第55話 レースへ向けての準備
6月6日㈬
この日はラグビー部のフィジカルトレーニング指導を行った。
現在は春季リーグの最中ということもあり、疲労を残さない範囲でのメニューに調整している。
この日のメニューは「スプリント式ランジウォーク」と「ボックススクワット」だ。
選手たちはこの2ヶ月間、同じメニューを継続してきた。その成果もあり、フォームはかなり安定している。
さらにフィールドでのインターバル走も、今では20本を問題なくこなせるようになっていた。
僕のフィジカルトレーニング理論の効果が、ここに来てはっきりと現れ始めている。
瞬発力。
パワー。
持久力。
回復力。
そのすべてが明らかに向上していた。大学理事長の大館さおりさんや、勝田戦術担当コーチも、その成長ぶりを高く評価してくれている。
そして、春季リーグ戦は終盤に差しかかっており、東相大学ラグビー部は他大学を圧倒し、ここまで無敗で首位を独走していた。
その強さの理由は、圧倒的なフィジカルにある。
瞬発力、持久力、パワー、回復力、スピード―—。すべてが異次元のレベルにあり、さらにコンタクトの強さまでもが桁外れだ。
ゆえに、試合の支配率は必然的に高まる。素人の目から見ても、実力差はもはや残酷なほど明白だった。
一方、上位を争う他大学では、主力選手の半数近くが故障で離脱しているという。
だが――東相大学ラグビー部に、故障者は一人もいない。
そんな強いチームを放っておく筈はなく、一軍の選手全員がプロリーグのスカウトの目にとまっているらしい。
特に――義妹のリリカは、ドラフトの超目玉候補だと専門誌が予想している。
〜〜〜〜〜〜〜
トレーニングを終え、グラウンド脇でストレッチをしていると、リリカがタオルを肩にかけて歩いてきた。
「天馬兄さん」
「お疲れ」
僕が声をかけると、リリカは額の汗を拭きながら笑った。
「最近、相手チームが可哀想になってきました」
「どうして?」
リリカは肩をすくめる。
「だってさ――負ける気がしないんだよね」
その言葉には驕りではなく、確かな自信があった。
僕は苦笑する。
「慢心はするなよ」
「してないよ」
リリカは拳を軽く握り、即答する。
「でもさ、体の動きが全然違うんだよ。当たり負けしないし、速く動けるし、最後まで脚が動く! これ、天馬兄さんのトレーニングのおかげでしょ」
リリカは少し照れくさそうに笑った。
僕は首を横に振る。
「全ては、お前たちの努力だよ」
リリカは驚きの表情を浮かべ、小さく笑った。
「そんなことないよ⋯⋯でもさ」
一拍置く。
「このチーム、今めちゃくちゃ強いよ」
その言葉には、春季リーグ完全制覇への確信が込められていた。
東相大学ラグビー部の快進撃もあってか、レギュラー選手全員に全日本代表の夏合宿への招集がかかっているらしい。顧問を務める理事長からそう聞かされた。
鶴田監督と若山ヘッドコーチは、代表合宿への参加にかなり乗り気のようだ。
だが、事前に視聴した代表チームのフィジカルトレーニング動画は、お世辞にも褒められたものではなかった。
手法があまりに古く、このまま参加させれば故障のリスクが高い。
そこで僕は、参加にあたって一つ条件を提示した。
フィジカルトレーニングに関しては、僕の理論を取り入れること。
理事長を通じて協会側にそう申し入れ、それが受け入れられるなら協力する、という形を取ったのだ。
その件については現在、理事長と協会側とで調整が進められているという。
ちなみに、鶴田監督と若山ヘッドコーチから了承を得ることができた。僕のフィジカルトレーニングの効果が出始めたことに加え、理事長と愛斗君が説得してくれたおかげだ。
その件を知ったリリカは笑っていた。
「天馬兄さん、日本代表のフィジカルコーチになったりして」
「断る」
僕は笑顔で即答した。
「即答!?」
「忙しくなるから……無理だ」
リリカは声を上げて笑った。
~~~~~~~
帰宅した僕は、自宅リビングにて、北川さんと当日の護衛チームと、今週末の「立川ハーフマラソン」での護衛配置についての最終確認を行っていた。
北川さんがタブレットを見ながら言う。
「天馬さんの走行中は、ロードバイク二台による二名体制で護衛します」
画面にはコース図が表示されている。北川さんは指でルートをなぞりながら説明する。
「一台が横に付き、もう一台が後方を追走します」
僕は頷いた。
「観客との距離は?」
「接触距離には入らせません」
北川さんは即答した。
「沿道の警備は警察と連携済みです。特にスタート地点とゴール地点は、警備レベルを一段階引き上げます」
北川さんは淡々とした口調で説明し、画面が切り替わる。
「ゴール地点には、さらに二名を配置いたします」
ゴールエリアのマークを指差す。
僕は苦笑した。
「……大げさじゃない?」
すると北川さんは真顔で答えた。
「大げさではありません。天馬さんは、この国にとって非常に重要な存在ですから」
稀人――その言葉は口に出されなかったが、意味は十分に伝わった。男性が極端に少ないこの世界で、僕の存在は国家機密級の保護対象なのだ。
北川さんはさらに続ける。
「当日の護衛は計4名体制です。リーダーは松田さんに任せます」
「分かりました。よろしくお願いします」
僕がそう言うと、北川さんは小さく頷いた。
「天馬さんは、走ることだけに集中してください」
「ありがとうございます」
僕は北川さんに向かって深く頭を下げ、そして軽く抱きしめた。
北川さんは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにわずかに口元を緩める。
「頑張ってください」
今のコンディションなら、かなりいいタイムが出る。
立川のコースを思い浮かべながら、僕は小さく息を吐いた。
(……楽しみだ)
打ち合わせが幕を閉じようとしたその時、北川さんが真剣な面持ちで口を開いた。
「……実は最近、陸軍の一部将校に妙な動きがあるんです」
その一言で、部屋の空気がわずかに緊張を帯びた。
「妙な動き、とは?」
僕が怪訝な表情で聞き返すと、北川さんは声を潜めて続けた。
「陸軍内に『若駒会』という若手将校の集まりがあります。その関係者が、今大会のスポンサー企業や主催者側に接触を図っているようなのです」
「スポンサーに……? 一体、何の目的で?」
「名目は、大会への“広報協力”です。軍関係のメディアが会場に入り込む可能性があります」
思わず眉をひそめた。今回のレースはスタート地点が陸軍の施設内ということもあり、エントリーリストはあらかじめ陸軍側に提出されている。僕の出場は非公表だが、リストを見れば一目瞭然だ。
つまり――陸軍は僕の出場をすでに把握している。あの牧野少尉が、再び僕の前に現れるかもしれないということだ。
北川さんはタブレットを閉じた。
「我が国は、軍の派閥は公式には禁止しております」
「若駒会は?」
「上層部からは、若手の勉強会や交流会のような“サークル的な集まり”と認識されてます」
そのとき、後ろから千代乃の声が聞こえた。
「天馬さん、その若駒会なんだけど……」
振り向くと、千代乃が静かに立っている。その後ろには、千代乃の担当官である里美さんと愛理の担当官である真由美さんまでもが控えていた。
3人とも、陸軍に在籍していたこともあってか、どこか事情を知っているような顔をしている。
千代乃は少しだけ表情を引き締めて言った。
「調べたんだけど―—若駒会は、一兵卒から若手幹部――大尉クラスまでの若手軍人で構成されてる組織よ」
里美さんが補足する。
「年齢層は19歳から29歳くらいですね」
真由美さんも続けた。
「会員は全国で5万人ほどいると言われています」
僕は思わず目を瞬いた。
「……結構な規模ですね」
千代乃は頷く。
「主な活動は、一兵卒の待遇改善の提言をしてるわ」
「待遇改善?」
僕は怪訝な表情をする。
「うん、給与や福利厚生……それに教育制度などね」
里美さんが続けた。
「若駒会は、これまでにも“陸軍の魅力化政策”を提案してきました」
真由美さんも頷く。
「実際にいくつかの制度は採用されており、一定の成果も出してます」
3人の話しを整理すると、若駒会は、ただのサークル的な会ではない。若手軍人の中では、かなり影響力のある組織らしい。
真由美さんが続ける。
「そして、若駒会の会長ですが……」
一拍置いた。
「陸軍監査本部の牧野 椿姫大尉です」
「牧野……大尉?」
その名前に僕は少し反応した。
千代乃が頷き応える。
「うん。先日インタビューを行った牧野 葵少尉のお姉さんよ」
「……なるほど」
なんとなく繋がった気がした。
さらに千代乃は続ける。
「そして、もう一つ――」
その言葉に、3人の表情が少しだけ真剣になる。
「若駒会は、ある人物を強く尊敬していることでも知られてるわ」
「誰を?」
千代乃は静かに言った。
「篤……さん……藤野 篤よ!」
父の名がでたことに、僕は驚きを隠せず、心臓がわずかに跳ねた。
——藤野 篤。
僕の実父であり、稀人でもあり、この世界で陸軍の英雄として神格化されている人物である。
そして―—千代乃の元夫であり、里美さんと真由美さんの父親でもある。
里美さんが替わって話しを続ける。
「若駒会は、おとう…さ……藤野 篤の思想を理想として掲げている組織でもあります」
真由美さんも続けた。
「兵士を守り、現場を大切にする軍隊! それを実現した人物として、藤野 篤を尊敬しているそうです」
僕は言葉に出すことが出来ず驚愕の表情をする。
「……」
千代乃は少し困ったように笑った。
「実は……若駒会の一部で、天馬さんについて調べてるらしいの」
「僕?」
「うん」
千代乃はゆっくりと頷き、間を置いてから続ける。
「篤さんに―—容姿がとても似てるから……」
真由美さんが小さく肩をすくめて続ける。
「ですので――人工授精で生まれた藤野篤の子ではないか? と、探りを入れているようです」
僕は思わず苦笑した。
「……なるほど」
妙に納得してしまう。
里美さんは静かに言った。
「若駒会の真の目的は、まだわかりませんが、おそらく――天馬さんを陸軍側に取り込もうとしているのではないかと推察します」
部屋が少し静かになった。
すると、千代乃がすぐに笑顔を作る。
「でも、安心して」
真由美さんも言う。
「天馬さんに危害が及ぶことは、まずありません」
千代乃が軽く拳を握った。
「もし何かあっても――何とかするわ!」
その言葉は、冗談ではなかった。そして真っすぐ僕を見て、小さく付け加えた。
「天馬さんは……私たちが守るから、走ることだけを考えて」
その言葉に、僕は小さく頷いた。
レースまで――あと4日。立川のスタートラインには、どうやら“走る者”だけではなく、様々な思惑も集まり始めているらしかった。




