第62話 この世界の闇(前編)
6月19日(火)。
婚約登録を終えた翌日、東相大学のキャンパスは、いつも以上に賑やかな空気に包まれていた。
朝、グラウンドへ向かう途中から、すでに視線を感じる。すれ違う学生たちの表情には、どこか浮き立つような色があり、やがてそれは言葉となって次々と僕に向けられた。
「婚約おめでとうございます!」
「コーチ、ついにですね!」
「蘭先輩、幸せそう……!」
「鳴野さんと、お幸せに!」
祝福の声は途切れることなく続き、そのどれもが純粋な好意に満ちていた。
その中心にいたのは、もちろん蘭――鳴野だ。
部員たちに囲まれ、少し照れたように笑う彼女のもとへ、一人の女性が駆け寄った。
鳴野の幼馴染である三上ルイだ。
「蘭さん……!、よかったぁ……本当に、よかったぁ……!」
彼女は目に涙を溜めながら鳴野へ抱きつき、肩を震わせて喜んでいた。鳴野もまた照れくさそうに泣き笑いながら、その背を優しく叩いている。
「泣きすぎだって、ルイ」
「だってぇ……蘭さん、昔から不器用なんだから……!」
二人のやり取りに、周囲から温かな笑いが起こる。
その光景を少し離れたところから見守りながら、僕は静かに息をついた。
(……いいな)
自然と、そんな感情が胸に浮かぶ。
~~~~~~
鳴野はキャプテンという立場もあり、平日はこれまで通り寮生活を続け、週末のみ千代乃のマンションで過ごすこととなった。
千代乃は既に僕の隣の部屋を購入しており、自らはそこへ引っ越し、もともと住んでいたマンションの一室――美月の隣の部屋を、あろうことか蘭にプレゼントしてしまったのだ。
(億ションでしょ! スケールが違いすぎる……)
僕は内心で苦笑するしかない。
さらに驚いたのは、蘭と千代乃の距離の近さだった。短期間で意気投合した二人は、まるで本当の姉妹のように振る舞っている。蘭にとって千代乃は憧れの存在らしく、その表情には尊敬と親愛がはっきりと滲んでいた。
千代乃もそんな蘭を実妹のように、とても可愛がっている。
……とても微笑ましいのではあるが、正直、僕だけが状況についていけていなかった。
ちなみに、蘭は僕が“稀人”であることと、千代乃と愛理が“やおびくに”である事実は知らされていない。
そんな私生活の変化とは裏腹に、陸上長距離・駅伝部の「第二フェーズ」であるヒルトレーニングは極めて順調だった。負荷の高い坂道走が中心のメニューだが、脱落者は一人もいない。
部員たちの意識は高く、チーム全体の底上げが着実になされている実感があった。
ただ――別の意味での“騒ぎ”も起きていた。牧野葵少尉とのインタビュー映像が公開された影響だ。
「コーチ、あれ完全に好み丸出しですよね?」
「無防備すぎです!」
「完全に向こうのペースじゃないですか!」
「男神がちょろすぎる……!」
部員たちの指摘は辛辣だった。自覚がないわけではないが、こうもはっきり言われると苦笑するしかない。
(……確かに不用意だったかもしれないが、そんなに分かりやすかったか?)
内心で頭を抱えつつも、否定しきれない自分がいた。
蘭との“婚約登録”を済ませ、穏やかな一週間を過ごしてはいた。
だが、その一方で、レース後に行われた牧野大尉との“表向き”のやり取りの裏で、何かが大きく動き出している予感があった。
――その“裏側”は、すでに実体を持って動き出していたのだ。
~~~~~~
―― 遡って6月10日㈰ ——
【北川さんの視点】
あの一件の直後だった。私は男性保護庁の執務室に戻るなり、すぐに端末を起動し、天馬さんの個人情報ファイルへアクセスを試みた。
確認するべきことは、ひとつしかない。
だが――画面に表示された内容を見た瞬間、私は思わず息を止めた。
「……なに、これ……ありえない!」
本来であれば、彼のデータは“特別機密”として扱われているはず、アクセスを試みれば、画面いっぱいに「最高機密」の警告表示が出るのが正常な状態だ。
しかし――今、画面に表示されているのは“一般男性レベルの個人情報”である。それだけでも異常だったのだが、さらに異様なのは――。
「……開けない? 弾かれる」
私はアクセス権限を持っているにもかかわらず、天馬さんのファイルを開くことが出来ない。
認証は通っている。権限も問題ない。なのに――内部に入れない。
まるで――見せかけだけ“格下げ”しながら、実際には別の鍵で封じているような構造だった。
「誰かが……書き換えた?!」
直感だった。特定のパスワード、あるいは裏口があるのかも? 通常のルートでは絶対に辿り着けない設定となっている。
(意図的に隠している……?)
これは単なる不具合でも外部からの侵入でもない。なぜなら、こんな中途半端な形にはならないからだ。
誰かが、意図的に手を加えているとしか思えない。
「これは……内部の仕業ね……」
男性保護庁は信用できない。そう判断するのに時間はかからなかった。
男性保護庁の「男性の個人情報」を扱う執務室内には、私物品と通信機器の持ち込みが禁止されている。
入室前には、しっかりと持ち物検査も実施されているので、セキュリティは厳重である。
執務室内部より外部へ連絡する手段がないので、私は男性保護庁庁舎より退出してから、即座にスマホにて通信手段を“緊急機密回線”に切り替え、出向前に所属していた情報省へと接続する。
呼び出したのは、監査局局長(女性)である。
「……北川です。緊急案件です」
私は天馬さんの状況を詳細に伝えた。
局長の反応は早かった。
『内部防諜課を動かす。それと……吉澤千代乃様を通じて“JISS”(日本国総合戦略研究所)にも協力を要請する。こちらで話を通しておくので、直ぐに情報を共有して』
短い返答だったが、それで十分だった。
「……助かります」
通信を終えたあと、私は小さく息を吐いた。
だが、それだけでは終わらない。
牧野椿姫大尉だ。
あの女は、間違いなく何かを掴んでいる。
情報省監査局は同時に、警視庁にも情報を共有し、牧野椿姫と葵姉妹の警護を要請した。
表向きは警護ではあるが、実質的には監視と保護である。
あえて身柄確保に踏み切らなかったのは、敵側へ察知されるのを防ぐための措置である。
但し、警視庁内部にも内通者がいる可能性が捨てきれないとの判断から、千代乃ルートでの監視と警護も警視庁に気付かれない様に継続を依頼している。
慎重かつ確実に、網を絞る必要がある。
さらに私は、藤野真由美(陸軍大将)さんにも連絡を取った。事情を説明すると、彼女は即座に動いてくれた。
「分かったわ。国防省には私から話を通す」
藤野篤の娘でありながらも、親の七光りに埋もれることなく、つい最近まで陸軍の通称「獅子師団」を率いて、世界の紛争地域で数々の戦果を挙げた彼女は、国防軍のみならず、各省庁の官僚や国会議員、そして大企業の経営者に至るまで多くのシンパがおり、その影響力は絶大だった。
彼女より「国防軍統合監査本部」への協力要請も、迅速に進められていく。
統合監査本部は、4年前の大規模汚職事件を機に設立された組織であり、情報はそこに集約され、一本化されている。
だが――
(それでも、潜り抜けた者がいる)
だからこそ、今回の事態は重い……あのときと同じであった。
私はすぐさま牧野大尉と接触し、情報を共有しあう必要性を感じ、スマホにて彼女に連絡を入れた。
~~~~~~
翌日――6月11日㈪ 午前——
情報省監査局長の指示により、私と真由美さん、千代乃さんの三人は、牧野椿姫大尉と対面した。
場所は「陸軍新座駐屯地」の司令部会議室。外部からの干渉を遮断するための選定だった。
机を挟んで牧野大尉と対峙すると、重苦しい沈黙の中、彼女はこちらを見下すような笑みを浮かべて口を開いた。
「……ごきげんよう、北川さん」
「こんにちは。相変わらず、癪に障る顔ね」
昨日、天馬さんから強引にキスをしてもらい、「うらやまけしからん」状況になりながら、何食わぬ顔で澄ましている態度が気に入らない。自然と言葉に棘が混じる。
4年前、不正を暴くために共闘した仲ではあるが、怜悧冷徹な彼女とはどうしても相容れないものがあった。目的のためなら手段を選ばない彼女に、私は一線を引いている。
だが、彼女は『若駒会』の会長として軍内外に厚い人望を持っていた。なぜこれほど支持されるのか、私には理解できないし、理解しようとも思わない。
「あなたも相変わらず融通が利かないわね。もう少し素直になれば? せっかくの可愛いお顔が台無しよ」
牧野大尉が厭味たっぷりに目を細める。
「あなたに言われたくないわ。天馬さんも言ってたでしょう? そんな顔をすると美人が台無しだって」
言い返すと、彼女は一瞬赤面し、すぐさま眉間に皺を寄せて不機嫌さを露わにした。
静かな火花が散る中、隣に座る真由美さんがため息混じりに割って入った。
「二人とも、いい加減にしなさい。今は私情を挟んでる場合じゃないわ」
その一言で空気が引き締まる。私は小さく深呼吸をして、視線を牧野大尉に戻した。
「……情報を共有しましょう」
「ええ」
切り替えは早かった。牧野大尉が神妙な面持ちで話し始める。
「まず、あの場で強引に甲斐田さんを食事に誘ったことを謝罪します。内通者の目を欺くため、彼に『興味』があるフリをする必要があったのです」
なるほど、と納得せざるを得ない。いけ好かない女だが、こういう時の判断は確かだ。
「もういいわ。天馬さんも気にしてないし」
そう告げると、牧野大尉は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの冷徹な顔に戻り、本題へと入っていった。
「甲斐田さんのデータを意図的に引き下げ、裏で操っていた黒幕は――男性保護庁長官、立河 理子よ」
「……やはり」
私の推測は、最悪の形で的中した。
「それともう一つ、若駒会のネットワークで掴んだ確かな情報があるわ」
牧野大尉の表情が険しくなり、声のトーンが一段と落ちる。
「日本国男性の精液が、海外へ不正に流出しているの」
一瞬、思考が凍りついた。
「……! それって……密輸ですか?」
「ええ。しかも組織的な犯行よ」
これは、国家の存亡を揺るがす非常事態だ。天馬さんの機密レベルを一般男性まで引き下げていたのが、男性保護庁のトップである「立河 理子」だったという事実。
それは予測の範疇だった。だが、後者の報せはあまりに重い。
日本国男性の精液は、その品質の高さから世界市場で莫大な価値を持つ。通称“白いダイヤ”と言われている。
日本が世界の盟主として君臨するための、国家管理下の最重要戦略物資だ。たとえ同盟国相手であっても、不正流出は極刑に値する。
牧野大尉が明かしたその手口は、あまりに卑劣だった。借金を抱えた母親によって「男性保護施設」に預けられた少年たち。彼らが精通を迎えるや否や、施設側が強制売春や不同意性交という形で、海外勢力との不正な性接触を強要していたというのだ。(……そこまで腐敗が進んでいたのか)私は情報の重みに奥歯を噛み締めながらも、牧野大尉を真正面から見据えた。
(……ここまで掴んでいたとは)
私は牧野大尉の情報量に悔しさを滲ませながらも、彼女を正面から見据えた。
「黒幕の一人は、男性保護庁長官――立河理子よ! 精液の不正密輸の手口は以上の通り。ただ、密輸ルートまでは特定しきれてない……。以上が私の掴んだ情報よ」
牧野大尉は一息つくと、さらに続けた。
「それと……これは私一人の成果じゃない。多くの有志が協力してくれた結果よ。若駒会はもはや軍だけの組織ではないわ。全国で800万。協力者は無数にいるし、皆、信頼できる」
彼女の話しによれば、若駒会は陸軍に5万人、国防軍全体では20万人の規模に達するという。さらに省庁の官僚や国会議員、民間企業の役員から従業員に至るまで、その裾野は八百万人にも及ぶ。
すべては58年前に亡くなった「藤野篤」の人徳によるものだ。兵士を慈しみ守る軍隊を築いた彼の人柄に、軍内外の有志が心酔している。若駒会の強い絆は、彼の遺志を継ぐ者たちの無償の献身によって支えられていた。
「……お父様の影響ね」
真由美さんが、表情を揺らしながら呟く。
「はい。皆、藤野少将に心酔しています」
牧野大尉の声には、深い敬意が混じっていた。
対する私の情報はといえば、あまりに心許ない。
「情報省の“内部防諜課”が動きました。それと……ここにいらっしゃいますが、秘密裏に“JISS”へも協力を要請しています」
明らかに牧野大尉の圧倒的な情報量には及ばない。ほとんど何も掴んでいないに等しい事実に、口惜しさと恥ずかしさが交錯する。
その時、隣で沈黙を守っていた千代乃さんが静かに口を開いた。
彼女は牧野大尉の言動から、天馬さんが「稀人」である事実までは突き止められていないと確信したようだ。その核心には触れないまま、千代乃さんは独自に突き止めた情報を話し始める。
「立河理子の素性は偽装されているわ。両親は表向きこそ外交官となっているけれど……実母はアジア第三国の外交官よ。そしてその裏では、女性至上主義組織と繋がっている」
「「!!」」
私と牧野大尉の間に、戦慄が走った。千代乃さんがもたらした断片的な情報のすべてが、いま、最悪の形で一本の線に繋がったのだ。
「――そして、その黒幕は、“蓮田 みずき”よ」
千代乃さんの声が、わずかに温度を失う。私は思わず目を見開いた。
(……あの女か!)
蓮田みずき。元スポーツ庁長官であり、現在は失脚の淵にありながらも議席を維持し続ける現職国会議員。45歳という若さで官房長官や総務大臣、さらには男性保護庁といった要職を歴任してきた政界の怪物だ。
一ヶ月前、彼女は執拗に天馬さんのレース出走を妨害し、彼を社会的に抹殺しようと画策した。それに対し、千代乃さんは彼女が関与した少年への不同意買春、そして立場を悪用した男性職員への性的暴行という、あまりに醜悪なスキャンダルをリークして反撃した。
現在、警視庁が捜査を進めているものの、彼女は「体調不良」を盾に入院という名の雲隠れを決め込んでいる。
この世界においても、“不逮捕特権”を持つ国会議員の壁は厚い。しかし、千代乃さんは冷徹なまでの手際ですでに詰めに入っていた。
「全議員の8割、あるいは選挙区住民による過半数の罷免賛成があれば、あの女を引きずり出せる。現在、総理以下の閣僚級を通じて、罷免採決に必要な票を固めるよう圧力をかけているわ」
涼しい顔で告げられたその言葉は、もはや一民間人の動かせる範疇を超えていた。話はそれだけに留まらない。この件には東欧、アジア、そして国内――三つもの巨大マフィアが複雑に絡み合っているのだという。
事態の規模と闇の深さは、私や牧野大尉の想定を遥かに超越していた。私たちが言葉を失い絶句する中、千代乃さんは迷いのない声で断言した。
「蓮田とマフィアの掃除は、私が引き受けるわ。……あなたたちは、立河を頼むわね」
さらりと言ってのけるこの人は、どこまでも規格外だ。私はただ、圧倒されながら頷くことしかできなかった。重苦しい沈黙が数十秒ほど続いた後、私はゆっくりと牧野大尉へと向き直った。悔しいが、認めるしかない。もはや意地を張っている局面ではないのだ。
私は、長年抱えてきたプライドをかなぐり捨て、かつての宿敵とも言える彼女に対し、深く、深く頭を下げた。
「……私情は捨てます。どうか、全面的に協力してください。天馬さんのため、そしてこの国のために――大掃除を始めましょう」
牧野大尉は一瞬、意外そうに目を見開いたが、やがてその唇に静かな笑みが浮かんだ。
「ようやく、素直になりましたね」
彼女は一歩、私に歩み寄ると、その細い腕で私を強く抱きしめた。
「必ず暴きましょう。あの女が隠し持っている汚泥をすべて、白日の下に晒してやるんです」
私もまた、戸惑いながらも、彼女の背にそっと手を回した。国家の中枢にまで根を張る巨大な闇。その心臓部を貫くための、本当の反撃が今、静かに幕を開けた。
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