第45話 大会を終えて
控室にてすべての競技が終了し、表彰式が始まるまでの間、僕は妻たちと静かに過ごしていた。
そのとき、ノックとともに陸連競技委員会の増子さんが姿を現した。
次の大会への出場打診であろうことは、容易に想像がつく。とはいえ、無碍に扱うわけにもいかず、話だけは聞くことにした。
「お久しぶりです。本当に素晴らしい走りでした。世界記録更新、おめでとうございます」
増子さんは形式的な挨拶を終えると、いったん言葉を切り、深く息を吸った。
「それで……10月の日本選手権に、ぜひ出場していただきたいのです。今回の順位とタイムで出場資格は十分に満たしてます。もちろん……甲斐田さんが、この大会を区切りにマラソンへ転向されるご予定なのは重々承知しております。それでも、あえて……出場をお願いしたいのです」
彼女の表情は真剣そのものだった。更に増子さんは続ける。
「正直に申し上げますと……現状、甲斐田さん以外の選手では、世界とは戦えません。今後の競技発展のためにも、どうか――お願いします」
増子さんは、深々と頭を下げた。
だが、僕の決意はすでに固まっている。トラックはここまでと決めている。これ以上、迷う理由はなかった。
「申し出ありがとうございます。日本選手権への出場は辞退させてください。フルマラソンへの転向に変更はありませんし、決意も変わりません」
僕は増子さんの目を真っ直ぐ見て、はっきりと答えた。増子さんは一瞬、言葉を失ったようだったが、やがて小さく頷き、残念そうに微笑んで頭を下げた。
「……わかりました。ご健闘をお祈りしてます」
そう言い残し、彼女は控室を後にした。
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ほどなくして、表彰式が始まった。
妻たちは控室でテレビ越しに僕の様子を見守ることにした。女性ばかりではあるが、観客が多すぎるので、警備上の都合によるものである。
正直なところ、こちらの世界で表彰台に立つ感覚はもう慣れた。国歌斉唱も、フラッシュの嵐も、どこか遠い出来事のように感じていた。
因みに国歌は元の世界と同じである。
――そして、式は滞りなく流れていった。
表彰式後、すぐにインタビューエリアへと案内される。マイクの前に立つと、見覚えのある女性アナウンサーが、満面の笑みでこちらを見ていた。
「甲斐田選手! スプリング以来ですね」
前回、インタビューを担当したアナウンサーだった。清楚系な美人なのだが、距離感が近く、ぐいぐい来るタイプだ。
とても嬉しそうな表情を浮かべている。
「まずは、世界新記録更新、おめでとうございます。今日のレース展開、ご自身ではいかがでしたか?」
マイクを僕に向けるが、ちょっと距離が近い。
「先ずは、僕の出場に尽力して下さった方々、主催者とスタッフの方々、警備の方々、そして、応援して下さった皆様、ありがとうございました~!」
僕は両手を振りながら、大声で感謝の気持ちを伝えると、スタジアムは割れんばかりの大歓声となる。
落ち着いてから、僕はアナウンサーの質問に答える。
「レースは、序盤は様子を見て、2周目から自分のペースに持ち込みました。雨もありましたが、走りやすかったです。記録更新はとても嬉しいです」
僕は喜びを前面に出して答えた。彼女は驚きの表情を見せるも、間髪入れずに次の質問を投げてくる。
「やはり、後半は余裕があったんですか?」
「いえ、余裕はありませんでした。ただ、崩れなかっただけです」
僕は淡々とした表情で応える。それにしても……距離が近い。
「さすがですね……では改めて、“また”男性が世界新記録を更新したことについては?」
「記録は記録です。性別は関係ありません。僕は、自分のベストを尽くしただけです」
彼女は一瞬言葉に詰まったが、その後は楽しそうに笑った。
「相変わらずクールですね。では少し話題を変えて……甲斐田選手、タイプの女性――どんな方がタイプなんですか?」
「……え?」
予想外の質問に、思わず言葉が詰まる。
「前回はうまくかわされましたけど、今日は逃がしませんよ!皆さ~ん、知りたいですよね~?」
そういって彼女はスタジアムの観客に向けて大声で煽る。
スタジアムからは、割れんばかりに『知りたーい!!』といった歓声がこだまする。
アナウンサーは一歩距離を詰め、目を輝かせてくる。彼女の胸部装甲が僕に触れていて距離が近い。
視界に北川さんと朱里が見えたので、僕はどう答えたら良いか、北川さんに目配せするも、真剣な眼差しで僕を見つめているのみで、特に何もサインを返してくれない。
(もしかして北川さんも興味あるのか?さて、どうしたものか……)
北川さんはアテにならないので、思ったことを答えることにした。
「そうですね……容姿は特に気にしません。僕を“共に生きるパートナー”として迎えてくれる方かな? 優しくて、思いやりがあって……一緒にいて落ち着く人ですね、それと………」
「……(性欲が強い方も)……」
僕は冗談交じりにアナウンサーの耳元で小声で囁く。
僕がそう答えると、彼女は赤面し、数十秒ほどフリーズした。再起動した彼女は僕を見つめて何か小言で呟く。
「わ……わたしは……せい……は、つよいです……」
イマイチ聞き取れなかったが、明らかに彼女は動揺していた。暫く赤面し、僕を見つめていたのだが、気持ちを切り替えたのか、また違う質問をしてきた。
「では――旦那様方とは、普段どんな風に接してるんですか?」
僕は淡々と答える。
「……普通に、です。感謝して、話して、支え合ってます」
「普通、とは?」
グイグイと詰め寄ってくる。それにしても距離が近い!
「……大切にしてます。ハグしたり、キスしたり……それだけです」
会場のあちこちから、どよめきが起きる。アナウンサーは赤面し、数十秒ほどフリーズしてから、最後の質問をしてきた。
「なるほど……では最後に。今日の勝利、一番最初に誰に伝えたいですか?」
僕は一瞬だけ考え答えた。
「――妻たちです」
それだけで十分だった。アナウンサーは満足そうに頷き、カメラに向かって締めのコメントを入れる。
「ありがとうございました。以上、世界新記録更新直後の甲斐田天馬選手でした!」
マイクが下げられ、ようやく肩の力を抜く。
――やっぱり、走っている方が楽だな。そう思いながら、僕は再び控室へと戻っていった。
控室に戻る途中で、「サンライズ」「月刊アスリート」「Jウィーク」の記者らが、それぞれ僕にインタビューしてきた。
見知った顔であり、前回の取材がとても良かったので、僕はつい饒舌になり長々とインタビューに応えてしまった。
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北川さん朱里と護衛らと共に控室に戻ると、空気がふっと緩んだ。
「おかえりなさい、天馬」
最初に声を掛けてきたのは奈月だった。控えめながらも、その瞳は誇らしさで潤んでいる。朱里はというと、我慢できなかったのか、勢いよく駆け寄ってきて、そのまま抱きついてきた。
「ちょっと! インタビュー、攻められすぎじゃない!」
「……ああいうのは、走るより消耗するな」
苦笑しながら僕がそう返すと、朱里は頬を膨らませつつも、すぐにくすっと笑った。
「でも、“妻たちです”って言ったところ、すごく良かったです。テレビ越しでも、ちゃんと伝わりましたよ」
愛理は落ち着いた声でそう言い、そっと僕の腕に手を添えた。北川さんも一歩引いたところで、静かに頷いている。
「淡々としてるのに、ちゃんと本音が出てましたね」
「そうですか? それと……北川さん、あのときサイン送りましたけど……」
僕は先ほどのインタビュー時に、北川さんにサインを送ったことを話す。
「えっ……と、何のサインでしょうか?」
北川さんは目を逸らし、「そんなサイン知りません」と、キッパリと答え、とぼけた表情をした。
僕はジト目で北川さんを見るが、そんな僕を無視した。
朱里が僕から離れると、次は美月が僕の肩を強引に寄せて呟く。
「アナウンサーには、何て耳打ちしたのかな?」
美月は若干ニヤけた表情をしているが、ドSモードに入ってしまっている。その圧に負けてしまい僕は正直に答えた。
「性欲が強い女性……って、ちょっと揶揄った」
すると美月は赤面し、妻たちはフリーズした。
数十秒程すると、今度は千代乃が僕に抱き着いてきた。
「天馬さぁん……女性には冗談でも適当なこと言っちゃダメよ! 気を付けてね。でも……性欲……私は強いですよ~」
千代乃は僕の身体をきつく抱きしめる。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を見ると、表示された名前はヨッシーだ。
通話ボタンを押すと、いきなり大音量の声が飛び込んできた。
『おい天馬ぁぁぁ!! またやりやがったな!! 世界新だぞ!? テレビの前で全員総立ちだったんだぞ!』
向こうの騒がしさが、目に浮かぶようだった。
「ありがとうございます。今のベストを出せました。自分の走りが出来たので、結果にはとても満足してます! 応援ありがとうございました」
『まあ、とにかくおめでとうだ。誇りに思う』
短い沈黙のあと、少しだけ声色が変わる。
『次は……マラソンだな』
「ハイ! 頑張ります!」
『だよな。じゃあ、また連絡する。今日はゆっくり休め』
通話が切れ、スマホを下ろすと、すぐにまた着信が入った。今度は――零士さんだ。
「はい」
『今、家族全員で見ていた』
低く落ち着いた声だが、その奥に確かな熱がある。
『見事だった。言葉はいらん』
「ありがとうございます」
『奈月と美月を、頼むぞ』
「……はい」
それだけで十分だった。短い通話を終え、スマホをポケットに戻す。
その後、月子さんと葉月さんも僕を労ってくれた。特に月子さんは涙ぐみながら僕を暫く抱きしめていた。
控室には、再び静かな時間が戻ってくる。大きな舞台を終えた直後とは思えないほど、穏やかな空気だった。
世界記録も、歓声も、インタビューも――今はもう遠い。ここにいる、この時間こそが、僕にとっての帰る場所だ。
やがて大会は終了し、僕たちは護衛を伴い帰路につく。
その先に続く、新しい道を思い描きながら――。
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