に座っていた愛理は、少し心配そうな、慈愛に満ちた眼差しを僕に向けて、そっと僕のジャージの袖を引いた。
「天馬さん、引き受けるのは良いけど……絶対に無理はしないでね? あなたの身体は、もうあなた一人のものじゃないんだから。この子だっているんだし……」
愛理はそう言うと、膨らみが目立ち始めた自身のお腹に優しく手を当てた。
その姿があまりにも愛おしくて、僕はたまらなくなり、愛理の肩をぐっと引き寄せて自分の身体に抱き寄せてしまった。
「分かってるよ、絶対に無理はしない。みんなとの時間も、ちゃんと大切にするからね」
「あらあら、愛理ばっかりずるいわね。天馬さん、愛理の言う通りよ。あなた頑張りすぎて倒れたら私たちが承知しないからね」
すると、反対側の隣に座っていた千代乃が、悪戯っぽく微笑みながら僕の腕にすり寄ってきた。僕は笑いながら、「千代乃もありがとう」と、彼女の肩も同じように抱き寄せた。
両手に花、どころか愛する家族に囲まれて僕は本当に幸せ者だ。
当初はタスクが増えることに少し気後れしていたけれど、こちらの世界のトレーニングは、未だに「根性論」や「精神論」が主流の古く非効率的なものばかりだ。
このままでは故障も多発するし、選手寿命だって縮めてしまう。
だからこそ、僕が持つ「科学とデータに基づいたトレーニング理論」を、惜しみなく提供する必要があるのだ。
それに……何より、みんなが僕の知識を必要としてくれている。
(優君、悦子さん、リリカのためにも……僕の知識をフル活用して、世界で戦える身体を作ってあげよう)
胸の奥で、静かに闘志が湧き上がってくるのを感じていた。
~~~~~~~~~
昼食を終え食堂から出ると、そこでバッタリと、迷彩服姿の牧野椿姫大尉と妹の牧野葵少尉の二人に遭遇した。
「あ、椿姫さん、葵さん。お疲れ様です」
「あ、天馬さん! お疲れ様です!」
椿姫さんが嬉しそうに笑顔で応じる。僕は周囲の目を気にしつつ、小さな声で二人に伝えた。
「正式な契約はこれからなんですけど、さっき、ラグビー日本代表の臨時トレーナーの件、正式にお受けすることにしました」
「本当ですか! おめでとうございます、天馬さん。私も全力でサポートいたします!」
椿姫さんが我がことのように喜んで胸を叩く。すると、隣にいた広報部の葵少尉が、目をキラキラと輝かせて一歩前に身を乗り出してきた。
「天馬さん! ラグビー日本代表のフィジカルトレーナー就任ですね!? でしたらぜひ、その合宿の様子を、我が陸軍広報部で密着取材させてください! 『男神トレーナー、日本代表を鍛える!』なんて、最高の広報特番になります!」
「ええっ、密着取材!? それはちょっと恥ずかしいな……」
「ダメです、絶対撮らせてください!」
葵少尉の熱いプレゼンに苦笑いしつつも、僕は彼女たちの仕事熱心さに感心してしまった。
ちなみに、椿姫さんと葵さん姉妹は陸軍の幹部(将校)であるため、食事は僕たち一般の隊員食堂ではなく、「幹部エリア」で摂ることになっている。そのため、食事中はこうして顔を合わせることができないのだ。
出されるメニュー自体は僕たちと全く一緒なのだが、こればかりは軍隊の厳格な伝統というものらしい。幹部同士で食事をしながら、午前中の訓練の反省や、午後の作戦・任務・連絡事項や申し送り事項の細部調整を密密に行うという伝統が今も生きているのだそうだ。男の世界の軍隊とはまた違った、機能的な伝統に僕は感心するばかりだった。
昼食後の昼休みを利用して、僕と北川さんは応接室に籠もった。
「大舘さおり」理事長から、さっそく北川さんのビジネス用ノートPCへと、契約書のファイルが送られてきたからだ。
「さあ、天馬さん。フィジカルトレーナー契約の細部を詰めましょう。私が文面を確認しますね」
北川さんは画面に表示された契約書をプロの目で精査していく。
提示された契約内容は、期間中の報酬や待遇を含め、僕にとっては驚くほど良い条件ばかりだった。大舘理事長がいかに僕を評価し、誠意を持って迎えてくれようとしているかが文面からもひしひしと伝わってくる。
数分間、一文字も書き漏らさない勢いでスクロールしていた北川さんが、ようやく顔を上げて僕に微笑んだ。
「うん、素晴らしい条件です。天馬さんを単なる男性としてではなく、純粋に一流のトレーナーとして最高峰の待遇で迎える内容になっています。特に指摘や修正が必要な箇所は一切ありません。私から、問題なしの太鼓判を押させていただきます」
「良かった。北川さんがそう言ってくれるのなら安心だよ」
北川さんの確実なチェックのおかげで、僕は迷うことなくタッチペンを取り、ノートPCの画面の署名欄に「甲斐田天馬」とサインを電子入力した。
「よし、送信完了です。――これで正式に、ラグビー日本代表の期間限定フィジカルトレーナーに就任ですね。おめでとうございます、天馬監督」
「ありがとう、北川さん。監督じゃなくてトレーナーだけどね」
冗談めかして笑い合いながら、僕は迫り来る午後からの初ミーティングに向けて、頭の中で最新のフィジカル理論のページをめくり始めるのだった。
本業多忙のため、次回の投稿は金曜日を予定しています。
今後とも本作品をよろしくお願いいたします。




