第53話 ヒルトレーニング
6月1日㈮
来週10日㈰、僕は「立川ハーフマラソン」に出走する。
レースに向けた調整は順調で、体調も仕上がりも申し分ない状態だ。
コースは「陸軍立川飛行場」をスタートし、一般道から「昭和記念公園」のランニングコースを巡るルートとなっている。
スタート地点が陸軍の施設内というのは少し気になるが、記録会以降、陸軍からの直接的な接触はない。
もっとも——牧野少尉のインタビュー動画は、今も再生数を伸ばし続けている。
ネットでは、“陸上界の男神を魅了した女”などというキャッチコピーまで付けられ、彼女は国防軍のイベントに引っ張りだこらしい。
(……まあ、あの映像の僕の顔を見れば、そう言われても仕方ない)
そう思いつつも、今は目の前のチームの方が重要だ。
東相大学長距離・駅伝部は基礎トレーニングが順調に進んだため、予定より一週間早く、今日から第二フェーズ——ヒルトレーニングへ移行することにした。
期間は8週間。
週2回の頻度で、8月頃まで継続する予定だ。
坂道を利用し、脚筋力と心肺能力の強化、そして足さばきのスピード向上を狙う。
但し、ヒルトレーニングには坂道が必須となる。
練習場所の確保に苦労するかと思ったが、幸運なことに大学の裏手に絶好の坂路があった。
舗装はアスファルトだが、距離は約600m、平均傾斜は約5%。
しかも歩道が広く、安全面にも問題はない。
この場所を北川さんに相談したところ、護衛面でも支障はないとのことで、練習場所として正式に了承をもらえた。
~~~~~~
16時30分、僕とクリス、そして部員とマネージャーたちは坂道の下に集まっていた。
坂を見上げる部員たちの表情は、どこか緊張している。
「……結構長くないですか?」
一年生の一人が呟くが、僕は笑った。
「安心しろ、今日は地獄じゃない。たったの200(メートル)だ」
「今日は?」
「今日は“技術講習”だ、来週からは300(メートル)だ」
部員たちの間に小さな笑いが起きる。
僕は事前に動画で説明はしていたが、今日は実演を交えて4種類のメニューを教える。
僕は指を一本立てた。
「ヒルトレーニングは主に4種類やる。まずは――スティーブヒルラン」
①スティープヒルラン
いわゆる腿上げをしながら坂道を駆け上がるランだ。腿上げは素早く、進む速さはゆっくりと駆け上がる動作である。
僕は軽く助走をつけ、坂を駆け上がった。
ピッチを少し高めにし、上体をやや前傾させる。力まず、小刻みなリズムを刻む。
腿上げ走をしながら、50mほど登ったところで止まり、振り返った。
「今のが基本形だ!」
僕は指でポイントを示す。
「歩幅を小さく、しっかり膝を90度近くまで上げ、ピッチ(足の回転)を速く意識しながら駆け上がる」
そして、僕はその効果を説明する。
「主な効果は三つ。脚筋力の向上、フォーム改善、そして心肺機能の強化」
重力に逆らって体を押し上げるため、平地より脚への負荷が大きいので、自然と膝が高く上がり、腕振りも強くなる。
結果として無駄なブレがない、効率的なランニングフォームが身につく。
「ポイントは三つ」
指を折る。
「上体は軽く前傾、ストライドを広げすぎない、ピッチで登る」
鳴野が手を挙げた。
「コーチ、力んで踏み込んでもいいんですか?」
「ダメだ」
即答する。
「坂は“押す”んじゃない。素早く回すんだ」
僕は足を軽く動かして見せた。
「リズムを崩したら終わりだ」
~~~~~
次に指を二本立てた。
「次はヒルバウンディング」
②ヒルバウンディング
弾むような大きな歩幅で一歩一歩、地面を強く蹴り出し、三段跳びの“ホップステップ”をするようなイメージで、前方に飛び跳ねながら素早く進む。
僕はスタート地点まで戻り、今度は大きく弾むように走り出す。
弾む!
弾む!
脚を大きく伸ばし、弾むように前方に地面を力強く蹴り出して進む。
数歩で止まり、説明する。
「これは脚筋力トレーニングだ」
僕は膝を上げて見せた。
「ポイントは“弾むこと”」
クリスが補足する。
「ジャンプじゃないわ。前に進むバウンディング」
「そう」
僕は頷いた。
「接地は短く、力強く」
鳴野が小さく呟く。
「……きつそう」
「きついぞ」
僕は笑う。
「でも効く」
続けて効果を説明する。
「爆発的なパワーと股関節の柔軟性、そしてランニングエコノミーの向上——つまり、疲れにくく、速く走れる体になる」
~~~~~~
次に指を三本立てた。
「次はヒルスプリンキング!」
③ヒルスプリンギング
バウンディングに似ているが、前ではなく上へ跳ねることを意識する。
僕はまたスタート地点に戻り、上へ飛ぶように膝を高く上げ、腕を大きく振って全身でリズムを刻みながら駆け上がる動作をする。
「コツとしては、バウンディングと違って、真上へ弾むイメージで駆け上がること、ただし、歩幅は狭く靴一足分くらいで進むこと」
僕は更に注意点を説明する。
「足首とふくらはぎを使い、足裏全体で着地せず、前足部で接地すること。足首のバネを最大限に活用するように」
10メートルほど実演してから、効果を説明する。
「これは大臀筋、ハムストリングス、ふくらはぎの最大筋力を鍛える。さらに――坂は着地衝撃が小さい。だから高負荷でも怪我のリスクが低い」
部員たちは食い入るように聞いていた。
~~~~~~~
僕は最後に4本目の指を立てた。
「最後はダウンヒルストライディング」
④ ダウンヒルストライディング
下り坂を利用して、スピードに乗って走るトレーニングだ。
僕は坂の上まで行き、振り返る。
「これは“スピード感覚”を体に覚えさせるトレーニングだ!」
僕は軽くスタートを切ると、身体が自然に前へ流れ、脚の回転が速くなり、坂の力を借りてスピードに乗る。
下り切ったところで止まり、注意点を説明する。
「下りはスピードが出る。だから無理にブレーキをかけないこと」
僕は続けた。
「ただしフォームは崩すな。重心はやや前だ」
クリスが補足する。
「接地は体の真下。前に突っ込まないこと」
「その通り」
僕は頷いた。そして効果を説明する。
「重力の助けを借りれば、平地以上のスピードを引き出すことが可能だ。これにより神経系と筋肉が刺激され、高速な動きが脳と体にインプットされる。結果として、脚の回転スピードが底上げされる!」
説明を終えると、部員たちの表情は変わっていた。
さっきまでの不安は消え、目が輝いている。
鳴野が拳を握る。
「……面白そうですね」
クリスが笑う。
「面白い? そのうち泣くわよ」
「望むところです」
部員たちから笑いが起きた。
~~~~~~~~~~
僕は腕時計を見た。
「よし、まずはスティープヒルラン(腿上げ走)を200メートル5本な」
一拍おいて言う。
「全員上り切ったら、ヒルストライディングで戻ること!先に上ったものは、しっかりと呼吸を整えておくように」
3人ずつ5~6mの間隔でスタートさせた。
その後は、ヒルバウンディング~ヒルスプリンキングを各5本ずつ僕も一緒に実施した。
全てを終えた時には、全員息も絶え絶えな状態となっていた。
だが――これで終わりではない。僕は最後の仕上げに取りかかる。
「よし! 締めは上り坂ダッシュ三本だ。ほら、行くぞ!」
仕上げに選んだのは、200mの上り坂を駆け抜けるヒルスプリント。全力で坂を登り切り、下りはジョギングで呼吸を整えながら戻る。これを1セットとして、体に鞭を打った。
これも僕は一緒に実施した。
~~~~~
一本目のヒルスプリントが終わった時点で、すでに数人が膝に手をついていた。
「はぁ……っ、はぁ……!」
「ちょ、ちょっと待って……脚が……」
坂の下に戻ってきた部員たちは、完全に酸欠状態だ。顔は真っ赤で呼吸も荒い。
だが僕は腕時計を見て、淡々と言った。
「休憩1分」
「「「えええぇぇぇっ!?」」」
悲鳴に近い声が一斉に上がる。
鳴野だけは、膝に手をつきながらも笑っていた。
「ははっ……! これ、めちゃくちゃキツいですけど……!」
息を整えながら顔を上げる。
「……楽しいです!」
僕は驚きを隠せず鳴野に言い放つ。
「お前は楽しむタイプか!」
「はい!」
鳴野は息を切らしながらも目が輝いている。
「坂って、こんなに脚に来るんですね……!」
その横で、三上は地面に座り込んでいた。
「……っ!」
額から大量の汗が滴っている。
「……これは……」
息を整えながら呟く。
「……想像以上ですね……」
普段は冷静な三上だが、さすがに余裕はないらしい。
僕は軽く笑った。
「いいトレーニングだろ?」
三上は苦笑した。
「……正直に言うと」
息を吐く。
「……かなりキツいです」
「それでいい」
僕は息を整えながら言った。
「坂は嘘をつかない」
腕時計を見る。
「よし、二本目」
「ま、まだやるんですか!?」
鳴野が笑いながら叫ぶ。
「あと二本だ」
「鬼だ……」
誰かが小さく呟いた。
そして——3本のヒルスプリントを終えた頃、全員が完全に限界となり、坂の下には、ぐったりした部員たちが転がっている。
「はぁ……はぁ……」
「脚……終わった……」
「明日……歩けるかな……」
鳴野だけは仰向けになりながら笑っている。
「いやー……ヤバいですねこれ」
「楽しいんじゃなかったのか?」
僕がそう言うと鳴野は笑いながら応えた。
「楽しいですけど!——楽しいけど死にそうです!」
一方……三上は地面に座り込んだまま言った。
「……心拍数……完全にレッドゾーンですね」
クリスが腕を組んで頷く。
「いい刺激ね」
部員の一人がぼそっと言った。
「……終わり……ですよね?」
期待を込めた声だった。
僕は少し考えるふりをしてから言った。
「そうだな」
部員たちの顔に安堵が広がる。
だが——僕は続けた。
「ランメニューは終わりだ」
全員が絶望にも似た表情で一瞬沈黙した。
部員の一人が呟く。
「ラン……メニュー?」
僕は笑顔を交えて全員に言い放つ。
「補強やるぞ」
「「「ええええぇぇぇ!?」」」
一斉に悲鳴が響いた。
「まだあるんですか!?」
「当然だ」
僕は坂の横の芝生を指さす。
「体幹トレーニング」
部員たちの顔が一斉に引きつった。
鳴野が恐る恐る聞く。
「……メニューは?」
僕はさらっと言った。
「プランク、バックプランク、サイドプランクを1分3セットずつ。最後にマウンテンクライマーでTBT式だ」
沈黙——。
「……」
「……」
「……」
そして、誰かが呟いた。
「……コーチ」
「なんだ?」
「ドSですか?」
周囲が一斉に頷いた。
「絶対ドSですよね」
「間違いない」
「鬼コーチ……」
鳴野だけは笑いながら言う。
「いやー……」
息を整えながら顔を上げる。
「天馬コーチって、優しそうな顔してますけど……めちゃくちゃSですよね」
僕は肩をすくめた。
「強くなるためだ」
三上は芝生に倒れ込みながら呟いた。
「……理屈は……分かります」
深く息を吐く。
「……ですが」
顔を上げる。
「……今日は、もう十分強くなった気がします」
周囲が一斉に笑った。クリスも小さく笑っている。
僕は手を叩いた。
「はい、集合」
部員たちがゆっくり集まる。
「フォーム重視だ」
僕は言った。
「体幹が崩れたら意味がない」
鳴野が笑いながらうつ伏せになる。
「よーし……やるか……」
三上も渋々プランク姿勢を取る。
「……坂よりキツいかもしれませんね」
僕は腕時計を見た。
「よし」
一拍置く。
「スタート!」
苦悶の叫びがまたひとつ漏れ、夕暮れの空へと溶けていった。ほんの少しずつの歩みかもしれない。しかし、この泥臭い積み重ねこそが、勝利への唯一の最短距離であると確信していた。




