第73話 競技会を終えて ラグビー日本代表合宿
7月16日(月) ―― 新座駐屯地宿舎の応接室にて。
『――続いてのニュースです。昨日閉幕した“関東州大学陸上長距離競技会”にて、とんでもない超新星が現れました!』
テレビの画面の中、朝の情報番組のアナウンサーが興奮気味に声を張り上げている。
大型テレビが据え付けられた宿舎の応接室では、僕は妻たちと一緒に視聴している。
僕と、クリス、そして蘭の3人が並んでソファに座り、コーヒーを飲みながらその画面を見つめていた。
番組のカメラが映し出しているのは、スタジアムのナイター照明を浴びて独走する三上ルイの姿だ。
『1万m走の今シーズン上位300名が集ったこの競技会で、並み居る強豪校のエースを抑え、見事最速タイムを叩き出したのは、東相大学1年の無名選手、三上ルイ選手です! 当日は夜間でありながらも、真夏特有の高湿度と不快な暑さが選手たちを苦しめました。他校の実力者が次々と失速する中、唯一、32分台をマークしたのです!』
画面が切り替わり、レース直後のルイのインタビュー映像が流れる。まだ息を切らせ、頬を上気させたルイが、マイクを向けられて毅然と答えていた。
『……三上選手、素晴らしい激走でした! この快挙、今のお気持ちは?』
『……すべて、監督とコーチのお陰です。私はただ、コーチを信じて付いてきました。コーチの言葉があったから、最後まで諦めずに走り切れました』
『なるほど、甲斐田コーチへの絶大な信頼がこの走りを生んだのですね。ですが三上選手、レース序盤から、あえて距離の長くなる「3レーン」を走り続けるという非常に大胆な一幕がありましたが……あれは一体、どういった意図があったのでしょう?』
女性リポーターは「他校からの妨害行為」という直接的な表現を避け、オブラートに包んで質問した。ルイはふっと柔らかく微笑み、カメラを真っ直ぐに見据えて言い切った。
『それも、すべてはコーチの作戦です』
『作戦、ですか?』
『はい。8千まで3レーンを使え、お前なら大丈夫、自分を信じて走れ!と言われました。最後に……この大変な状況の中で競技会を支えてくださった主催者やスタッフの皆様、現地でサポートしてくれた部員の皆、そして、これまで私を導いてくださった監督とコーチに、心から感謝を申し上げます……っ』
そこまで言うと、ルイの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。普段はクールな彼女が感極まって涙を流すその姿に、テレビのスタジオからは「まぁ……!」「なんて健気な子なの!」と女性コメンテーターたちの黄色い声が上がる。
VTRからスタジオへ戻ると、司会のアナウンサーがフリップを掲げた。
『いやはや、驚きましたね! メディアの間では早くも「突如現れたシンデレラ」、あるいは「男神の申し子」「男神に育てられた女神」などと大絶賛されています。ネット上でも現在、彼女の話題でお祭り騒ぎですよ!』
画面には、ネット上の『ルイちゃん可愛すぎるし強すぎる!』『男神コーチとの絆が尊い……』といった好意的な書き込みが次々と流れる。
しかし、番組のトーンはここから一気にシリアスなものへと変わった。
『――ですが、この歴史的快挙の裏で、見過ごせない不穏な動きもありました。こちらの映像をご覧ください』
画面にスローモーションで映し出されたのは、西北大学の選手2名が、3レーンを走るルイの前と横を露骨に塞いでいるシーンだ。
『ご覧の通り、西北大学の選手2名が、明らかに三上選手に対する走行妨害を行っているように見えます。これに対し、番組に出演したスポーツジャーナリストからは非難の声が上がっています』
画面の中のコメンテーターが憤慨したようにまくし立てる。
『これはいくら何でもあんまりです! 伝統校のプライドはどこへ行ったのか。もしこれが監督の指示による組織的なものだとしたら、指導者として絶対にやってはいけない行為ですよ!』
ネットのコメント欄も一瞬で大炎上している。
『西北大汚いぞ!』
『実力で勝てないからって最低!』
『ラグビー部が負けたから、陸上部が仕返し?』
といった批判で埋め尽くされている。
続いて、全日本大学陸上連盟競技委員会(大学陸連)への取材の映像も流れた。
『大学陸連は先ほど、「競技終了後、速やかに当該学生および監督、コーチ陣への聞き取り調査を行っている最中である」との公式声明を発表しました。なお、今回の競技会は大学連主催の競技会であるため、日本国陸連の管轄外となり、すべての裁定は大学陸連側に委ねられます。今後どのような裁定が下されるのか、注目が集まっています』
『――ニュースは以上です』というアナウンサーの声と共に、朝の特集が締めくくられた。
「ふぅ……」
僕は手元のカップをテーブルに置き、小さく息を吐いた。
テレビの前で、クリスと蘭、そして千代乃が、一様に難しい顔をして僕を見つめている。
「天馬、怒らないの? 改めて見ると、露骨な走行妨害ね!」
クリスが青い目を吊り上げて憤慨すると、蘭もポロポロと涙を流しながら激しく同意した。
「そうです、テンさん! ルイはあんなに苦しそうな顔をして……っ。あんなにあからさまな嫌がらせをしてくるなんて、同じ陸上を志す者として絶対に許せません!」
二人の剣幕に、僕は苦笑しながら首を振った。
「いや、二人とも落ち着いて。確かに誉められた行為じゃないけど……正直、僕としてはそこまで気にしてないんだよね。元いた世界(前の世界)のトラックレースでも、これくらいのポジション争いや、チームを組んで特定の選手をポケット(囲い込み)に閉じ込める駆け引きは、よくある話だったからさ」
「えっ……? よくある、ですか?」
蘭が信じられないというように、涙を拭いながら目を見開く。
「うん。トラック競技っていうのは、単に走るスピードだけじゃなくて、いかに自分にとって有利なポジションを取れるかっていう“位置取りゲーム”でもあるんだ。順位やタイムにも直結するからね。だから勝負所での激しい駆け引きや、相手が次にどう動くかっていう心理を読む力が必要不可欠になる。相手だって勝つために必死なんだから、時には手段を選ばないし、審判が見えない死角で細かい嫌がらせをしてくることだってあるさ。例えば……腕を極端に横に振って肘打ちを脇腹にかましてきたりとかね」
僕はそこまで言うと、画面のルイの笑顔を指差した。
「大事なのは……それらすべての障害を技術と頭脳で上手く克服してこそ“レースを支配できる”ってことなんだよ。だから今回の件は、むしろルイにとって、一筋縄ではいかない実戦の洗礼として、最高にいい経験になったんじゃないかな。僕は大満足だよ」
僕がケロッとした顔でそう語ると、クリスと蘭は呆気にとられたように目を丸くした。
パチパチパチ、と上品な拍手の音が聞こえる。振り返ると、千代乃が艶やかな笑みを浮かべていた。
「ふふ、流石は天馬さんね。まるで百戦錬磨の政治家が議会での駆け引きを語っているようだわ。あの西北大学の浅知恵を逆手に取って、3レーンを使って網にかけたのでしょう? お見事だわ」
「はは、千代乃まで。そんな大層なものじゃないよ。僕はただ、彼女たちの成長が嬉しいだけさ」
そう、僕が何よりも感動していたのは、作戦の成否なんかではなかった。
「僕が本当に嬉しいのはね、ルイの走りはもちろんだけど……彼女の『心の成長』なんだ」
「ルイの……心、ですか?」
蘭が小首をかしげる。
「気付かないか? ルイは最初、蘭以外のみんなには頑なに心を閉ざして、会話のキャッチボールすら難しかったじゃないか。それが、毎日の過酷なトレーニングスケジュールを一緒に重ねていくうちに、クリスや他の部員、マネージャーたちとも普通に笑顔で交流できるようになった」
僕はテレビに映るルイの泣き顔を見つめる。
「あのインタビューの受け答えだってそうだ。マスコミの誘導尋問に引っかからず、堂々と、かつ周囲への感謝を涙ながらに伝えていた。あれ、クリスと一緒に何度も想定問答を練習した成果だよ。しっかり本番で生かせてる……速くなったこと以上に、彼女が人としてこんなに立派に成長してくれたことが、僕は誇らしいんだ」
画面の中のルイを見つめる僕の目は、我ながら完全に「我が子の晴れ舞台を見守る親バカのそれ」になっていたと思う。
すると、隣にいたクリスがジト目を向けて、僕の脇腹を小突いてきた。
「ちょっと天馬、顔が完全に“孫の晴れ舞台に感動するおじいちゃん”になってるわよ? あなた、まだ24でしょ」
「あはは! 本当ですね。テンさん、おじいちゃんみたいな目になってます!」
蘭もようやく涙を引っ込め、お腹を抱えて笑い出した。
「いいじゃないか、それくらい。競技を通じて、みんなが人として強くて優しい大人になってくれれば、指導者としてそれ以上の喜びはないよ」
テレビを消し、立ち上がりながら僕は二人に微笑みかけた。
外からは、今日も厳しい夏の日差しが照りつけるグラウンドの蝉しぐれが聞こえてくる。
「さあ、お祭り騒ぎはここまでだ。ルイが戻ってきたら、次は10月のインカレに向けて、さらに進化した科学的メニューを叩き込んであげないとね」
「オー!、鬼コーチ! 私も負けてられないわ!」
「はい! 私もテストが終わったら、死ぬ気でルイに追いついてみせます!」
頼もしい妻と、ひたむきな婚約者の言葉に頷きながら、僕はこれからの東相大学陸上部の、さらなる大躍進を確信していた。
~~~~~~~~~
朝の情報番組を見終えて一息ついた頃、時計の針は8時30分を回ろうとしていた。
静まり返った新座駐屯地内に、突如として澄んだラッパの音が響き渡る。平日の国旗掲揚の合図だ。
この駐屯地では、毎朝8時30分に国旗が掲揚され、夕方17時30分に降下される。
1人のラッパ手による厳かな生演奏の元、3名の隊員によって一連の儀礼が執り行われるのだ。
この瞬間、駐屯地内の空気がピシッと張り詰める。歩いていた隊員たちは一斉に国旗の方向を向いて直立不動の姿勢を取り、着帽している者は鮮やかな敬礼、脱帽している者は10度の美しいお辞儀を捧げていた。
最初は何事かと不思議に思ったものだが、これが軍隊の、そして国家を敬う彼女らの厳格なしきたりなのだ。いつ見てもその統率された姿には感心させられる。
ちなみに、僕たち外部の人間や体育隊の選手、関係者、隊員以外の職員はこの姿勢を取る行為を免除されている。
だけど、僕も妻たちも蘭も、ラッパの音が聞こえる間は自然と手を休め、体をじっとさせて敬意を表すのが日課になっていた。
ラッパの余韻が消え去ると、駐屯地は再び活気を取り戻す。
「よし、クリス。僕たちもグラウンドへ行こうか」
「そうね、体育隊のメンバーも待ってることだし」
僕はクリスと共に体育隊のグラウンドへと移動し、選手たちの指導を兼ねて自分自身もトレーニングをするための準備に取りかかった。
――と、その時である。
グラウンド前の道路に、プシューという排気音を響かせて、3台の大型観光バスと数台の貨物トラックが連なって停車した。
一体何事だろうと僕とクリスが足を止めると、バスの扉が開き、車内から次々と乗客(全て女性ばかり)が降りてくる。
「……うわ! みんな大きいな」
思わず僕は声が出た。降りてきたのは、全員が身長170センチから180センチはあろうかという、見上げるほど大柄な女性たちだった。
しかも全員が、仕立ての良い同じ紺色のパンツスーツをスマートに着こなしている。年齢は20代前半から30代後半までと幅広そうだが、どの女性も目鼻立ちがくっきりとした美人ばかりだ。それでいて、全身から溢れるオーラはまるで戦場へと赴く「女騎士」のように勇ましく、圧倒されるような美女軍団だった。
バスから降りてきた高身長の美女たちは、グラウンドの脇にジャージ姿で立っている僕の姿を認めると、一様に「えっ……?」「まさか、あの方……」「男神!」と驚いた表情を浮かべてざわつき始めた。
すると、その集団の奥から、僕たちを呼ぶ懐かしい声が響いた。
「天馬兄さん! クリス姉ー!」
「あっ、リリカ?」
「リリカー!」
人混みをかき分けるようにして、パンツスーツ姿の義妹・大舘リリカがこちらに全力で駆け寄ってくる。
彼女は僕の目の前に到達するやいなや、勢いよくその長い腕を伸ばして僕の身体にガシッと抱きついてきた。
「おっとっと! リリカ、どうしてここにいるんだ?」
僕は突然の肉体言語に驚きながらも彼女を受け止めたが、隣のクリスは「ふふ、やっぱりね」と特に驚いた様子もない。
リリカは僕をしっかりと抱きしめたまま、嬉しそうに目を細めた。
「もー! すぐ会えるって言ったじゃん! 嘘つきじゃなかったでしょ?」
「いや、まさか駐屯地の中で会うことになるとは思わなかったよ。これは一体……どういうこと?」
僕は怪訝な表情でリリカとクリスに尋ねる。
「ふふん、実はね、ラグビー日本代表の第1期合宿は、伝統的にいつもこの駐屯地で行われるの! 期間は3週間かな。この恵まれた環境で、まずは徹底的に基礎体力と基礎筋力を叩き込むんだよ」
そうリリカは得意げに言う。
(なるほど、彼女たちはラグビーの日本代表、つまり国を代表する最強のサクラフィフティーンだったわけか)
僕は心の中でそう呟く。
リリカの熱いハグからようやく解放されて周囲を見渡すと、いつの間にか迷彩服姿の女性隊員たちが50名ほどバスの周囲に集まっており、「キャーッ!」「本物だわ!」と黄色い嬌声を上げていた。男性隊員たちも数人ほど遠巻きにそわそわしながら見守っている。
特に大きな歓声が上がっている中心に目を向けると、そこには高身長で、モデルのようにつややかな黒髪をなびかせた、20代前半ほどの美女が立っていた。
(ラグビー界のスター選手なのかな……?)
僕がそう思っている間にも、彼女は隊員たちから差し出される色紙やTシャツに気さくにサインを書き、スマホでのツーショット撮影にも満面の笑みで応じていた。他の選手たちも同様に、ファンである隊員たちと楽しげに交流している。
やがて一通りのファンサービスが落ち着くと、隊員たちは名残惜しそうに本来の訓練や業務へと戻っていった。
すると、先ほど一番大きな嬌声を浴びていた黒髪の美女がこちらに気づく。すかさずリリカが「悦子さん、こっちこっち!」と手招きをして彼女を呼び寄せた。
彼女はすらりとした長い脚でこちらへ歩み寄ると、まずはクリスに向かって丁寧に一礼した。
「お久しぶりです、クリス姉さん」
「悦子、もの凄い人気じゃない! 大活躍ね!」
クリスと親しげに挨拶を交わした彼女は、いよいよ僕の方へと視線を向けた。リリカが誇らしげに胸を張って、僕に彼女を紹介してくれる。
「天馬兄さん、紹介するね! こちらは志田悦子さん。プロラグビーの選手で、トップリーグ(R1リーグ)で大活躍中の超スター選手なの!」
「初めまして、甲斐田さん……志田悦子と申します」
志田さんは、リリカと同じくらいの180センチほどある堂々たる体躯から、まるで絵画から抜け出してきたかのような極上の微笑みを浮かべ、僕の前で深々と頭を下げた。
「いつも優が、大変お世話になっております」
「……えっ!?」
僕は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「えっ、ええっ!? 優君って……どういうこと?」
「優の嫡妻です。天馬兄さまのお噂は、夫とリリカから耳にタコができるほど伺っておりました」
「あ、ああ、そうだったんだね……! はじめまして、甲斐田天馬です。こちらこそ、いつも優君にはラグビー部でお世話になりっぱなしで……」
慌ててペコペコと頭を下げながら、僕は凄まじい衝撃に叩きのめされていた。
あの可憐で、まるで美少女のような最愛の天使――義弟である優君の嫡妻が、この目の前にいる日本代表のスター選手だなんて、一体誰が想像できただろう。
そういえば、以前ヨッシーから「息子の嫁さんもラグビーをやっててねぇ」なんて話をふんわりと聞いた記憶があったけれど、まさかこれほどの逸材だったとは。
この世界において、男性の個人情報は非常にデリケートだ。だからこそ、みんな優君の妻の素性をあえて言わなかったのだろう。今になって点と線が繋がり、僕は深く納得した。
その後、詳しい経歴を聞いて驚いた。「志田悦子」さんは昨年東相大学を卒業し、今はラグビーのプロリーグ「R1リーグ」で大活躍するスター選手なのだという。リリカにとっては高校時代からの1つ上の先輩で、当時から長い付き合いがあるようだった。
悦子さんは、僕の動揺を包み込むような優しい大人の笑みを浮かべて言う。
「私たちはこれから、宿泊先である『外来宿舎』へ荷物を運んで、午後はミーティングをして今日は終了となります。明日からのグラウンド使用ではご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いしますね」
「あ、うん! こちらこそよろしく、悦子さん」
僕は動揺しながらも、そう応える。
リリカと悦子さん率いる日本代表チームを見送った後、僕とクリスは頭を切り替えてグラウンドへと入場した。
グラウンドでは、すでに連絡係の牧野椿姫大尉が僕と同じデザインのジャージに身を包んで待機していた。
「天馬さん、クリス監督、おはようございます。本日の給水用ボトルとタイムシートの準備、すべて完了しております」
「いつもありがとう、椿姫さん。本当に手際が良くて助かるよ」
僕が微笑むと、椿姫さんは「お役に立てて光栄です」と嬉しそうに目を細めた。彼女のサポートのおかげで、僕たちはすぐに午前のトレーニングに入ることができた。
月曜日の午前のメニューは、身体に過度な負担をかけずに有酸素能力を高める「Eペース(イージーペース)での15km走」だ。
クリスはゴール地点のテントに陣取り、タブレットを片手に、トラックの数カ所に設置されたハイスピードカメラの映像を凝視しながら、選手たちと僕のランニングフォームのチェックを行っている。
「よし、みんな、僕が引っ張るからね。キロ4分をきっちりキープして、リラックスして走ろう!」
「「「はいっ!!」」」
総勢40名の体育隊女子選手たちの先頭に立ち、僕がペースメーカーとして走り出す。
1キロあたり4分――。長距離エリートの彼女たちにとっては文字通り「イージー」なペースだが、真夏のこの湿度の中では、少しでもペース配分を乱せば後半にじわじわと体力を削られる。僕は体内のメトロノームを正確に刻み、寸分の狂いもない完璧なラップを刻み続けた。
淡々と確実に15kmを消化し、全員が揃ってゴールラインを駆け抜ける。
「誤差は1秒未満よ、全員ナイスランでした!」
クリスの弾んだ声が響く。
「ハァ、ハァ……! ありがとうございました!」
選手たちが汗を拭いながら一礼する中、マネージャー陣に混ざって、椿姫大尉が真っ先に僕のもとへと駆け寄ってきた。
「天馬さん、冷たいお水です。どうぞ!」
「ありがとう、椿姫さん」
受け取ったペットボトルの水を喉に流し込み、僕はふと、汗を拭いながら僕を甲斐甲斐しく見つめてくる椿姫さんに、愛おしさに満ちた眼差しを向けた。
過酷な業務の合間を縫って、こうして僕のために尽くしてくれる彼女の存在が、最近は愛おしくてたまらない。
僕の熱い視線に気づいた瞬間、椿姫さんは「あぅ……」と小さく声を漏らし、白皙の頬を一気にリンゴのように真っ赤に染め上げた。普段の冷徹なエリート大尉の面影はどこへやら、完全に恋する乙女の蕩けた表情で、潤んだ瞳を僕に向けてくる。
そんな二人の間には甘酸っぱくて濃厚なピンク色の空気が流れる。
周囲の体育隊の選手たちが「えっ……あの牧野大尉が……嘘でしょ?」と息を呑み、グラウンドが再びざわつき始めた、まさにその瞬間だった。
「――天馬さん。……天馬さん!」
僕と椿姫さんの熱い視線のレーザーを遮るように、目の前に“ドンッ!!”と、完全に感情の消えた、しかし口元だけは満面の笑みを浮かべた「あの顔」が割り込んできた。
「ひゃっ、ひゃいぃっ!?!? きっ…… 北川さん!?」
あまりの神出鬼没ぶりに、僕は驚き、情けない悲鳴を上げて飛び上がってしまった。いつの間に音もなく僕たちの間に入り込んできたんだこの人は。心臓に悪すぎる!
「……くっ! きたがわ~~!」
椿姫さんが般若のような顔で北川さんを睨みつけるが、北川さんはその視線をミリ単位も気に留めることなく、涼しい顔で僕にスマホを差し出してきた。
「お熱いところ大変恐縮ですが、先ほど日本ラグビー協会の会長職も務められている大舘さおり様より、緊急の連絡が入りました」
「えっ? 理事長から……僕に?」
僕は北川さんの声で一気に仕事モードへと引き戻された。
「はい。天馬さんに、是非とも至急で頼みたい案件があるとのことです。かなり重要なお話のようですので、今すぐお電話をつなぎます」
「わ、分かった。お借りするよ」
怪訝に思いながらも、僕は北川さんから手渡されたスマホを受け取った。大舘理事長といえば、ラグビー部のフィジカルトレーニングを僕に託した張本人であり、この世界のラグビー界のドンの一人だ。そんな彼女が、わざわざ僕を指名して頼みたいこととは一体何だろう。
画面に表示された通話ボタンを押し、僕はスマホを耳に当てた。
「もしもし、甲斐田です。理事長、お電話代わりました――」
受話器の向こうから聞こえてくる理事長の声に、僕の表情は徐々に強張っていくことになるのだった。
【あとがき】
今回もついつい熱が入ってしまい、長めのお話となってしまいました……! 物語が進むと、どうしても書きたいことが増えてしまいますね。
次回の更新は【来週月曜日】を予定しています。少し間が空いてしまい恐縮ですが、楽しみにお待ちいただけますと幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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