第44話 ウェヌス・プラチナ・グランプリ2018 (後編)
選手の紹介を終え、全員がスタート位置に着く。
スタート位置は予め決められており、僕は8レーン付近からのスタートとなる。
つい先ほどまで、観客席に向けて笑顔で応えていた選手たちの表情は一変する。競技場全体に張り詰めた緊張感が流れ込み、ピリついた空気となっていく。
――この感じだ。
僕はこの独特の雰囲気が昔から堪らなく好きだった。自然と口角が上がり、ニヤリとした表情になるのを自覚する。
同時に、体の奥からアドレナリンが一気に噴き上がってくる。
小雨が肌に当たり、とても心地良い。僕の意識は更に研ぎ澄まされていく。
そして―—号砲とともにスタート。
21名の選手たちが一斉に飛び出していく。僕は意図的に、ほぼ最後尾に近い位置を選ぶ。
焦りはない、今日は“見る”ことから始めると決めていた。
集団は団子状態で前回のレースよりも、明らかにペースが速い。
最初の1周を様子見で入ると、表示されたラップは72秒。
(……15分切りペースか)
小雨の影響を考えれば、これ以上ペースを上げるのは厳しい。そう判断した瞬間、僕の中でスイッチが切り替わる。
僕にとっては“スローペース”となるので、4レーン側へと進路を取り徐々に加速する。
視界の端で、一人の女性選手が並走してくるのが見えた。元日本記録保持者――この世界で“女王”と称されてきたランナーだ。
2周目に入ると同時に、僕は集団を一気に抜き去りトップへ躍り出る。
入り1000mは2分51秒、そして3周目のラップは64秒と設定ペースとなり安定する。
この時点で付いてきているのは彼女ただ一人。
4周目と5周目も64秒のラップを刻み、2000m地点で5分33秒、1㎞あたりのラップは2分42秒と、狙い通りのペースとなる。
このままでいけば、前回を1秒上回る13分39秒のタイムでゴールできそうなので、このままのペースで行くことにした。
背後の足音はまだあるが、彼女の呼吸は明らかに乱れ始めている。
(これは、自滅するな!)
そう心の中で呟きながら、僕は淡々とペースを刻む。
小雨が顔を打ち体を流れていく。苦しいはずなのに、頭は冴え、気分は不思議なほど爽快だった。
7周目に入り、ついに背後の足音が遠ざかる。
追走していた元日本記録保持者が、ここで遅れだしたのだ。
彼女にとっては超ハイペースであったのであろう。
以降は僕の単独走となる。
3000m地点で8分15秒、ペースは落ちていない。
――ラスト2000m!
あと5周! ここからが本当の勝負だ!余裕はほとんどなく、呼吸は荒れ、無酸素状態へと近づいていく。
それでも、8周目に入る頃には全員を周回遅れにしていく。
ラスト2周! 完全に無酸素状態となり、とても苦しくキツい! それでも、腕振りと足捌きは噛み合っている。
(よし! このまま押し切る!)
スパートをかける余力はない!あとは気力だけ。
ラスト1周を告げる鐘が鳴る。
一気に苦しさが押し寄せ、息は荒れ、吐く息は熱を帯び生臭さが混じる!
心拍数は極限まで上がり限界を超えつつあるが、腕を大きく振り、一秒でも速く一歩でも前へと最後の気力を振り絞る。
そして――。
意識して満面の笑顔を作りながら、僕はゴールテープを切った。
視界の端に電光掲示板が映る。
タイムは13分39秒!
僕がゴール後、競技場が静まり返った。
次の瞬間、6万人の観衆が一気に爆発した。地鳴りのような歓声と悲鳴にも似た叫び声が、スタンドを揺らし空気を震えさせた。
女性が強者であり、男性は守られる存在であるこの世界で、またしても男性が世界新記録を塗り替えた瞬間だった。
信じられないものを見る視線と、驚愕と歓喜と、あらゆる感情が競技場を渦巻く――。
トラック脇では、待機していた警備員たちが一斉に動き出した。
僕へ殺到しかねない観衆を制するためだ。
それほどまでに、この結果は“異常”だった。
僕はゴール地点で、満面の笑顔のまま観客に手を振る。
競技場のボルテージは、さらに跳ね上がった。
サポート役の朱里と北川さんが駆け寄り、肩にタオルをかけてくれる。
僕は朱里を抱きしめた。朱里は涙を流しながら、何度も頷いて僕を労ってくれる。
「ダーリン、お疲れ様でした!」
その勢いのまま、なぜか北川さんまで抱きしめてしまった。
「は、はうっ……お疲れ様でした……ご、ごちそうさまです……」
北川さんは赤面しながらも、僕を労ってくれた。
僕は歩きながら観客らに手を振り続ける。その騒然とした光景の中で、2階VIP席を見上げると、妻たちが涙を浮かべながら立ち上がっているのが見えた。
その視線が、真っ直ぐに僕を射抜く。
僕は左手薬指の指輪に軽く口づけし、妻たちに向かって手を振った。感謝と愛を込めた、僕なりのメッセージだ。
一瞬キョトンとしていた妻たちだったが、奈月が意味を理解したらしく、慌てながら皆に説明する。
次の瞬間、妻たちは照れた笑顔で大きく手を振り返してくれた。
千代乃だけは、完全にフリーズしていた。その姿が、やけに可愛らしかった。
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1階席を見ると、クリスや部員たちの姿が見える。近づこうとしたが、警備員と、いつの間にか側にいた護衛の松田さんに制止された。
僕へ殺到しかねない観衆を制するための措置なので、こればかりは致し方なしである。
僕はクリスにも先ほどと同じサインを送るが、クリスは意味が分からずキョトンとした表情であった。
部員と男子マネージャーらにも手を振る。クリス以下全員が涙を浮かべながら、力強く頷いていた。
因みに、二人の男子マネージャーには、2名ずつ護衛(女性)がしっかりとガードしていた。
続々と後続の選手たちがゴールしてくる。
2位以下はいずれも15分を過ぎるタイムであり、電光掲示板に映る僕の記録を見て、誰もが驚愕の表情を浮かべていた。
15分20秒を過ぎてから、元日本記録保持者の選手がゴールする。
彼女はその場に崩れ落ち、サポートに支えられていた。
僕は近づき声をかける。
「ナイスランでした。素晴らしい走りでしたよ。順位よりも、その挑戦こそが次に繋がります。お互い頑張りましょう!」
僕は拳を突き出すと、その選手は涙をながしながら頷き、僕の拳に自分の拳を合わせた。
――確かに今回はきつかった!
僕にとってはPBよりも20秒も遅いタイムではあるのだが、今の自分のすべてを出し切れたので、結果には満足している。
こうして僕はこの世界線で、またしても5000mでの世界記録を更新し、競技は終了した。
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次の競技(10000m)がそろそろ開始されるので、僕は朱里と北川さんと護衛らと共に控室に向かうと、途中でテレビ局の女性レポーターがマイクを差し出してきた。
「甲斐田選手、世界記録更新おめでとうございます! 今のお気持ちはいかがですか?」
一瞬驚いたが、かつての世界では見慣れた光景だ。
僕は足を止め、素直に答える。
「大きな舞台で、最高の走りができました。本当に嬉しいです」
僕は嬉しさを前面に出すコメントをした。
「ありがとうございます。旦那様方へ一言お願いします」
一瞬だけ躊躇したが、昂揚した気持ちのまま僕は口にした。
「愛してるよ!」
そう言って左手薬指の指輪にキスをし、サムズアップする。
すると、リポーターと周囲のスタッフとカメラウーマンたちは、完全にフリーズした。
朱里も北川さんも、松田さんも固まっている。
僕は軽く皆を揺さぶって“再起動”させると、そのまま控室へ向かった。
控室に到着すると、大会役員の女性と、「検査員」のベストを着用した女性がすでに待機していた。
やはり“アレ”を行うのだろう。レース後、速やかなドーピング検査は必須事項だ。ましてや世界記録更新直後なのだから、当然といえば当然である。
大会役員の腕章を付けた中年女性が、身分証を提示してから話しかけてきた。
「甲斐田選手、お疲れ様でした。日本国陸連競技委員会の田中と申します。――早速で申し訳ありませんが、規則に従いドーピング検査を実施させていただきます。こちらの中村が担当いたします」
続いて、検査員の女性が一歩前に出て、身分証を掲げながら丁寧に頭を下げる。
「中村です。よろしくお願いいたします。こちらの検査室で実施します。採尿は立ち会いのもとで行いますのでご了承ください。なお、男性選手ですので、親族から二名まで立ち会いが可能です。立ち会う方は身分証をご提示ください」
中村さんは20代後半ほどの落ち着いた雰囲気の女性だった。毅然とした態度ではあるが、わずかに頬が赤い。
僕は朱里に頼み、美月へ連絡を入れてもらう。そして、もう1名の立会人として北川さんを指名した。
近くにいる朱里を選ばなかったのは、万が一にも暴走されると困るからだ。
朱里は感情表現がとてもストレートなので、こういう場面では冷静な美月が最適だろう。北川さんについては……少々不安はあるが、一応は理性派である。
朱里は「据え膳食わねば女が廃る、でしょ!」と言って、立ち会わないことを納得してくれた。
10分ほどして、美月が護衛を伴って控室に到着する。僕の顔を見るなり、彼女はそっと抱きしめ静かに労ってくれた。
中村さん、僕、美月、北川さんの四人で検査室に入る。中は広めの多目的トイレのような造りだった。
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採尿は無事に終了した。
ただ……前回と同じく、検査員の中村さんと北川さんは、途中で思考が停止したような表情になっていた。特に北川さんは顔を真っ赤にし、完全にフリーズしている。
とはいえ、規定どおり検査員立ち会いのもとで実施された以上、この時点で僕がクリーンであることは証明された。あとは検査結果を待つだけだ。
僕は特定の薬(風邪薬)もサプリメントも使用していないので、問題が出るはずもない。
2階VIP席で観戦している妻たちのもとへ顔を出したかったが、控室前で待機していた大会スタッフと警備員に制止された。
観客が多く、警備上の理由から僕の安全を確保できないとのことだった。観客のほとんどが女性である以上、致し方ない判断だろう。
すべての競技が終了し、表彰式と公式インタビューが始まるまで、専用の控室で待機することになる。
着替えを済ませ、朱里、北川さん、美月、護衛たちとともに、静かにその時を待った。
しばらくして、控室の扉が静かにノックされた。
「……天馬」
聞き慣れた声に顔を上げると、奈月、愛里、千代乃の三人が立っていた。警護と警備員を連れて控室まできてくれた。
奈月は何も言わず、ただ一歩近づいてきて、僕の手を両手で包み込んだ。その手はとても温かい。
「…⋯お疲れ様、おめでとう」
それだけ言って笑顔を見せる。
愛里はお腹に手を当てたまま、穏やかな微笑みを向けてきた。
「この子も、ちゃんと見てたわ。誇らしかった」
千代乃は真っ直ぐ僕に抱きついてから、小さく頷いた。
「……すごかった。もう⋯⋯感動で胸がいっぱい……」
控室に、静かな時間が流れる。大声も派手な祝福もない。ただ、確かに通じ合う安堵と余韻だけがそこにあった。
その直後、ポケットのスマホが震える。画面にはクリスの名前が表示されていた。
『天馬! 本当におめでとう!』
受話口の向こうから、少し涙声の弾んだ声が飛び込んでくる。
『部員もマネージャーも、みんな大騒ぎよ、直接行けなくてごめんね。でも……誇りに思ってる!本当に、感動をありがとう!』
「ありがとう、みんなにも、応援ありがとうって伝えて」
『もちろん!』
電話を切り、深く息を吐く。短い通話だったが、それで十分だった。
嵐のような歓声の中心から、こうして静かな場所に戻ってきた今、ようやく実感が追いついてくる。
――次は表彰式とインタビューだ。




