第48話 記録会(国防軍主催)・前編
5月26日㈯
朝5時、目覚ましが鳴る前に自然と目が覚めたのは、今日が記録会当日だからだろう。
キッチンに立ち、まずは炊飯器の蓋を開ける。湯気とともに立ち上る米の香りに、少しだけ肩の力が抜けた。
今日は弁当作りから一日が始まる。
妻たち――奈月、朱里、愛理、クリス、美月、千代乃。それに北川さん、里美さん、僕の護衛4名、クリスの護衛2名、千代乃の護衛6名と⋯⋯合計20人分の弁当だ。
今日は真由美さんは同行しない予定なので、その分は用意していない。
愛理と手分けしてお弁当を作る。
「多いですね……」
そう言いながら手際よく卵焼きを巻いていく愛理の横顔は、相変わらず可愛らしい。
思わず後ろから抱き寄せると、彼女は抵抗もせず、自然に体を預けてきた。
そんな愛理との短いやり取りのあと、再びそれぞれの作業に戻る。弁当が並んでいくにつれ、少しずつ記録会当日の実感が湧いてきた。
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今日の記録会は、「関東州学連」に登録している大学陸上部に所属する学生のみが参加できる限定的な記録会であり、会場は「陸軍・新座駐屯地」内の「国防軍体育隊スタジアム」にて開催される。
長距離種目は10000m走のみで、五日間にわたって行われる。
ここで参加標準記録を突破した選手だけが、9月の「日本インカレ」への出場資格を得られる。
ただし、日本インカレは「ターゲットナンバー制」(出場人数制限)が設けられているので、記録上位60名のみ出場可能となる。
エントリー多数の場合、容赦なく足切りが行われる。
この記録会には国防軍の意向として、多くの学生に参加してもらいたいので、参加標準記録は設けていないが、制限時間は38分となっている。
国防軍としては、有力な原石の発掘と、「国防軍体育隊」へのスカウトも目的に含まれているらしい。
他の州でも同じ記録会が開催されている。
なお、二週間前の「関東州学連インカレ」出場校及び選手は、今回の記録会には参加できない。
同大会に出られなかった大学への機会提供という位置づけだ。
しかし、会場や運営の都合により、各大学の出場枠は30名までと定められている。
今回は40校が参加するため、総勢1,200名の選手が40組(各組30名)に分かれ、1日8校ずつ5日間にわたって記録会が実施される。
実は、先週も5日間にわたって「短・中距離」の記録会が行われており、我が東相大学の「短・中距離部」は、100m走で1名が好記録を出したのみだったと聞いている。
国防軍の施設内ということもあり、選手や関係者の移動はスタジアム周辺に限定されている。もっとも、軍事機密に抵触するような設備はないため、写真撮影などは特に制限されていなかった。
しかしながら、立ち入りは参加選手、関係者、そして許可を受けた報道陣のみとなっているので、妻たちは同行できない。
そのことを告げたとき、妻たちは皆そろって残念そうな表情を浮かべていたが、こればかりは仕方がない。
ただ――千代乃と里美さんだけは、駐屯地内への立ち入りが可能だ。
里美さんが陸軍からの出向者であるなら、真由美さんも入れて不思議はないはずだが、どうやらそう単純な話ではないらしい。
おそらく、千代乃が裏で何か手を回したのだろう。
(……深く聞かない方が良さそうだな)
弁当を詰め終え、簡単に身支度を整えると、7時ジャストに自宅のインターホンが鳴る。北川さんが迎えに来てくれたのだ。
僕は同居する妻らと共に、自宅玄関を出、マンションエントランスへと行き、北川さんと合流する。
北川さんは抑揚に挨拶をした。
「天馬さん、旦那様方、今日もよろしくおねがいいたします」
今日の北川さんと護衛は、黒色のジャージ姿である。体のラインがくっきりと浮かんでいて、とてもセクシーだ。
北川さんより駐屯地への入場許可証とスタッフカードを手渡される。
妻らが自宅マンションエントランスにて、僕を見送る。
その際、特に愛理が今にも泣きだしそうな表情で僕を見つめてきたので、愛おしさから、愛理を抱きしめてキスをしてしまった。
それを見ていた北川さんと護衛と、マンションのコンシェルジュの女性らは、数十秒ほどフリーズしていた。
そんなやり取りの後に、僕は北川さんと護衛4名とともに家を出た。その中には松田さんの姿もある。
前回同様、北川さんを通じてお願いしたのだ。
徒歩で移動し、待ち合わせ時間よりも少し早い7時20分頃に最寄り駅に到着すると、すでにクリスと部員たちと男子マネージャーとその護衛らが既に集まっていた。
『『おはようございます!!』』
「おはよう」
軽く声を掛け合いながら、全員で改札へ向かう。
そこで、僕は初めて“この世界の電車”を前にして、足を止めた。
「……え?!」
ホームに掲示された案内板には、はっきりとこう書かれていた。
『男性専用車両乗り場』
隣には『女性は護衛・警備担当者のみ同乗可』と注釈がある。
「……なるほど、そう来たか」
思わずそう呟くと、隣にいた北川さんが、男子マネージャーに聞こえない程の声音で囁く。
「天馬さん、初めてでしたね」
「うん、正直……驚いた」
僕がそう頷くと、北川さんと護衛の松田さんは、くすりと笑みを浮かべた。
最後尾の車両は“女性専用車両”ではなく、“男性専用車両”となっているのを目の当たりにし、この世界に転移してから頭では理解していたつもりだったが、実際に目にすると、やはり戸惑いは隠せない。
2名の男子マネージャーとその護衛4名、そして僕と北川さんと護衛4名は、規定通り同乗する。
尚、北川さん含め、護衛の女性たちは首に護衛証明証をぶら下げている。
車内には護衛を伴わない数名の男性が乗車していて、とても静かだった。
余計な視線はないが、どこか張り詰めた空気があり、静かすぎて余り居心地はよくない。
(……イマイチ……落ち着かないな……)
そんな感想を抱きつつ、僕は窓の外に流れる景色を眺めていた。
『新座駐屯地前』という駅を降り改札を出ると、多くの出場選手とその関係者が降りる。周囲は女性ばかりで、僕と男子マネージャーの姿が目に入るたび、あからさまに驚いた表情が向けられる。
徒歩で数10分程歩くと、『陸軍・新座駐屯地』の正門前に到着し、衛門前にて迷彩服姿の女性兵士に、入場許可証とスタッフカードを提示すると、専用の導線へ案内され駐屯地内へと入る。
許可証確認の間、僕の背後には小銃を携行した女性兵士が立ち、終始こちらを監視していた。
改めてここは軍施設であることを認識させられた。
北川さんと僕の護衛4名は、衛門で待機していた幹部らしき女性に、何か特別な許可証を提示し、同じ専用導線を通って入場した。
後で聞いた話だが、護衛は拳銃を携行しているため、本来は持ち込み不可なので、それを許可する特別証だったらしい。
駐屯地内に入ると――広い! 率直にそう思った。敷地は視界の先まで続き、建物の配置も整然としている。
そして、陸上競技場が姿を現した瞬間、部員たちから小さなどよめきが漏れた。
「……でか……」
「これ、メインだけじゃないですよね?」
メインスタジアムはもちろん、すぐ隣には立派なサブトラックが併設されていて、ウォームアップエリアも十分すぎるほど確保され、ナイター設備、器具、ベンチ、給水設備まで抜かりがない。
「相変わらず完璧な設備ね」
クリスが感心したように呟く。大学時代に何度も訪れたことがあるらしい。
「理想的な設備だな」
ここなら、余計なストレスは一切なく、走ることだけに集中できる。
部員たちは自然と背筋を伸ばし、それぞれの表情に緊張と高揚が入り混じっていく。
クリスがインフォメーションセンターにて、受付を済ませ、部員全員分のゼッケンとアスリートビブスを受け取る。
そして、指定された待機場所のナンバーカードを受け取る。
我が大学の待機場所は、スタジアム二階席のゴール地点が良く見える区画の場所である。
待機場所に移動し荷物を置くと、後ろからいきなり誰かが抱きついて来た。
「天馬さぁぁぁん! おはよう~!」
「おわっ!」
突然背後から抱きつかれ、思わず情けない声が出る。振り返ると――千代乃だ。
サングラスに帽子、髪をまとめ、変装しているつもりらしいが、雰囲気でわかる。
その後ろには、担当官である藤野里美さんがいて、こちらはサングラスにマスク姿だ。
「もう~! さっきから手振ってたのに全然気づかないし~」
「気づくかよ、その格好で」
「え~、ショック~」
千代乃は頬を膨らませる。
「何で変装してるの?」
僕が小声で尋ねると、彼女は一瞬だけ真面目な顔になった。
「一応元陸軍だからね。みんな定年になってるけど、知り合いがいないとも限らないでしょ? 安心して、ただ応援に来ただけだから~」
満面の笑みで千代乃は僕を見つめる。
本当にそれだけなのだろうか?と、訝しむも……深くは聞かないことにした。
そんな千代乃とのやり取りのあと、僕は千代乃を部員とマネージャーに紹介した。
千代乃は一瞬だがサングラスを外して皆に挨拶をした。千代乃の美しさにみんな見惚れていた。
すると鳴野が千代乃の前に出て、代表して挨拶する。
「初めまして! キャプテンの鳴野です! いつもコーチにはお世話になっております。今後ともよろしくお願いいたします」
鳴野は千代乃に深く頭を下げた。
(ん?、今後ともが、かなり強調されていたような気がするが……)
「こちらこそ、いつも夫がお世話になっております」
千代乃は鳴野に挨拶後、僕と鳴野を交互に見てニヤリと笑うと、鳴野に近づく。
「ふーん、そういうこと、鳴野さん、女は度胸よ! 前進あるのみよ!とにかく押して押して押しまくりなさい!応援してるわ、いつでも相談してね」
鳴野は驚きつつも、僕を見てから千代乃の方を向き、真っすぐに見つめて返事をした。
「……ハイ! よろしくおねがいいたします!」
鳴野は千代乃に何か背中を押されたのだろうか。
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そろそろ開始まであと1時間弱。
僕は静かに息を吸い、青く広がるトラックを見つめた。今日の一本が、確実に次へ繋がる。そう確信しながら皆に声をかける。
「よし、みんな聞いてくれ。今回はあくまで記録会だ! 周りに流されず設定ペースを守って走ること。ただ、余裕があればラスト1キロでスパートを掛けてもいい。そこは各自の判断に任せる」
『『ハイ!!』』
みんな一斉に頷いた。
クリスも前に出て、全員に声をかける。
「着替えは済ませましたね!それぞれのスケジュールでアップを始める様に」
記録会の一日が、静かに動き出した。




