第70話 それぞれの朝、繋がる絆
7月9日(月) ―― 新座駐屯地、宿舎にて。
昨日開催された「荒川ランニングフェスティバル」の興奮が冷めやらぬ月曜日の朝。僕たちのもとに、一つの大きな報せが届いた。
義父の「ヨッシー」こと大舘真人さんの一家が、ついに避難先の「福生基地」から保護生活を解除されることになったのだ。
一方で、僕や妻たち、そして蘭が身を置く「新座駐屯地」での保護生活は、まだしばらく続く。
事件の残党こそすでに一掃されたものの、完全に安全が確認されるまでは“念には念を”入れるという方針だ。
「天馬さん、あと3週間ほどで解除される見込みですので、もうしばらくの辛抱です」
北川さんと、連絡係の牧野椿姫大尉がそう伝えてくれた。こればかりは安全第一だし、致し方ないものと受け止める。
そんな朝の8時過ぎ、ヨッシーからクリスのスマートフォンにビデオ通話が入った。
実は、僕の私物のスマートフォンは、逮捕された立河によって自由に位置追跡ができるよう細工されていたため、いまだに当局から返却はされていない。
悪用を防ぐために、このまま処分される見通しだ。
新しく支給された端末の番号は、妻たちと蘭、北川さん、牧野大尉にしか教えていないため、今回はクリスの端末を通じての連絡となった。
画面に映ったヨッシーは、いつも通り明るい笑顔を見せてくれた。
『天馬、クリス、みんな元気にしてるか? こっちは無事に福生を出られることになったよ。僕のドラマや映画の撮影は一旦休止になって、延期になっちゃったけど、特に問題はないから心配しないで。優美やミアのロケも休みになったけど、こちらも大丈夫。あっ、そうそう。息子たちの芸能活動にも支障は出てないからね!』
ヨッシーの口から出た言葉に、僕は思わず目を丸くした。
義弟である優君のほかに、息子さんがまだ他にもいたのか……。この世界における男性の個人情報はとてもデリケートだ。僕は詳しく突っ込まない方が身のためだと本能的に察し、それ以上は深く聞かないことにした。
『まぁ、おかげで久しぶりに家族全員で集まる長い休みが取れてね。リフレッシュできたよ』
と笑うヨッシーの元気そうな姿に、僕は心からホッとする。
画面の端からは、義弟の優君と義妹のリリカも顔を覗かせてくれた。
すると、リリカが“ふふっ”と不敵に笑いながら、カメラに向かって言った。
『天馬兄さん、私ね、来週からラグビー日本代表の合宿に参加するの。……またすぐに会えるからね』
なんだか妙に思わせぶりな口調だったが、こうしてヨッシーの家族の元気な姿を見られたことは、純粋に嬉しかった。
クリスも久しぶりに父親のヨッシーと母親のミアさんと直接話せたのがよほど嬉しかったようで、僕から端末を受け取ると、弾んだ声で長々と話し込んでいた。
家族との連絡といえば、蘭のもとにも母親の鳴野咲さんから連絡が入っていた。
咲さんは情報省の要職という極めて特殊な職業に就いているため、滅多に連絡は取れないらしいのだが、蘭は本当に嬉しそうな表情で近況を報告し合っていた。
奈月と美月は、両親と直接電話で話すことは滅多にないそうだが、メッセージアプリを使って毎日欠かさず近況を連絡し合っているという。
また、我が家で最も自由に出入りができる千代乃が直接、月子さんと葉月さんの元へ赴き、僕たちの様子を伝えてくれているそうだ。
ちなみに、奈月と美月の父親である零士さんは、千代乃の正体が奈月と美月の曾祖母であり、「やおびくに」であるという事実は知らない。もちろん、婚約者である蘭にもその秘密は伏せられている。二人にとっての千代乃は、あくまで「天馬のちょっと特別な第6夫人」という認識だ。
皆がそれぞれ、大切な家族と近況を話し合っている光景を、僕は応接室のソファから微笑ましく眺めていた。
(僕にとっては、ここにいる妻たちと蘭こそが、かけがえのない家族なんだな……)
こちらに転移し、孤独の身から始まったこの世界での生活。気づけば、僕の周りには支えてくれる愛おしい家族がこんなにも増えていた。胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
やがて時間が来ると、全員が「日常」へと気持ちを切り替え、それぞれの活動を始めた。
「よし、私もテスト勉強頑張らなきゃ……!」
蘭は気合を入れるように拳を握ると、大学のリモート講義を受講するために自室へと籠った。どうやら定期テストが間近に迫っているらしく、その表情は真剣そのものだ。
美月と愛里の二人も、応接室でノートPCを開いて、リモートでの慌ただしい仕事をスタートさせた。画面の向こうと仕事する姿は、まさに有能なキャリアウーマンそのものである。
「天馬、行ってくるわね。今日は午前中いっぱい、体育隊の選手たちの健康診断があるの」
そう言って白衣を羽織ったのは奈月だ。
受診する全ての種目の選手たちの人数がかなりの数に上るため、午前中いっぱいはかかる見込みらしい。奈月は数人の女性軍医たちに、民間で行われている最新の効率的な健診システムをレクチャーする任務も兼ねていた。
そのサポートとして、朱里も午前中は看護師モードにチェンジとなる。奈月に付き添って医療施設へと向かった。
なお、朱里は午後からは「体育隊」のレスリング選手たちの練習にコーチとして参加する予定だ。相変わらずタフである。
「私は少し、お休みをいただくわね」
千代乃は、午前中に副総理との極秘会談をオンラインで済ませた後、午後からの閣僚らとの会談は、片腕である里美さんに任せ、珍しくのんびりと静養するようだ。流石の彼女も、一連の事件の戦後処理で激務が続いていたのだろう。
身重なので、無理はしないでほしい。
そして僕の隣では、クリスがデスクに向かってノートPCを叩いていた。
「私は、研究の論文を作成するわ。天馬、お互い有意義な一日にしましょうね」
「ああ、お互い頑張ろう」
静かになった応接ルームで、僕はクリスのタイピング音を聞きながら、ノートPCを開き、天使たち……もとい、男子マネージャーから送られてきた陸上長距離・駅伝部の練習日誌に目を通す。
離れていても、それぞれの場所でみんなが戦っている。僕も指導者として、走者として、今できる最善を尽くさなければならない。窓から差し込む夏の強い光を浴びながら、僕は思考を集中させていった。
〜〜〜〜〜〜〜
30分ほどで陸上長距離・駅伝部の練習日誌をチェックし、各自にコメントを返信した。
続いて内線で陸軍広報部を呼び出し、練習開始の時刻を伝える。今日は僕の練習姿を撮影する日なのだ。
僕は護衛を連れて駐屯地内の「体育隊」陸上サブトラックへと向かう。選手たちの健診は午前中いっぱいかかる見込みで、トラックは貸切状態だった。せっかく空いてるこの最高の環境を無駄にする手はない。僕は独りスピードトレーニングを実施することにしたのだ。
「天馬さん、おはようございます。本日のサポートは私が務めさせていただきますね」
サブトラックに到着すると、そこで僕を待っていたのは、なんと「牧野椿姫」大尉だった。さらにその後ろには、彼女の妹である「牧野葵」少尉が3名の広報部スタッフを伴って控えている。僕のトレーニングの様子を、軍の公式動画として撮影するためだ。
今日の僕の服装は、ピンクのTシャツに黒のジャージ姿。
ふと椿姫さんに目を移すと、彼女は驚いたことに、僕と全く同じピンクのTシャツにジャージを合わせていた。栗色の髪は後ろで綺麗にひとつにまとめられている。今日は眼鏡を掛けていないところを見ると、コンタクトレンズにしているのだろう。
いつもの硬い陸軍の制服とは違う、柔らかいスポーティーな私服姿の彼女に親しみを感じると同時に、不意の「ペアルック」状態に、僕は不覚にも胸が“ドキッ!”としてしまう。
一昨日の夜、二人きりで深く話し合ってからというもの、彼女のことがどうしても意識の枠内に入ってきてしまうのだ。
「つっ……、椿姫さん、おはようございます。サポート、よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします、天馬さん」
挨拶を交わしながら、僕はつい顔を赤らめてしまった。すると椿姫さんも、僕の視線を受けて頬を“ぽっ”と染め、どこか蕩けたような熱を帯びた眼差しを返してくる。
「あれ……?」
そんな二人の様子を交互に見ていた牧野葵少尉が、小さく声を漏らした。明らかに数日前とは違う二人の距離感の近さに、目を丸くして驚いている。
ちなみに牧野葵少尉は、いつも通りの陸軍の制服姿だった。ただ、夏服仕様のため半袖で、ミニ丈のスリット入りタイトスカートからは健康的な生足が伸びている。広報部の他のスタッフ3名も同じ姿である。
相変わらず葵さんは抜群に可愛いリポーターなのだが、今の僕の目は、どうしても隣で恥ずかしそうにしている椿姫さんの方へと向かってしまった。
「葵さん、広報部の皆さんも、今日はよろしくお願いします」
僕がスタッフ一同に挨拶を済ませると、椿姫さんが一歩、僕との距離を詰めてきた。
彼女は上目遣いで僕を見つめ、少し目を潤ませながら、恥ずかしそうに囁く。
「あの……あまり、無理はしないでね?」
それはまるで、これから戦いに赴く恋人を気遣うかのような、甘く優しい口調だった。
「あっ……、はい。頑張ります」
僕がドギマギしながら頷くと、それを見ていた葵少尉が「わぁ……」と口に手を当ててフリーズしていた。そして隣のスタッフに聞こえないほどの小声で、「何これ、アニメみたい……」と呟いている。
〜〜〜〜〜
気を取り直して、僕は入念に準備運動を始めた。給水補助とタイム測定は、すべて椿姫さんが担当してくれる。
この世界の夏は、僕が元いた世界の記憶と比べると、そこまで過酷な酷暑というわけではない。世界人口が半分ほどの影響なのだろうか、暑いことは暑いが、うだるような猛暑とまではいかない。
昼間に長距離のペース走をするには流石に無理があるが、短い距離を追い込むスピードトレーニング(インターバル走)なら十分にやれそうだ。
今日のメニューは、最も効果が期待できる「1600mインターバル走(5本)」である。
レスト(休息)は3分間の完全休憩で、設定タイムは1本あたり4分16秒、1キロ換算で2分40秒ペースという、今の僕にとってはかなりキツいが、より実戦に近い設定だ。
動的ストレッチをしてから、30分ほどかけてじっくりと身体を温め、十分にアップを終えた僕は、椿姫さんと葵さんたちが待つスタート地点へと戻った。
「よし!やりますか!」
僕は下に履いていたジャージを脱ぎ、上に着ていたピンクのTシャツをバサリと脱ぎ、椿姫さんに渡す。
現れた僕のユニフォーム姿は、上が胸丈までのピンクの袖無しランニングシャツに、下が黒のローライズなショートタイツ。いわゆる「ヘソ出し」と呼ばれる非常に露出度の高いスタイルだ。足元には、先月の「立川ハーフマラソン」でも相棒を務めたカーボン入りシューズ「エアロスパークα」が鈍く光っている。
「「っ……!」」
その瞬間、椿姫さんも葵さんも、そして広報部の女性スタッフたちも、一斉に僕の身体をガン見した。言葉を失い、完全に顔を蕩けさせて、僕の腹筋や太ももと股間の辺りを凝視している。
数十秒ほどして、ようやく我に返った椿姫さんが、真っ赤になりながらスポーツドリンクのペットボトルを僕に差し出してくれた。
「あ、ありがとう」
それを受け取り、乾いた喉に結構な量を流し込んでから彼女に返す。元の世界ほどではないにしても、やはり7月の陽射しは肌をじりじりと灼いてくる。
5分後、トラックに椿姫さんの凛としたコールが響いた。
「10秒前……5、4、3、2、1……スタート!」
合図と同時に、僕はトラック1レーンにて路面を蹴り出した。
――タッ、タッ、タッ、タッ―—と、カーボンシューズ特有の乾いた走行音が静かなトラックに響く。
1本目を終えて、タイムは4分16秒と、ほぼ完璧な設定通りだ。3分間のレストの間に手早く給水を済ませ、深呼吸をしながら呼吸を整える。再び椿姫さんのカウントダウンが始まり、僕はスタート位置について飛び出していく。
2本目、3本目、4本目——。
400mのトラックを4周回、1600mの疾走を、すべて4分16秒以内のターゲット通りに刻んでいく。
しかしながら、夏場のインターバル走は体力の消耗が激しく、僕の体力を削っていく。
4本目を終えた時点で、僕の呼吸は激しく乱れ、肩が大きく上下していた。
周囲のスタッフたちが「大丈夫かしら……」と心配そうな表情を浮かべる中、僕は気力を振り絞り、自分を鼓舞するように大声で叫んだ。
「よし!ラスト一本だ!」
その声に反応するように、椿姫さんが両手を胸の前で合わせ、目をキラキラと輝かせながら僕を見つめてきた。そのひたむきな視線が僕の視界に入った瞬間、胸の奥から妙な懐かしさとともに、愛おしさが込み上げてきた。
(なんだろう……これ。頑張る意中の選手を懸命に応援する、女子マネージャーみたいだ)
学生の頃(中学高校の頃)、こんな風に誰かの視線を背負って走ったことがあったな。あの頃の甘酸っぱい青春の一ページをいま、このグラウンドで体現しているかのような錯覚に陥る。
僕のテンションは一気に爆上がりした。身体の奥からアドレナリンが噴き出すのを感じ、僕は思わず、椿姫さんに向けてグッと右の拳を突き出した。
椿姫さんは一瞬驚いて目を見開いたが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべ、自身の左の拳を僕の拳へと“カツン”と合わせた。
「はい! ラスト1本……頑張ってください、天馬さん!」
(よしっ……!)
この熱いグータッチの光景は、広報部のビデオカメラによってバッチリと特等席から録画されていた。
そして、ラストの5本目がスタートする。
高まったテンションで身体の重さをねじ伏せ、トラックを4周回、僕は最後の1600mを駆け抜けた。タイムは4分16秒と、極限状態の中、しっかりと設定ペースを死守して走り切った。
ゴールラインを駆け抜けた瞬間、あまりのキツさから僕はコースの内側へと外れ、そのまま青々とした芝生の上へ大の字になって倒れ込んだ。肺が火を噴きそうに熱く、吐く息は生臭い。そして全身から汗が噴き出し、精根尽き果てた状態となる。
「天馬さん! 大丈夫ですか!?」
すぐに椿姫さんが息を切らせて駆け寄ってきた。彼女は芝生に膝をつき、僕の頭をそっと支えるようにしながら、スポーツドリンクを口元へと運んでくれる。
「冷たい……生き返るよ。ありがとう、椿姫さん」
僕が仰向けのまま視線を上げると、すぐ近くに彼女の顔があった。汗を浮かべ、僕を本気で心配してくれているその表情が、たまらなく愛おしく思える。僕の心の中に、彼女への確かな好意が“ストン”と腑に落ちていくのが分かった。
「……うふふ。ねえ、バッチリ撮れてる?」
少し離れた場所で、葵少尉が静かにその様子を見守りながら、広報部スタッフに手で指示を出していた。カメラは芝生の上で視線を交わす僕たちの姿を、余すことなく捉えている。
葵少尉は、完全に蕩けた表情で頬を緩ませながら、満足げに呟いた。
「本当に……まるで青春もののアニメ観てるみたい。すごく絵になるなぁ、お姉ちゃんたち」
頭上からは、夏の強い日差しが遮るものなく降り注ぎ、僕と椿姫さんの身体をジリジリと照らし続けている。けれど、いま僕たちの間に流れる空気は、その太陽よりもずっと熱く、二人の距離をさらに縮めていくようだった。
次の投稿は金曜日に予定してます。
今後ともお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。




