第58話 熱狂の後で
更衣室で着替えを済ませた僕は、スタッフの案内でテントの控室へと向かった。
簡易的な設営だが、中は結構な広さがある。
表彰式とインタビューが始まるまでの30分ほどは、ここで待機するように言われた。
出入り口にはスタッフと警備員が立ち、関係者以外はシャットアウトされている。
通常ならば、表彰式とインタビューは、着替えを済ませてから直ぐに行われるが、今回はテレビ中継がないため、スケジュールには余裕があるらしい。
北川さんより、賞状と認定証は後日郵送にして帰宅しても構わない。と、気遣ってくれたのだが、僕は出席を選んだ。
大会関係者、警察、そして沿道の観客、多くの支えがあっての完走だ。感謝の言葉は直接伝えたかったからだ。
そう北川さんに伝えると、とても驚いた表情をしたのちに―—「天馬さんらしいですね」と、そう言った彼女の笑顔は、どこか眩しかった。
「もうしばらくの間、僕の護衛もよろしくお願いします」
僕が頭を下げると、護衛の女性たちは顔を赤くしながら、揃って笑顔で了承してくれた。
スマホには妻たちやヨッシーと零士さん、月子さんに葉月さんからのお祝いメッセージが溢れている。
手短に返信を済ませ、椅子に座って一息ついていると——千代乃が里美さんと真由美さんを連れて控室に入って来た。
「天馬さ〜ん、世界記録おめでとう! それと~お疲れ様でした」
千代乃はいきなり抱きついてくると、祝福のキスをくれた。
——が、数十秒ほどしてから離れ際、彼女の瞳が鋭く光る。
「ねぇ、蘭ちゃんの求愛に応えたって本当?」
「……求愛? 何の話?」
首を傾げる僕に、千代乃は盛大なため息をついた。
「あちゃー……やっぱりわかってない! 蘭ちゃんが愛の告白をした後、天馬さん、自分のサングラスを彼女に渡したじゃない!」
そう言われて思い出す。スパートの邪魔だったから、近くにいた鳴野に投げて預けただけなのだが……。
ただ……鳴野がどさくさに紛れて「愛してます……」と、言ってはいた。
周囲を見ると、北川さんに朱里や護衛たちまでもが顔を赤くして固まっている。嫌な予感がした。
「いい? この世界じゃね、求愛した女性に私物を手渡すのは『君の愛を受け入れる』っていう返答なの! 分かった!?」
「なっ……!?」
予想だにしない文化の壁に、僕は絶句する。
「『そんなつもりじゃなかった』は通用しないわよ! 彼女は本気なんだから!……相当の覚悟をもって告白してるんだから。どう責任取るつもり?」
「どうすればいいのかな?」
すると彼女は、さらに追い打ちをかけるように言う。
「とりあえず〜、蘭ちゃんにはこのあと私の部屋に来るよう伝えてあるから、そこで話しましょうね。北川さんもよろしいかしら?」
そう言って、千代乃は北川さんにウインクを送る。
「はい。後ほど天馬さんと一緒に伺います」
北川さんはわずかに頬を赤らめながらも、きっぱりと答えた。どうやらこの二人、何かを企んでいるらしい。
だが、この状況では従う以外の選択肢はなかった。
――ちなみに、この件はすでに妻たちにも共有されており、帰宅後は千代乃の家に全員で集まることが決定していた。
(……これは、ただでは済まなそうだな)
僕は天井を見上げ、小さくため息をついた。
◆◆◆◆◆
そんなやり取りがあったのち、スタッフに呼ばれたので控室を出る。気持ちを切り替えて表彰式とインタビューを受けるべくて控室を出る。
すると、外の空気は先ほどまでとはまるで違っていた。
――ざわめきが、明確な「期待」に変わっている。
外の特設会場では、すでに報道陣が集まり始めていた。カメラ、マイク、スタッフすべてが女性ばかりだ。
そして、その中心に一本の導線が作られている。
「甲斐田選手、こちらへ」
大会の女性スタッフに促され、僕はゆっくりとそちらへ向かう。
その瞬間――
『『きゃあああああ!!』』
再び割れんばかりに巻き起こる歓声が響く。
さっきまで“観客”だった彼女たちの視線が、今は明確に“対象”として僕に向けられているのがわかる。
朱里が一歩後ろから寄り添う。
「ダーリン、すごい……本当に……」
北川さんはその横で、周囲を鋭く警戒していた。
「本日中に、各メディアから正式な取材依頼が殺到するはずです。後ほど愛里さんと調整します」
「ありがとう、北川さん」
と、僕は短く答えて前を見据える。
僕の傍についてくるのは、朱里と北川さんと護衛のみである。千代乃たちは、クリスと部員、マネージャーらとともに観客の中でその様子を見守る。
特設ステージには、陸連競技委員会役員の増子さんと、中年の女性市長が待機していた。
早速表彰式が行われ、優勝した僕の頭に市長の手で月桂冠が載せられ、賞状が手渡される。続いて増子さんから記録認定証を授与された。
「おめでとう」
増子さんの祝福に、僕は深く頷く。ちなみに二位以下のタイムは1時間9分を超えており、僕とは6分近い大差がついていた。
表彰を終え、僕一人がインタビューブースの壇上へ上がる。その中央に立った瞬間、無数のカメラが一斉にフラッシュを焚いた。
そして――まるでコンサート会場のような地鳴りとなって、観客たちの歓声が響き渡った。
インタビューブースの周りには柵が設けられていて、周りには多くの警備員(全員女性)が配置されている。
ここでインタビューを受けるのは、興奮した観客らが押し寄せてくるのではないかと心配になるが、北川さん曰く「これだけの警備体制なので心配無用です」とのことだった。
――その言葉通り、場は統制されていた。
だが、それでもなお、視線の熱だけは、どうにもならない。
無数のカメラがこちらを向き、観客の息遣いすら感じる距離。
そんな中――インタビュアーが前へと出てきた。
僕はその姿を見て――思わず息を呑む。
(……え?)
そこに立っていたのは――陸軍の制服に身を包んだ女性である。
タイトなシルエットに、ミニ丈のスリットが際どくカットされているスカート。規律を感じさせる装いでありながら、そのラインは妙に艶やかで、服の上からでもわかる見事な胸部装甲が目のやり場に困る。
牧野 葵少尉だ!
僕が若干驚くが、そんなことは気にせず彼女はマイクを手にインタビューを始める。
「先ほどは、どうも⋯⋯甲斐田選手、レースお疲れ様でした」
牧野少尉がそう言った瞬間、歓声が湧く。
今朝は彼女が人波に押されて、インタビューを受けられなかった。でも、今こうして間近で見ると、彼女は相変わらず……いや、前よりもずっと可愛くなっている。
僕は思わず動揺しそうになるのを、なんとか抑えて、歓声が静まるのを見計らってから、彼女に応える。
「……あっ、ありがとうございます。牧野さん……お久しぶりです」
「⋯⋯!、ふふっ、覚えていてくださったんですね、ありがとうございます」
牧野少尉は一瞬驚いた表情をしてから、そう言って、一歩――いや、半歩以上、距離を詰めてくる。
マイクを向けるその手元から、ふわりと香る甘い匂いが鼻腔を刺激し、視線を合わせるだけで、妙に鼓動が速くなるのを実感する。
(落ち着け……レースは終わったばかりだぞ……)
心の中で自分にそう言い聞かせるが、口元が少し緩んでしまうのを自覚する。やはり僕にとっては……彼女は“どストライク”なのだろう。
そんな僕の様子を見て、牧野少尉はくすっと小さく笑い、インタビューが開始される。
「――では、まず最初に。本日のレースについて一言お願いします」
マイクを向けた彼女の声音が一転し、きりっとしたものに変わる。さすがは軍人、切り替えが早い。
僕は一瞬だけ空を見上げ――ゆっくりと口を開いた。
「先ずは、僕が参加するにあたって、尽力してくださった大会主催者の方々、そして運営・警備に関わった皆様に感謝します。本当にありがとうございました。そして、僕をサポートしてくれた皆様、支えてくれた妻たちに感謝を伝えたいです。ありがとうございました。レースについては……とても楽しかったです」
少しだけ笑い、僕は更に続ける。
「特に、妻や仲間の声が聞こえたときは――とても励まされました」
一拍の沈黙後、歓声が湧き上がった。
「かっこいい……!」
「余裕すぎる……!」
「それで世界記録って……!」
「感謝のことば!」
ざわめきが広がる。牧野少尉は僕の受け答えに若干驚きの表情を見せるも、直ぐに切り替える。
「温かいお言葉をありがとうございます! 皆さんの胸にも、その感謝は真っ直ぐに届いたことでしょう。では、改めてレースの内容についてお聞かせください。序盤から一気に独走へと持ち込みましたが、あの一幕も事前のプラン通りだったのでしょうか?」
的確な質問だ。
「はい。最初から設定ペースで押していくつもりでした。タイムを狙うというよりは、走りのテンポを重視しました」
僕はレースを分析した受け答えをする。
「なるほど……では、世界記録を更新された瞬間の率直なお気持ちは?」
一瞬、言葉を選ぶ。
「……嬉しい、というよりは。やり切った、という感覚ですね」
僕がそう答えると、牧野少尉はじっと僕の目を見つめる。頬は赤く染まっている。
「ステキです……“格”が違いますね」
ぽつりと呟いてから、距離を、さらに詰めてくる。
(……近いって……)
視界いっぱいに彼女の顔が入り、僕は思わず視線を逸らしそうになる。
牧野少尉は、にこり、と悪戯っぽく微笑む。
「では、ここからは少し踏み込んだ質問を」
(……なんだろう?)
「甲斐田選手の“好みの女性”について、具体的に教えていただけますか?」
――会場がどよめいた。
「おおーーー!!」
「聞きたい!!」
「少尉ナイス!!」
観客のテンションが一段階跳ね上がる。
(いやいやいや……ここでそれ聞く!?)
僕は思わず内心でツッコミを入れる。だが牧野少尉は、さらに距離を詰めてくる。
「例えば、外見や性格……あるいは仕草など。かなり具体的にお願いします」
完全に逃げ道を塞ぎにきている。しかも距離が近い。今にもその見事な胸部装甲が僕に触れてしまいそうに近い!
「えっと……そうですね……」
言葉を探しながらも、視線のやり場に困る。
ふと横を見ると――朱里がじっとこちらを見ている。
笑顔だが目が笑っていない。
(……これは、下手なこと言えないな)
僕は軽く咳払いをしてから答えた。
「一緒にいて落ち着く人、ですかね。あとは……芯が強くて、自分の考えをしっかり持ってる人」
「なるほど……」
牧野少尉は頷きながら、さらに一歩踏み込んでくる。
「では――年上と年下、どちらがお好みですか?」
「……!」
会場の熱気が最高潮に達する。どう返すべきか一瞬迷った、そのとき――。
「失礼します!!」
凛とした声が、空気を切り裂いた。
視線を向けると――見慣れた顔である。『Jウィーク』の吉永里枝さんと、カメラウーマンの南野文子さんだ。
「週刊誌『Jウィーク』の吉永里枝です」
落ち着いた佇まい。冷静な眼差しで場の空気を一瞬で引き締める存在感を放っていた。
(……助かった……)
思わず心の底からそう思う。
「甲斐田選手、今回の記録は従来の世界記録を大幅に更新するものとなりました。今後のレース選択について、すでに何かお考えはありますか?」
僕は小さく息を整え、真っ直ぐに答える。
「はい。まずはコンディションを見ながらになりますが、フルマラソンへ向けて、しっかりと結果を出していきたいと考えています」
「具体的には、国内が中心ですか? それとも、世界大会も視野に?」
「当面は国内がメインになります。もちろん、いずれは世界と戦うつもりです。ただ、僕一人の独断で決められることではないので……そのあたりは調整が必要ですね」
その言葉に、再びどよめきが広がる。
「では最後に。あなたにとって“走ること”とは何ですか?」
一瞬、間を置いた後に、僕は落ち着いた口調で言う。
「――生きること、そのものです」
静かに、はっきりと答えた。
会場が一瞬静まり――次の瞬間、再び大きな歓声が巻き起こる。
その喧騒の中で、僕はふと吉永さんを見る。彼女はわずかに微笑み――軽く会釈をした。
(……本当に助かった)
心の中でそう呟きながら、僕は再び前を向いた。
時間になったので、隣りに居た牧野少尉がカメラに向かって締めのコメントを入れる。
「ありがとうございました。以上、世界新記録更新直後の甲斐田天馬選手でした!盛大な拍手をお願いしまーす」
マイクが下げられ、ようやく肩の力を抜く。
(よし、インタビュー終了! 次は……千代乃の家で、鳴野との話し合いか……)
レース直後で体はきついが、あいつへの振る舞いを考えれば逃げるわけにはいかない。安易な行動のツケを払う時が来たのだ。こればかりは、致し方なし。




