第39話 責務と部員らの分析結果
4月21日㈯
その日は、朝から不思議と心が落ち着いていた。覚悟は、もうとっくにできている。
僕は“種付け”という行為を、この世界の責務としてではなく、自分の意思として受け入れている。
指定された場所で待っていると、木村和子さんが現れた。
一瞬、言葉を失った。
普段の彼女は、丸眼鏡に控えめな服装、研究室に溶け込むような地味さをまとった人だ。
だがその日は違った。
丁寧に整えられた髪、淡くもはっきりとした化粧。身体のラインを意識しつつも、品のある装い。
無理をしている様子はなく、「この日のために心から準備してきた」ことが、はっきりと伝わってきた。
――綺麗だ!素直にそう思った。
緊張しているはずなのに、彼女の表情は柔らかく、どこか嬉しそうでもあった。視線が合うと、少しだけ照れたように微笑む。
「……今日は、よろしくお願いします」
その声は震えていたが、迷いはなかった。僕は頷き、ゆっくりと言葉を返す。
「こちらこそ。ありがとう、木村さん」
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その後の時間は、静かで、穏やかだった。必要以上の言葉はなく、互いの存在を確かめ合うように自然に流れていく。
僕は積極的だった。それは義務感からではなく、彼女の人生の大切な一頁に向き合う覚悟として。
木村さんは、すべてを受け止めるように身を委ね、やがて――深い安堵と幸福に満ちた表情を浮かべた。
「……すごく……幸せです」
その一言が胸に残る。役目を終えた後も彼女はしばらく動けず、まるで夢の中にいるかのように、穏やかな余韻に包まれていた。
この世界で“子を成す”ということ。それが、誰かの人生に確かな光を灯すのだと、僕は改めて実感していた。
こうして僕の初めての義務を果たしたのである。あとは木村さんが無事に身籠ってくれることを祈るばかりである。
因みに「ヨッシー」から聞いた話しによると、今迄の経験上、百発百中であったとのことだそうだ。
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役目を終えてから、僕は夜遅くに帰宅し妻らに報告した。妻達は「お疲れ様でした」と、労いの言葉をかけてくれた。
元の世界での倫理観を持つ僕としては、何とも複雑な気持ちとなるが、この世界線では常識なのであり慣れていくしかないな。
その後は北川さんにも報告した。彼女の声は“ぎこちなさ”があったが、僕に労いの声を掛けてくれた。
以後は、来年3月までに月に2~3名に「種付け」をするスケジュールを北川さんが組んでくれるそうだ。
但し、10月は松田優子さんへの種付けは確定されている。
◆◆◆◆◆
——翌日——
漸く部員らの分析結果を纏めたレポートと各個のトレーニング強度の作成が終了した。
各部員のフォームの欠点や修正箇所と、具体的な姿勢強制に必要なトレーニングも詳細にまとめてある。
この世界には、「D式理論」は存在せず、走力を数値化した「VDOT値」も存在しない。
元の世界で僕は、直近のレースタイムから「最大酸素摂取量」(VO2max)を算出し、それに基づいた指標を元に、自分の走力に合った強度のトレーニングをしてきた。
とても効率よく効果の高いトレーニングが積め、オーバートレーニングによる怪我や疲労のリスクを低く抑えることにも繋がったのである。
因みにVDOTとは、VdotO2maxを略したもので、「VO2max(最大酸素摂取量)」 を基に計算された数式である。
最大酸素摂取量(VO2max)とは、1分間に体重1㎏辺りが取り込める酸素の最大量(ml/㎏/分)で、持久力や有酸素運動能力の指標である。数値が高いほど強度の高い運動を長く続けられることを示している。
VO2maxが高く、多くの酸素を取り込めるということは、それだけ大きなエネルギーを発揮することが出来るということになる。
そしてVDOT値でトレーニング強度を決定する。
この指標が高ければ、体内でより多くのエネルギーを酸素を使って生成できるので、レースやランニングで高いパフォーマンスを発揮できるのである。
現在の走力を基に、イージーペース(E)、テンポ走(T)、インターバル走(I)、レペティション(R)といった各トレーニングゾーンのペース(例:1km何分何秒)が具体的に数値化され、「現在の実力に見合った適切なトレーニングを行うこと」が出来、“効率的なレベルアップ”が期待出来るのである。
こちらの世界には、数値化されたトレーニング強度の指標が無いので、僕の記憶を頼りにVDOT表(トレーニング強度表)を作成した。
今後はクリスと理事長と医師である奈月を通じて、大学に部員らの測定を依頼している。時間は掛かってしまうが、致し方なしである。
しかしながら、先日実施した5000m走を基に、VO2maxの推定値を求めることは可能だ。
【Vo2maxの簡単な求め方】
①5000m走の平均時速を算出
②時速から12分間の走行距離を算出
③VO2max=0.021×走行距離-14.1
【例:鳴野のVO2max算出】
①5000m走のタイム=16分50秒(1010秒)
・(求める速度:時速)=走行距離(m)÷1000÷走行時間(秒)×60×60
・5000÷1000÷1010×60×60=17.82178
・平均速度(時速)は17.82㎞/h
②時速(17.82㎞/h)から12分間(720秒)の走行距離(走行時間から走行距離を求める)
・(走行距離)=走行時速×1000÷60÷60×走行時間(秒)
・17.82×1000÷60÷60×720=3564.356m
③VO2max
・0.021×3564-14.1=60.74
※鳴野のVO2maxは60ml/㎏/分
——上記の計算から「鳴野」のVO2maxは60ml/㎏/分であるので、これを指標に当てはめて、トレーニング強度、マラソンペース(M)・イージーペース(E)・インターバル(I)・閾値走(T)・レペティション(R)の決定をする。
因みに閾値走(threshold)とは、Tペース若しくはLT走、テンポ走とも言われており、無酸素運動となる一歩手前のペースのことである。
具体的には10㎞のレースペースより遅く、ハーフマラソンのレースペースよりやや速いペースで30分~40分間走り続けるトレーニングのことである。
【VDOT値】(トレーニング強度表)
※(E)はイージーペース、(M)はマラソンペース、(T)は閾値走、(I)はインターバル走、(R)はレペティション。
(R)以外は全て1000mでのペース、(R)は400mのペース。
●VO2max60 (Eペース:4分35秒)(Mペース:3分52秒)(Tペース:3分40秒)(Iペース:3分23秒)(Rペース:75秒)
●VO2max61 (Eペース:4分31秒)(Mペース:3分49秒)(Tペース:3分37秒)(Iペース:3分20秒)(Rペース:74秒)
●VO2max62 (Eペース:4分27秒)(Mペース:3分46秒)(Tペース:3分34秒)(Iペース:3分17秒)(Rペース:73秒)
●VO2max63 (Eペース:4分23秒)(Mペース:3分43秒)(Tペース:3分32秒)(Iペース:3分15秒)(Rペース:72秒)
因みに僕のVO2maxは81となるので、強度は一つ上の82~83とするのが最適だ。
【僕のトレーニング強度】
●VO2max82 (Eペース:3分35秒)(Mペース:2分57秒)(Tペース:2分51秒)(Iペース:2分38秒)(Rペース:56秒)
「三上ルイ」のVO2maxは65であり、強度は66~67でするのが最適である。
【三上のトレーニング強度】
●VO2max66 (Eペース:4分14秒)(Mペース:3分34秒)(Tペース:3分24秒)(Iペース:3分08秒)(Rペース:69秒)
この指標を基に、三グループに分けて、今後の練習を実施していくことにした。
1グループは、三上を除く1年生9名でVO2max60の強度とし、2グループは、鳴野を含む二年生20名でVO2max61の強度とする。
そして「三上」のみは、部員の中で突出しており、単独となってしまうので、僕と一緒に3グループとして66~67の強度で実施することにした。
この「VDOT値」を基にしたトレーニング強度表をクリスに見せたら、とても驚いていた。
◆◆◆◆◆
4月23日㈪
16時過ぎ、部員たちはミーティングルームに集められた。皆どこか落ち着かない様子を見せている。
男子マネージャーの手を借りながら、僕は一人ひとりに、分析結果とトレーニング強度をまとめたファイルを手渡していった。
それぞれがそのファイルを開き、中身に目を落とした瞬間——室内の空気が目に見えて変わった。
「……えっ! ここまで細かいんですか……?」
「フォームの癖、全部書いてある……」
「わたし専用のペース表……?」
ざわめきが一気に広がる。ページをめくるたびに視線は真剣さを増し、やがて驚きへと変わっていく。
単なる精神論でも根性論でもない“今の自分の実力”が、数値として、言葉として、明確に示されていた。
最初に声を上げたのは、鳴野だった。
「……私のVO2max、60……」
思わず呟いたその声は、驚きと戸惑いが入り混じっている。
「5000のタイムだけで、ここまで分かるんですか……?」
彼女は何度もレポートに視線を落とし、各強度のペース表を指でなぞる。
「イージーが4分35……T走?が3分40……!今まで、きついか、きつくないか、くらいで走ってましたけど……」
そこで鳴野は、ふっと息を吐き、表情を引き締めた。
「……これなら、“どう強くなればいいか”が、はっきり分かりますね」
その言葉に周囲の部員たちも大きく頷いた。
そして、部屋の一角で静かにレポートを読んでいた三上ルイが、ゆっくりと顔を上げる。
「……65……」
淡々とした声だったが、その瞳は確実に揺れていた。
「……今まで、感覚で走ってきましたけど。これ……やばいですね。ここまで全部“見える”と……逃げ場がない!」
そう言って彼女は小さく笑う。
「でも……正直、ワクワクします」
三上のその一言で空気が一段と引き締まった。部員たちは、自分のレポートを握りしめ互いの顔を見る。そこには、先ほどまでの不安や戸惑いではなく——闘志が宿っていた。
「箱根……行けますよね?」
誰かが、ぽつりと口にする。その瞬間、部屋のあちこちから声が上がった。
「行けるわよ!」
「いや、行くんだろ!」
「このメニューで、行けなかったら言い訳できません!」
数字が示すのは冷酷な現実だ。だが同時に、それは——希望でもある。やるべきことが明確で努力の方向が定まっている。あとは積み重ねるだけだ。
僕は皆の前に立ち、静かに口を開いた。
「これは魔法の表じゃない。でも、正しく使えば確実に“強くなるための地図”になる。箱根駅伝は夢じゃない。この数字を信じて積み上げていこう!」
一瞬の静寂の後、ミーティングルームは力強い返事と拍手に包まれた。
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ミーティングを終えた後に、ラグビー場周回コースへと移動し、今日からはイージーペースでの120分走を実施した。
予定通り三つのグループに分けて練習を開始。
僕は三上と共に設定ペースで走る。
僕としては、この練習強度は低いのではあるが、昼間にしっかりとトレーニングをしているので、この強度でも特に問題ない。
部員らはグループ毎に各指標に基づいたイージーペースで走っている。皆一つの目標に向けて、一丸となってトレーニングに励んでいる。
こうして——箱根駅伝へ向けた本当の挑戦が、静かに動き出したのだった。




