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あべこべ世界でのランナー ~マラソン日本記録保持者が女性過多で貞操観念も逆転した世界線に転移し無双する~  作者: アサノ霞
第6章 レース編 2

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第41話 レースへ向けて(前編:ガラスの天井)

5月7日㈪

 合宿は無事に終了し、僕は久しぶりに部へ顔を出した。部員たちは皆、表情が明るく、身体だけでなく気持ちの面でも一段階上がったのがはっきりと分かる。基礎を積み重ねた者特有の静かな自信がそこにはあった。


 ただ一人――鳴野だけは、少し違った視線を向けていた。じっと、僕の首元あたりを見つめている。


 やがて、彼女は微笑を浮かべ、小声で囁く。


「……結婚休暇、ですか? マーキング、付いてますよ」


僕は反射的に首筋へと手をやると、鳴野はくすりと笑い、手で口元を隠した。


「うふふ……冗談ですよ! コーチって、本当に可愛いですね」


「こら、大人を揶揄からかうな」


僕が小声でそう返すと、今度は背後からわざとらしい声が飛んでくる。


「お二人とも、ずいぶん熱いですね~~?」


三上ルイだった。


鳴野は一瞬で顔を真っ赤に染めると、声を裏返らせながら三上を追いかける。


「ル、ルイ~! 何言ってるの!」


その様子を眺めながら、僕はふっと肩の力を抜いた。美月との濃密な非日常から、こうして騒がしくも穏やかな日常へと、確かに戻ってきたのだと実感する。


~~~~~

 

 僕は来週のレース(ウェヌスプラチナグランプリ、5000m走)へ向けて、最終調整に入る。

5000m走なので特にやることはないのだが、体調だけはしっかりと整えることにしよう。


 僕的には今の状態でも、前回のタイムを上回ると同時に、世界記録の更新は期待できると自負している。

だが、少しでも好タイムを出したい!と思うのは、選手としてのサガなのであろうか、万全な状態で挑みたい。


 なので、トレーニングは強い刺激は入れずに、ジョグは短く動きの確認とリズム作りに徹することにした。

ラストは400m全力走でスピード感を思い出し、あとは徹底的に休むことにする。


(この期間、走りたい気持ちを抑えられるかどうか……そこが勝負だな)


 一週前の調整は、いつもながら身体よりも精神的なコントロールが難しいと、つくづく思う。

そんな僕を妻たちはそれぞれの形で支えてくれた。


奈月は医師として僕の体調を細かく気にかけ、朱里は「大丈夫だよ」と何度も声を掛け励ましてくれる。

クリスは競技者としての視点から、僕の気持ちを察し、寄り添ってくれる。

愛理は、僕の疲労を少しでも和らげる様に癒してくれる。


 そして――美月は……。


「無理しないこと、今週は“走りすぎ禁止”だから」


有無を言わせぬ口調で、完全管理体制に入っていた。

一方、部員たちもまた、妙にそわそわしている。


「コーチ、当日応援行っていいですか?」

「テレビ中継、ありますよね?」

「サインとか……」


 気がつけば、僕のレースは個人のものではなくなっていた。


~~~~~


 今日の練習を終え、帰路につこうと荷物をまとめていると、北川さんが珍しく慌てた様子で僕のもとへ駆け寄ってきた。

 普段は冷静沈着で感情を表に出すことの少ない彼女だが、その顔には明らかな動揺が浮かんでいる。


「てっ……天馬さん! 大変申し上げにくいのですが……」


 肩で息をしながらそう切り出し、北川さんは一度言葉を切って呼吸を整えた。そして、覚悟を決めたように続ける。


「実は……ウェヌスなのですが、出場できなくなる可能性が出てきました……!」


「……え?」


一瞬、意味が理解できなかった。


「どういうことですか?」


「主催者側から連絡がありまして……会場が国立競技場ということもあり、天馬さん、男性選手の警備対応が困難だと―—」


 北川さんの説明によれば、男性選手の参加は前例がなく、想定される観客数と警備体制を考えると、万全な安全確保が難しいという判断らしい。

 加えて、周辺住民からの“騒音”や“ゴミ問題”に関する苦情が出てくる可能性があるため、トラブル回避の観点から参加を見送ってほしい――そう陸連競技委員会から要請があったという。


僕は正直、耳を疑った。

(国立競技場の周辺に住宅なんて、ほとんどないはずだろ……)


あまりにも稚拙ちせつで、後付けのような理由にしか聞こえない。北川さんも同じ疑念を抱いたのだろう。

彼女は独自の情報網を使い、即座に裏取りを行ってくれていた。


 陸連競技委員会の増子さん、そして陸連を管轄する「スポーツ庁」にパイプを持つ官僚からの情報によると――陸連側は当初、僕の出場に何の問題も感じておらず、推薦枠として正式に準備を進めていたという。


 だが、大会一週間前の昨日になって状況が一変した。


「文部科学省傘下の“スポーツ庁”長官から、突然、横やりが入ったそうです」


北川さんは苦い表情で言った。


「直接的な理由は曖昧ですが、“社会的影響”“前例”“秩序”などを盾に、出場を取りやめさせるよう圧力が掛けられた……と」


 そのスポーツ庁長官は女性であり、この世界では有名な「極端な女性至上主義思想」の持ち主として知られている人物だ。


 政府からの圧力を受け、陸連としては抗しきれず、やむなく僕に「辞退」を要請してきた――それが事の真相だった。


(……冗談じゃない!)


寝耳に水どころの話ではない。

とはいえ、ここで感情的になっても事態は好転しない。僕は一度深呼吸をして北川さんに告げた。


「分かりました。いったん、家で話し合いましょう。妻たちにも共有します」


~~~~~


 その夜、自宅には妻たち――奈月、朱里、クリス、美月、愛理、そして北川さんが集まった。

 事の経緯を一通り説明し終えた瞬間、空気が一変する。


最初に口を開いたのは奈月だった。声は低く、怒りを抑え込んだ響きがある。


「……ふざけてる!」


朱里も珍しく、はっきりと不満を口にする。


「安全が理由? 前例がない? じゃあ、前例を作るって言ってたのは誰なのよ! 結局……“男が目立つのが気に入らない”だけじゃない!」


「競技の公平性も、努力も、全部無視して……論文にすらならない判断ね」


クリスは冷静だったが、その目は鋭かった。


「政治的介入! しかも、競技内容とは無関係! スポーツへの冒涜ぼうとくだわ!――許せない」


短く、しかし凍るような声で言ったのは美月だった。


愛理も深く頷く。


「天馬さんは走る権利がある。それを“思想”で奪うなんて……これは個人の問題じゃないわ! 企業としてもスポンサーとしても看過できない!」


 全員の視線が自然と北川さんへ集まる。北川さんは即座に整理して答えた。


「現実的な対応策は三つです。一つは、陸連を通じて正式に異議申し立てを行う。二つ目は、スポンサーおよび世論を動かす⋯⋯ただし、時間がかかりますし、大会への出場は叶いません。そして三つ目は――」


そこで、北川さんは一瞬だけ言葉を切った。


「“もっと上”から、圧をかけ返すことです!」


 圧をかけ返す――その言葉に僕は思わず息をのむ。

 だが考えてみれば、北川さんは「男性保護庁」から派遣された担当官だ。つまり、彼女自身が“国側”の人間でもある。立場的に問題はないのだろうか。

 

 僕は率直に、その疑問を口にした。


「北川さん、僕のために色々と考えてくださってありがとうございます。でも……立場的に大丈夫なんですか?」


 北川さんは一瞬驚いた表情を見せ、すぐに微笑んで答えた。


「ご心配ありがとうございます。総理から直々に、“天馬さんの希望に沿うように”と指示を受けております。ですので、問題ありません」


 それを聞いて、僕はようやく胸をなで下ろした。


 すると次の瞬間、部屋のインターフォンが鳴った。僕はすぐに応答する。

モニターに映し出されたのは、穏やかな微笑の奥に歴戦の威厳を宿した女性――。

奈月と美月の祖母であり、沖グループの会長、沖 月子だった。

 

 僕はすぐに玄関へ向かい、彼女を招き入れる。挨拶代わりに軽くハグを交わした。


「今晩は天馬さん。話はだいたい聞いたわよ。スポーツ庁長官が相手? ……なるほど〜」


月子さんは静かに笑う。


「天馬さんの走る道を、くだらない思想で塞ぐなんてね」


その笑みは、どこか楽しげですらあった。


「任せなさい。“正式なルート”というものを、思い出させてあげるわ」


その言葉に、北川さんが深く頷く。


「では……こちらも動きます」


 こうして、一人のランナーの5000m走を巡る問題は、国家と思想、そして巨大な力を巻き込む局面へと進み始めたのだった。


◆◆◆◆◆


—— 翌日 ——


 スポーツ庁本庁舎、最上階の応接室にて。

重厚な木製の扉が静かに閉まり室内には二人の女性だけが残された。


 一人はスポーツ庁長官。政界では知らぬ者はいない女傑で、“女性至上主義”を公言し、強硬な政策で名を馳せてきた人物だ。

彼女を支持する団体もあり、首相も彼女にはほとほと手を焼いているらしい。


 そしてもう一人が、沖 月子。


秘書も補佐官も同席させない――長官自身が指定した一対一の会談だった。


「お時間をいただき、光栄ですわ」


月子は穏やかに微笑み、ゆっくりと席に着く。


すると長官は前置きもなく言う。


「単刀直入に申し上げます。例の男性選手の件でしょう? 私の判断は変わりませんよ。社会秩序を乱す前例は、作らせない」


視線には一切の怯みがない。

沖 月子の名声も、財力も、この長官の前では“承知の上”だった。


「あなたの影響力は理解しております。ですが――」


長官は淡々と続ける。


「私は、あなたを恐れていない」


その言葉に、月子は一瞬だけ目を伏せた。そして、くすりと微笑む。


「ええ。でしょうね」


長官がわずかに眉をひそめる。


「……何が可笑しいのです?」


月子は顔を上げ、長官をまっすぐに見つめた。


「いいえ。ただ――“私を恐れない”方は、久しぶりだな、と」


その口調は柔らかい。だが、室内の空気が、目に見えて冷えていく。


「長官。ひとつ、確認させてください」


「何でしょう」


「あなたは、“沖”という姓を、どこまでご存じですか?」


長官は鼻で笑った。


「沖?……そうね、沖千代乃が作った財閥でしょう? それ以上でも、それ以下でもないわ!」


更に長官は月子を見下すように言い放つ。


「私はいかなる脅しにも屈しない、私には数百万の支持者がいますからね、あなたが私に圧力をかければ、その数分後にはネットでそのことが拡散されるでしょう。その波に抗うすべはありませんよ。それとも、私に献金でもしてくれるのかしら?出場を認めるためにね、だとしたらお角違いだわ!」


次の瞬間——月子の笑みは失せ、表情が変わった。


「……では、“龍神たつがみ 千代乃”という名は?」


空気が止まった。

長官の瞳が一瞬だけ揺れる。


「――なぜ、その名を」


「私の母です。最も200年も前の姓ですが」


月子は静かに告げる。


「沖千代乃は龍神たつがみ千代乃です、そして、“やおびくに”と呼ばれている存在」


長官の表情は強張り、喉がごくりと鳴った。


「……ばっ、馬鹿な。あれは、ただの都市伝説だ!」


「そう思われてる方が、多いでしょうね」


月子は穏やかに続ける。


「ですが――この国の政財界で、“三代以上にわたって突然消えた一族”に心当たりは?」


長官の背中に冷たい汗が滲む。

過去に大物政治家を要する大財閥が一夜にして破産し、その一族は悲惨な末路を辿った。


「……まさか」


月子は首を振った。


「逆らったのではありません、“不興を買った”だけです」


その言葉には怒りも脅しもない。そこには事実を語る者の静けさだけがあった。それだけに、月子の言葉にはより一層の恐怖が増員されている。


「母は政治に口出しをしません。ただ――“世界の均衡を壊す者”を、嫌う」


月子はゆっくりと立ち上がる。


「男性が走ることが、そんなに許せませんか?」


「………!」


「一人の若者の努力を、思想で踏みにじる行為が、“世界の均衡”を保つ行為だと――本気でお考えですか?」


長官は、もはや視線を逸らすこともできなかった。


——龍神たつがみ 千代乃。

——長寿種。

——やおびくに。

――世界経済を牛耳る女。

――世界の情報を握る女。

――歴史の暗躍者。

――歴史を司る女神。

――影の女王。


 その名に逆らった者が、どうなったか。それは公文書には残らないが、“知る者は知っている”。


「……もし、私が判断を撤回しなければ?」


長官の声が、わずかに震えていた。


月子は微笑んだまま答える。


「私は何もしません」


そして、静かに付け加えた。


「母が、“どう思うか”――それだけです」


数秒後に月子は更に付け加える。


「あ~そうそう、これは独り言なので―—彼は“私の父の子”よ」


それを聞いた長官は目を見開いて驚愕の表情をし、その顔色が完全に失われた。


「どっ⋯⋯どういうこと!」


月子は冷たい眼差しを向け言い放つ。


「⋯⋯あくまで独り言ですが、父がくる前⋯⋯婚約者が身籠っていたのはご存じのはず」


「⋯⋯!そっ、そんな!まさか!⋯⋯その子が、ここにきたと⋯⋯」


 “私の父の子”という意味、彼が稀人であるのは承知してるが、沖千代乃が愛した男、藤野篤の子だと⋯⋯。

確か、藤野篤は向こうの世界の未来から来たと聞いている。その子が件の選手だと……。


その子を自身が潰そうとしている事実。それがどういうことを意味するか。


数十秒の沈黙の後、彼女は深く息を吐き、椅子に身を沈める。


「……分かりました」


かすれた声だった。


「大会への介入は、私の“誤解”だったということにします。以後、彼には一切関与致しません」


「賢明なご判断ですわ」


月子は一礼し応接室を退出した。


その背中を、長官はただ見送ることしかできなかった。


~~~~~


 その日の夕方


北川さんの端末に、陸連競技委員会から正式な連絡が入った。


――甲斐田天馬選手の出場は、予定通り認められる。理由欄には、短くこう記されていた。


『警備体制に問題なしとの再判断により』


僕はその報告を聞き静かに息を吐いた。

だが同時に理解する。


(……この世界で、本当に恐れられているものが何なのか)


 沖 月子――。


 僕が走る5000mの裏側には、想像を超えた“世界の深層”が、確かに存在していた。


 ――そして、レース当日は、もうすぐそこまで迫っていた。


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