第56話 立川ハーフマラソン(前編)
6月10日(日)
—— 立川ハーフマラソン大会当日 ——
大会当日の朝は、見事な快晴だった。6月とは思えないほど空気は澄み渡り、気温もまだそれほど高くない。ランナーにとっては、絶好のコンディションといえた。
僕は北川さんや朱里、そして護衛チームと共に「陸軍立川飛行場」の最寄り駅に降り立った。
今日は朱里だけが僕のサポート役として同行している。
奈月と愛里は妊娠中のため、人混みを避け、自宅でネット中継での観戦としている。美月も同じく、僕の自宅にて観戦としている。
(やはり……美月は妊娠したかも?)
クリスは部員とマネージャーを連れて応援スポットの昭和記念公園へ、千代乃は里美さんと真由美さんを乗せた車で、それぞれ現地へ向かうことになっていた。
今日の僕らは全員、お揃いの格好をしている。ピンクのトップスにブラックのボトムス――「ミナーヴァ」から提供された新作のジャージだ。僕の提案で、チームの団結力を高めるために揃えたものだった。
その下には既にユニフォームを着用し、足元には蛍光イエローの『エアロスパークα』が光っている。
一方、走行中にロードバイクで並走する護衛の二人は、機材を車両に積んで直接現地入りする手はずだ。
道中の電車内は女性客で溢れかえっていたが、僕らは男性専用車両を利用したおかげで、目的地までゆったりと座って移動することができた。
だが――ホームに降りた瞬間、僕は思わず目を見開いた。
「……すごいな」
視界の先には、人、人、人。
そして、そのほとんどが女性だった。
ランニングウエアやジャージ姿の女性たちが、楽しそうに会話しながら改札へ向かって歩いている。ゼッケンを付けている人も多い。
駅に降り立った時点で、すでに大会の熱気が伝わってきた。
「全部……ランナー?」
僕が呟くと、隣に立つ北川さんが静かに頷いた。
「はい。本日のハーフマラソン参加者は約7千名です」
「7千人!」
ハーフにしては大規模な大会だ。
北川さんは少し間を置いてから続けた。
「男性ランナーは、天馬さんお一人です」
「……え?」
僕は思わず聞き返してしまった。
「僕だけ?」
「はい。マラソンは女性が中心ですから」
北川さんはあっさり言う。
それは確かにそうなのだが、こうして実際に聞くと妙な気分だ。
ホームを見渡してみる。
色とりどりのランニングウエア、ポニーテールを揺らしながら歩く女性たち、仲間同士で笑いながら会場に向かう姿。
その中に――男性は僕しかいない。当然のことながら、視線は集まる。
しかも、今回、僕が出場することは知らされていない。
僕に気付いた女性たちが次々とざわめき、黄色い声が上がる。
すぐに松田さんたちが僕の前に出て、しっかりとガードを固めた。
「……なんか、すごい光景だな」
僕が苦笑すると、北川さんもわずかに口元を緩める。
「天馬さんが目立つのは、いつものことです」
そう言いながら、北川さんはスマートフォンを確認する。松田さんもスマートフォンを確認してから頷き、僕に報告する。
「ロードバイク組は、すでに現地に到着しております」
既に先行していた護衛2名が、ロードバイクを車両に積んで運び、スタート地点近くで待機していると、松田さんから説明を受ける。
「準備は万全ですね」
僕が言うと、松田さんは小さく「はい」と頷いた。
そして、護衛の二人が自然な動きで僕の左右を固める。目立たないながらも鋭い警戒の視線を周囲に走らせる彼女らに伴われ、僕たちは駅を出て会場へと向かった。
少し後ろを歩いていた朱里が隣に並び、僕の手を軽く握る。
「ダーリン、すごい人だね」
スポーツバッグを肩に掛けた彼女は、どこか楽しげだ。身バレ防止のサングラスをかけてはいるが、そのオーラまでは隠せていない。
かつて「アテナ」と謳われた最強美少女・朱里の知名度は圧倒的で、移動中もあちこちから黄色い声援が上がる。最近は僕と共演したCMの影響もあり、その人気はさらに加熱しているようだ。
しばらく歩くと、主催者側が手配した6名の女性警備員が合流した。僕と朱里、そして北川さんを囲むように、朱里の護衛2名を含めた計10名が外側を固める。まさに隙のない布陣だ。
たかが市民マラソンにしては物々しい警護だが、この世界では「たかが」では済まない。男性が極端に少ないこの社会で、僕は「稀人」として国家機密級の保護対象に指定されているのだから。
周囲からの声援に手を振って応えたいのは山々だが、主催者からはスタートまで控えるよう要請されている。
一度人波が押し寄せれば、収拾がつかなくなってしまうので、こればかりは致し方ないことだった。
やがて「陸軍立川飛行場」の正門前に到着した。ここから先へ入れるのは、僕と北川さん、そして護衛のみとなる。朱里とはここで別れることとなり、しっかりとハグした。朱里はゴール地点で待つこととなる。
陸軍の施設内ということもあって、入場制限がかけられており、入場可能なのは、選手のみとなっている。
しかし、僕は男性なので、特別に護衛と担当官である北川さんは一緒に入場することが許可された。
前回と同じく、北川さんと僕の護衛が、門で待機していた幹部らしき女性に特別な許可証を提示して入場する。すでにロードバイクで待機していた二人の護衛とも合流し、僕は声をかけた。
「朝早くから準備していただき、ありがとうございます。今日もよろしくお願いします」
挨拶を交わしてから、二人の護衛にしっかりとハグをした。
今大会は事前の受付がない。アスリートビブス(ゼッケン)とシューズに装着する計測用ICチップは、あらかじめ郵送されていた。北川さんから受け取ったそれらは、すでに着用済みだ。
ちなみに、送付先には「男性保護法」が適用されている。住所は伏せられ、沖ホールディングスの広報部宛てに届けられていた。
会場へ入るなり、北川さんが声をかけてきた。
「そろそろ会場です」
視界の先に、広々とした滑走路が飛び込んできた。そこが立川ハーフマラソンのスタート地点だ。特別なゲートはなく、滑走路の幅いっぱいに、記録計測用のマットが50mほども横一列に敷き詰められている。
会場には、すでに膨大な数のランナーがひしめいていた。大会スタッフや報道関係者の姿も混じり、遠くでは熱心にアップを始めている者もいる。その人波の中へ、僕たちはゆっくりと足を踏み入れた。
――この世界に来てから、初めてのハーフマラソン。
ここに集った7千人には、それぞれの想いがあるはずだ。記録に挑むアスリートもいれば、自己ベストを追う者、完走を楽しむ者、ただ走る喜びを噛み締める者。それぞれに走る理由があり、その数だけのドラマが、今ここで始まろうとしている。
かつて当たり前だったレース特有のこの空気が、懐かしさから胸の奥でじんわりと熱くなり、自然と鼓動が速まっていくのを感じだ。
~~~~~~
どこか感傷的な気分に浸っていた僕の視界に、ふと、見覚えのある姿が飛び込んできた。
人混みの向こう側でひときわ目を引く、艶やかな栗色のボブヘアー。陸軍の制服に身を包んでいるが、目を引くのはその着こなしだ。制服の一部なのだろうか、深い濃緑色のタイトスカートには際どいスリットが入っており、健康的な脚がミニ丈からのぞいている。それは間違いなく、牧野少尉だった。
彼女も僕の視線に気づいたらしい。ぱっと花が咲いたような表情を明るく輝かせると、迷いのない足取りでこちらへ歩み寄ろうとする。
だが、その歩みはすぐに遮られた。
「きゃあー! 牧野少尉、こっち向いて!」「少尉、サインください!」
彼女の存在に気づいた周囲の人々が、まるで津波のように押し寄せたのだ。かつて僕にインタビューをした牧野少尉の人気は、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いである。
白いヘルメットを被った警務隊(MP)が6名ほど、慌てて彼女を取り囲んでガードを固めるが、熱狂する群衆に阻まれて思うように前へ進めない。牧野少尉は困ったように眉を下げてはいたが、その瞳の奥にはどこか楽しげな色が滲んでいた。
(……なんだろうな、この感じ)
人混みに揉まれながらも、必死にこちらへ手を伸ばそうとする彼女。その様子は、まるで獲物を絶対に見逃したくないと奮闘する子犬のようで、妙に可愛らしく見えてしまった。思わず釘付けになった僕の視線は、無意識のうちに彼女を追い続けてしまう。
「……天馬さん……天馬さんっ! 見すぎですよ」
不意に、横から温度の低い声が鼓膜を叩いた。ハッ! として顔を向けると、そこには北川さんが立っていた。その表情はまるで精巧に作られた能面のようで、向けられた視線には氷のような冷ややかさが宿っている。
「えっ……あ、いや……」
「顔に出てますよ」
僕の動揺を一切無視して、北川さんは無表情のまま断定するように言い放った。さらに一歩踏み込むようにして、逃げ場を塞ぐ言葉を重ねる。
「天馬さん、バレバレですよ。そんなに鼻の下を伸ばして……」
「……マジか」
自分の無防備さを突きつけられ、僕は小さくため息をつくしかなかった。
再び視線を牧野少尉の方へ戻すと、彼女はようやく人の波から抜け出そうとしていた。しかし、あと一歩というところで運営スタッフに誘導され、無情にも別方向へと流されていく。
一瞬だけ、彼女は幼子のような残念そうな顔を見せた。だが、すぐに僕の方を向き直し、確信に満ちた仕草で小さく手を振る。
――「あとで必ず行くから」
声は聞こえなくとも、その唇と瞳がそう告げているのが分かった。
牧野葵さんは……ほんと可愛い!僕はつい見とれてしまう。
そんな僕に、ジト目を向ける北川さん。後で妻たちに告げ口するのであろうか?
この大会もまた、簡単には終わりそうもない。スタートラインの向こう側には、勝負の行方だけではない「何か」が、牙を剥いて待ち構えている予感がするのであった。
~~~~~~
紆余曲折はあったが、僕は北川さんの献身的なサポートを糧に、乱れた心を静かに整えていった。目指すはロードレースの頂点。今はただ、目前の号砲に向けて準備を進めるだけだ。
ハーフマラソンの号砲は午前10時。逆算して9時ちょうどに僕はジャージ姿のまま動的ストレッチを開始した。
10分かけて筋肉を丁寧に呼び覚まし、それから滑走路を利用した20分のジョグへと移る。仕上げに200メートルのウインドスプリントを3本、心拍数を理想的なラインまで引き上げ、ゆっくりとしたジョグで心身を解きほぐしてアップを終えた。
時刻は9時40分、身体は驚くほど軽く、仕上がりは万全だ。
公道を使うロード大会ということもあり、トラック競技のような厳格な選手コールはない。スタート地点には、色とりどりのウェアに身を包んだ女性ランナーたちが続々と集まり始めていた。
脱いだジャージをバッグに詰め、ゴール地点への搬送用に預ける者。傍らの簡易トイレには、直前の緊張からか依然として長い列ができ、誰もが落ち着かない様子で自分の番を待っている。
混雑する周囲をよそに、僕は自分の荷物を北川さんに託すことにしていた。
僕も最後に用を済ませると、北川さんから手渡されたスポーツドリンクを一口、喉の奥へと流し込んだ。それから意を決してジャージを脱ぎ捨て、勝負服であるユニフォーム姿を晒す。
今回の装いは、鮮烈な蛍光ピンクのクロップド丈(胸下切り替え)のノースリーブ・コンプレッションウェアに、漆黒のローライズ・ショートタイツ。
仕上げにスポーツサングラスを装着した僕の姿が露わになった瞬間、周囲の空気が一変した。
参加者、大会スタッフ、果ては報道関係者に至るまで、その場の全視線が僕一点に突き刺さる。直後、地鳴りのような嬌声と歓声が沸き起こり、無数のカメラのシャッター音とフラッシュの光が、爆発したように僕を包み込んだ。
やはり、この大胆に腹部を露出したスタイルは、この世界の人々にとって刺激が強すぎたらしい。
僕は気圧されることなく、北川さんと松田さん、そしてもう一人の護衛へ向き直り、心からの謝辞を口にする。
「いつも守ってくださってありがとうございます。では、行ってきますね」
言葉と共に、一人ひとりの肩を抱き、力強く、それでいて親愛を込めてハグを交わした。その光景が網膜に焼き付いたのか、再び割れんばかりの悲鳴にも似た嬌声が響き渡る。
喧騒を背に、僕は最前列端のスタートポジションへと足を進めた。今大会は申告タイム別にAからEまでのブロック分けがなされており、走力に応じた配置で混雑を回避する仕組みとなっている。
僕は「男性」という希少性に加え、5000メートルの世界記録保持者という肩書きもあるので、当然のように最優先の前列を与えられていた。
僕のスタート位置の横には、走行中の護衛を担当する二名の女性(僕と同じく蛍光ピンクのバイクジャージに同色レーパンに同色のヘルメットを着用、サングラスを掛けている)がロードバイクに跨がり、静かに待機している。僕は彼女たちにも挨拶を済ませると、最後を締めくくる深いハグを交わした。
またしても、周囲から熱っぽいどよめきが漏れる。この世界では、男性からこれほど積極的に、かつ堂々とハグをする振る舞いは珍しいのだろう。
位置についた僕は、自分に課したロードレースのルーティーンに入る。
まずサングラスを外し、前方に向かって深く一礼。続いて右手を左胸の鼓動の上に置き、そっと瞼を閉じる。顎をわずかに上げ、天を仰ぐようにして、肺の隅々まで新鮮な空気を送り込むように深く、長く息を吸い込んだ。
トラック競技の、あの張り詰めた集中力を高める儀式とは違う。これは大会への敬意を示し、同時に己を解き放つためのリラックスの儀式だ。
目を開けたとき、僕の心は凪のように静まり返っていた。
再びサングラスを装着し、視界を勝負の世界へと切り替える。
いよいよだ! この世界に転移して初めての、長いロードレースが幕を開けようとしていた。




