第47話 長距離・駅伝部の記録会へ向けて
―― 1週間後 ――
5月21日㈪
「ウェヌス・プラチナ・グランプリ」の興奮は、いまだ収まる気配を見せない。
大会後の一週間、僕は各方面から祝福を受け続けていた。
スポンサー各社、大学の理事長以下役員、学生たち、さらにはラグビー部の選手たちと義妹のリリカ、そしてマネージャーである3人の“天使”たち……。
特に義弟の優君は、以前にも増して目をキラキラと輝かせていた。
思わずこちらが赤面してしまったのは、言うまでもない。
この一週間で、以前受けた三誌以外にも多くのメディアやマスコミの取材を受けた。
テレビ局やネット配信局といった放送媒体にも多数出演し、インタビューを重ねる日々が続いた。
愛理を中心とした広報部の社員、そして北川さんと事前に打ち合わせた通り、
「競技ファースト」
「家族のプライバシーは守る」
「特別扱いされない男性選手として振る舞う」
――この三つの基本方針を前面に出したことで、世間は徐々に性差に関係ない“一人のアスリート”として僕を見てくれるようになってきている。
ネットの反応も世論も、僕に対する好感度は右肩上がりだ。
愛理と広報部、そして北川さんのメディア戦略は、現時点では申し分ない成果を上げていた。
また、この一週間で契約しているスポンサー各社の広告撮影(ポスターと動画配信とCM)もこなした。
国立競技場の巨大宣伝ポスターは、とても好評だったらしく、朱里も一緒に撮影に加わった。
朱里との色々なシチュエーションでの撮影は、とても楽しかった。
そして⋯⋯この一週間で二人の女性への種付けと、指定された病院での精子提供もした。
種付けした二人の女性は、とても喜んでくれたようだった。
~~~~~~~~
そんな興奮冷めやらぬ中、僕の次の大会は6月開催の「立川ハーフマラソン」への出走が決まっている。
北川さんが綿密にスケジュールを組んでくれた大会であり、男性選手の参加についても、すでに主催者側の了承は得てある。
警備体制、更衣室、トイレに至るまで不備がないかを北川さんが事前にしっかりと確認してくれていた。
そして今日――大学敷地内の陸上競技場の改修工事が、ついに完了した。
トラックは青色タータン仕様でナイター設備も整い、隣接して投擲種目専用のフィールドまで備えられている。
新しいフィールドで練習できるのは、正直なところテンションが上がる。
だが残念なことに、我が部はまだ大きな実績がないため、全面使用は短・中距離部が優先となることが決定していた。
我々が全面使用できるのは週二回のみ。それ以外の日は、1〜4レーンのみの使用となり、9レーンはアップ走専用として空けておくことが決められている。
全面使用が週二回というのは、少々痛い条件ではある。
だが内側レーンは使えるし、ラグビー場周回コースもある。工夫次第で十分に対応できるだろう。
今後、少しずつ実績を積み重ねていけば、我が部にも優先使用を認めてくれる。理事長の「大舘さおり」さんは、そう約束してくれていた。
◆◆◆◆◆
—— 練習開始前 ——
「㈱ミナーヴァ」のシューズ開発担当責任者である木村和子さんが大学を訪れ、カーボン入りシューズ《エアロスパークα》を部員数分、直接届けてくれた。
先日、彼女には種付けを行ったばかりだ。
だが、以前のどこか地味で研究一筋といった雰囲気は影を潜め、今の彼女は驚くほど洗練され、はっきりと“魅力的な女性”へと変わっていた。
ミーティングルームに入ろうとする僕の姿を見つけると、木村さんは足早に近づき、満面の笑みで頭を下げる。
「天馬さん、先日はどうもありがとうございました。シューズ……少し遅くなってしまって、すみません」
そう言いながら、ミーティングルーム前に積まれた段ボール箱を指差す。
「それと、3月のレース時の天馬さんの走行データ、すべて解析してまとめました。フォーム自体は完成度が高くて、特に修正が必要な箇所は見当たりませんでした」
淡々とした、いかにも研究者らしい口調である。だが、その視線が一瞬だけ僕に絡むと、微かに揺れたのが分かった。
僕としては、体を重ねたという事実がどうしても頭をよぎり、意識せずにはいられない。
「あっ……はい、わざわざありがとうございます。部員たちもきっと喜びます」
そう答えると、木村さんは少し安堵したように微笑んだ。
「皆さんのサイズは事前に伺ってましたので、微調整は不要なはずです。ただ……」
彼女は声を落とし、僕にだけ聞こえる程度の音量で続ける。
「天馬さんだけは、別ですけど」
思わず視線が合う。
「……別?」
「ええ。天馬さん用のαは、量産モデルとはカーボンの反発特性を少し変えています。中間層の剛性をほんのわずかに落として、接地時間を稼げるようにしました。もちろん、WA(世界陸上連盟)の基準に準拠しており、違反はありません」
研究者としての顔に戻った彼女は、迷いなく説明を続ける。
「ハーフやフルでは、反発が強すぎると後半で脚を削られますから。天馬さんのピッチと筋出力なら、この仕様のほうが“伸びる”はずです」
「……さすがですね」
素直にそう口にすると、木村さんは照れたように視線を逸らした。
「仕事ですから。でも……そう言ってもらえると、嬉しいです」
その言葉には、研究者でも開発責任者でもない、一人の女性としての感情が滲んでいた。
やがてクリスと部員たちがミーティングルームに集まり始める。木村さんは改めてクリスに挨拶し、部員たちにも簡単に自己紹介をした後、全体に向けてシューズについての説明を行った。
部員たちは目を輝かせながら、木村さんの説明を食い入る様に聞いている。
シューズが配られると、部員たちはそれぞれ箱を抱え、まるで宝物を受け取ったかのような表情を浮かべていた。
その様子を少し離れた場所から見つめながら、木村さんが小さく息を吐く。
「……皆さんが走る姿、ちゃんと見届けますね」
~~~~~~~
—— 16時30分過ぎ ——
ミーティングルームにて、木村さんも同席し、部員たちに今週末に控えた記録会についての説明を行う。
集まった部員は、マネージャーを含めて全員で32名。ざわついていた空気は、クリスが前に立ったことで自然と静まった。
「それじゃあ、今週末の記録会について説明しますね」
監督であるクリスが、穏やかだがよく通る声で話し始める。
「今週末、予定通り国防軍主催の記録会に出場します。会場は国防軍体育隊のトラックです」
部員たちの間に小さなどよめきが走る。
「出場種目は、予定通り全員10000mです」
その言葉に、今度ははっきりとしたざわめきが起こった。
「今回は“記録会”なので、順位は気にしなくて構いません。自分の今の走力を正確に測る場だと思ってください」
クリスはそう言って一瞬こちらを見る。僕は一歩前に出て補足した。
「今回はペースメーカーはいません。だからこそ、自分でレースを組み立てることが重要になります。他の選手と競り合わず、無理に付いていかず、自分のペースで走り切ることに専念してください」
一度言葉を区切り、さらに続ける。
「未経験の距離の者もいるでしょうし、ペースが掴めない者もいると思います。そこで、先日各自に渡したファイルを活用してください。VDOT表に基づいた距離別のペースが記載されてます。そのペースを守れば、今の自分に合った走りができます。とにかく、序盤で突っ込みすぎないこと」
『『はい!!』』
部員たちは、真剣な表情で頷いた。
〜〜〜〜〜〜〜
【例1】
「鳴野」の10000m走ペース
・5000m走タイム:16分50秒
・VDOT値:60
・5000m平均ペース:3分22秒/km
・10000m換算:+7秒
・10000mペース:3分29秒/km
・ターゲットタイム:34分55秒
【例2】
「三上」の10000m走ペース
・5000m走タイム:15分49秒
・VDOT値:66
・5000m平均ペース:3分10秒/km
・10000m換算:+7秒
・10000mペース:3分17秒/km
・ターゲットタイム:32分50秒
〜〜〜〜〜〜〜
「なお、移動手段ですが――」
再びクリスが引き取る。
「今回はバスではなく、電車移動です。集合時間、利用路線、切符の手配については、後ほどマネージャーから詳細を伝えます」
「団体行動になる。時間厳守な」
僕が念を押すと全員が声を揃えた。
『『はい!!』』
10000m走は、今の部員全員にとって決して楽な距離ではない。だが、この一本がチームとして次のステージへ進むための“基準”になる。そう確信しながら、僕は部員たちの顔を見渡した。
「よし。じゃあ、いつも通りいこう。アップ開始だ」
号令とともに、部員たちは一斉に動き出す。
部員たちはニューシューズを箱から取り出し、早速履き始めた。履いた瞬間から、ざわめきが自然と広がっていく。
アップ前、数名がその場で軽くジャンプし、足踏みをして感触を確かめていた。
「え……軽っ……」
「カーボン入ってるのに、こんなに柔らかい」
「反発っていうより、前に転がる感じがする……」
「着地したとき、ドンって来ない。吸収されて、すぐ返ってくる」
言葉の端々から、戸惑いよりも驚きと高揚が伝わってくる。
「じゃあ、まずは軽めのジョグからいこう」
僕の声で全体が動き出した。
最初は恐る恐るだった部員たちも、半周、1周と進むにつれ、次第にストライドが自然に伸びていく。
フォームを意識しなくても、脚が前に出る。無理なく、しかし確実に。
「……勝手に脚が回ります」
「……スピード、上がってない?」
ペースを抑えているにもかかわらず、自然とスピードが上がっていく。それに気づいた部員たちが、互いの顔を見合わせて小さく笑った。
木村さんはトラック脇に立ち、タブレットを手に、黙ってその様子を見つめている。
研究者としての目でありながら、その表情には確かな安堵が滲んでいた。
十分ほどジョグを行った後、今度は流しを数本入れる。
「力まないで。シューズに“乗る”感覚を覚えて」
そう声をかけると、部員たちは半信半疑ながらも、言葉通り身体を預けるように走り出した。
はっきりと、違いが出る。地面を蹴ろうとしなくても、接地から次の一歩までが驚くほど滑らかに繋がる。
脚が弾かれるのではなく、前へと“導かれる”。
「……すご……」
「前に押し出される……」
驚きと戸惑いが入り混じった沈黙が、トラックを包んだ。
体幹がしっかりしている部員たちは問題なかったが、新入部員の中には、前につんのめる者も散見された。
転倒こそしなかったものの、まだ身体が追いついていない。
三上も、やや走りにくそうな様子を見せている。
新入部員は、あと一か月ほど体幹トレーニングを積み、身体を作ってからこのシューズを履いたほうがよさそうだ。
そして、僕自身も、天馬専用仕様の『エアロスパークα』で走り出す。
最初の一歩で、すぐに分かった。
反発が“丸い”。
鋭すぎず、それでいて確実に、次の接地へと身体を押し出してくれる。
接地時間が、わずかに長い。
その分、脚全体で地面を捉えられる感覚がある。
(……これは、後半型だな)
スピードを上げても、無理に前へ突っ込む感覚がない。ピッチを刻めば刻むほど、シューズがそのリズムを受け止め、整えてくれる。
脚は軽い。それでいて、確実に前へ進んでいる。
「……なるほど」
思わず、独り言が漏れた。これなら、ハーフでもフルでも、後半に脚を残せる。
流しを終えて戻ると、木村さんと視線が合う。彼女は何も言わず、ただ一度、小さく頷いた。
その仕草だけで、十分だった。
「シューズに頼りすぎないこと。でも、信じること」
そう部員たちに伝えると、全員が真剣な表情で頷いた。
今日の練習は、ただの調整ではない。確実に、次の舞台へと繋がる“感覚合わせ”だった。
青いトラックの上で、新しい相棒とともに――僕たちは静かに、しかし確実に前へ進み始めていた。
ちなみに……練習後、鳴野は僕と木村さんを交互に見ては、ニヤけた表情で僕をじっと見つめていた。




