第37話 稀人としての義務
4月17日㈫
自宅にて奈月、愛理を玄関先で見送った直後、北川さんから僕のスマホに着信が入った。何事かと思いつつ応対する。
『おはようございます。天馬さんにお伝えしたいことがございまして……今、お時間よろしいでしょうか?』
「はい。大丈夫ですよ。どうされました?」
いつも通り落ち着いて返すと、北川さんは少し息を整えてから続けた。
『先日ご相談いただいた“練習場所”の件ですが、護衛配置の目途が立ちました。併せて、天馬さんが出場可能なレースと、年内スケジュールのご相談もございます……これからお伺いしてもよろしいでしょうか?』
「本当ですか! ありがとうございます。ぜひお願いします!」
思わず声が上ずった。電話越しの北川さんが、さらに呼吸を整える気配がする。
『それと……大変申し上げにくいのですが……“種付け”と“精子提供”についても、お話しがございます……よろしいでしょうか?』
ついに来たか!一瞬だけ言葉が喉に詰まったが、僕はすぐに答えた。
「もちろん構いません! よろしくお願いします」
数秒の沈黙が落ち、やがて北川さんが小さく息を吸ってから言う。
『……ありがとうございます。では、30分後に伺います』
電話を切った途端、隣で聞いていた今日は休みの朱里が真剣な眼差しを向けてきた。
「ダーリン……覚悟しておいたほうがいいわよ! リストの人数……たぶん多いと思う」
「うん、だろうね。でも、避けて通れないし」
朱里は深く頷き、僕の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫。私はずっと味方だから」
胸の奥に熱が灯る。とはいえ、元の世界の倫理観を持つ僕としては、「種付け」の制度には若干の戸惑いがある……後でヨッシーに相談してみるか。
―30分後 ― 北川さんが来訪した。
インターホンが鳴り、北川さんが分厚いファイルを抱えて訪れた。
挨拶もそこそこに、テーブルに資料を広げると、まずは練習コースの説明から始まる。
「天馬さん、多くの候補地を検討した結果、こちらの“河川敷サイクリングコース”が最適と判断しました。片道5km、往復10km。ロング走、インターバル、ペース走に対応できます」
身を乗り出して見た見取り図には、自宅から徒歩圏内の河川敷が描かれていた。道幅も10mと広く、河口まで30km以上続いているという。
元の世界でも河川敷のコースはよく使っていたので、僕としては申し分がない。
「本当に? それは助かります!」
北川さんは大きく頷く。
「はい、コースの完全封鎖はできませんが、護衛はロードバイク(自転車)で“横の並走”と“後方からの追走”の二段構えにし、状況に応じてフォーメーションを変えます。視界も開けていて、先日の周回コースよりはるかに安全です」
胸の奥に一気に光が差し込んだ気がした。ようやく――本格的にフルマラソンに向けた練習ができる。
「ありがとうございます。ずっと課題だったので、本当に助かります」
僕は席を立ち、北川さんの隣に移動してから、感謝を込めて強くハグした。
北川さんは蕩けた表情で僕を抱きしめ「ごちそうさまです……」と呟き、少し肩を震わせる。
最近は、僕のハグにもすっかり慣れたようだ。
次に北川さんは別の資料を差し出した。
「こちらが、天馬さんが出場可能なレースの一覧です。“天馬さんにとって最適な調整”を前提に国内大会を中心に組んでみました」
広げられたスケジュールには。
5月――ウェヌスプラチナグランプリ(5000m走)
6月――ハーフマラソン(公認レース)
9月——フルマラソン(非公認レース)
10月――30㎞走(非公認レース)
11月――フルマラソン(公認レース)
と、年内出場の大会が整然と記されていた。
非公認レースは記録として認定されないので、ペース感覚を掴むためのトレーニングの延長としている。
スケジュール的には、11月のフルマラソン本戦へ向けてのステップも無理がなく、レース間隔も申し分ない。
指でなぞりながら、胸の高鳴りを抑えられなかった。
「……いよいよ、ですね……このスケジュールでエントリーをお願いします」
北川さんは口角を上げる。
「はい。いよいよ、です! 天馬さんの走りを世界中が注目しております」
その言葉に自然と背筋が伸びた。
――僕は胸の高鳴りを抑えられずにはいられなかった。
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一息ついてから、北川さんは別のファイルを開き、本題に入る。
「次に精子提供の件ですが――こちらが年6回、指定病院で提供していただくスケジュールになります――」
元々、男性は15歳から年1回の義務があると聞いていた。僕は“稀人”ゆえ年6回が義務付けられていると北川さんは説明する。
僕的には、これまで国に多くを支えて頂いたので、その報いに協力するのは当然だ。
「はい!少しでも力になれるなら嬉しいです!」
北川さんは目を丸くし、驚いた表情を見せた後に、頬を赤らめた。
続いて北川さんは、種付けについて何か言いにくそうに説明をし始める。
「そして……こちらが今年度の“種付け”候補者のリストになります。希望者が非常に多く、政府と男性保護庁で厳選に協議し、この人数にまで絞りました」
差し出されたファイルは、明らかに尋常ではない厚みがある。
ぱらりと開き一瞬固まった。
――写真付きのファイルは、推定100名ほど。
横で朱里が小さく叫ぶ。
「……多いっ!!」
僕も苦笑を返すが、北川さんは赤い顔のまま淡々と説明を続けた。
「このリストの中から30名を選んでください。スケジュールは選定後に調整いたします」
僕は今年度——つまり、今月下旬から来年の3月末までの1年間で30名の女性に種付けをしなければならない。要するに30名の女性と“ARE”をすると言うことだ!それだけでなく、種付け一件につき、国から報奨金も支給されるというのだ。しかも……結構な額である。
僕的には……女性とアレをして、お金を貰えるなんて、戸惑いを隠せない。
ここでは男性の“浮気”という概念は存在しない。制度として“妻以外にも子を残すこと”が推奨されていて、義務ではないものの、北川さん曰く、稀人の場合は国益とされているそうだ。
因みに一般の男性が行うのは精子提供のみである。「種付け」は、おそらく僕とヨッシーだけであろう。
僕はひとつ息を吐いてから、ファイルに目を通す。
「……分かりました。協力は惜しみません。只、妻達にも相談したいので、少し時間をください。明後日までには決めます」
北川さんは何かホッとした表情で頷く。
「もちろんでございます。ご負担にならないよう、私どもも最大限調整いたします」
その時、朱里が静かに手を挙げた。
「北川さん……その、ダーリンの調子や体力、生活との兼ね合いは、ちゃんと考慮してくれるわよね?」
北川さんは姿勢を正し、きっぱりと答える。
「はい! 旦那様方のご意見は最優先いたします。スケジュールは、天馬さんの負担にならないように配慮致しますので、どうかご安心ください」
朱里は胸を撫で下ろし、僕の側に寄った。
「ダーリン……無理は絶対ダメよ。あなたはたくさんの人に必要とされてるんだからね。だからこそ、全部を抱え込まないで私たちにも頼ってね」
朱里がそう言うと、北川さんも静かに頷く。
「……天馬さんが無理をされると、国としても困りますので……」
僕は笑いながら二人を見た。
「ありがとう。ほんと心強いよ」
リストの重みを感じながらも、二人の言葉によって、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
その後も何気なく写真付きのプロフィールリストをぱらぱらと捲っていると、ある人物の名が僕の目に留まる。
「北川さん! このリストに、松田さんがありますが……」
北川さんは、ゆっくりと頷き応える。
「はい、リストの中には、天馬さんがよくご存じの方も含まれております。まず……シューズ開発責任者の木村和子さん(31歳)。そして……護衛の松田(37歳)です」
――松田優子さん(37歳)
長身(190cm)で寡黙、職務に誠実。どんな悪天候の中でも常に僕の傍で身体を張って守ってくれた姿が脳裏に浮かぶ。
凛々しく容姿端麗で、まるで鎧甲冑が似合いそうな、女武将のような美しさを持つ女性だ。
僕は、動揺を隠しきれずに問いかけた。
「松田さん……護衛を下番されるんですか?」
北川さんは、どこか残念そうな表情で答える。
「はい。年齢による体力的な問題と……その……次世代の女性隊員の育成に回るためです。10月の定期異動で天馬さんの護衛を下番し、海兵隊に戻る予定となっております。それで……一人の女性として、天馬さんの遺伝子を残したいと……強く希望しておりまして」
北川さんは言葉を選ぶように、一度視線を落とした。
「もちろん、強制ではありません。ただ……彼女は“これまでの責任と誇りを胸に、人生の一区切りを迎えたい”と……」
その言い方に、僕は違和感を覚えた。北川さんは、何かを隠している――そう感じ、僕は瞬きもせずに彼女の目を見据える。
「北川さん。本当に……それだけですか?」
北川さんは視線を逸らした。その目は泳いでいて落ち着きがなく、明らかに何かを隠している様子。
数十秒の沈黙の後、彼女は深く息を吐き、静かに口を開いた。
「……天馬さんには敵いませんね。実は……松田さんのお母様が病弱でして……長女である松田さんが付き添いをする必要があるのです。申し訳ありません、これ以上は個人情報に関わることですので、ご容赦ください……」
事情があるのだろう。僕はそれ以上踏み込むのをやめた。
「……事情は分かりました。それで、松田さんは実家に戻られるのですか?」
北川さんは少し悲しそうな表情で僕に応える。
「はい。実家に戻り、近くの海兵隊駐屯地で新入隊員の育成に携わるそうです。幸い、実家の近くに教育部隊があり、配属先も既に決まっております」
松田さんがいなくなる――それは、とても寂しい。だが事情を知った今、引き留めることはできなかった。
それと同時に、彼女の願いを叶えてあげたいという想いが、胸の奥から湧き上がってくる。
すると、朱里が小さく目を伏せた。
「……あの人、本当にずっと、ダーリンを身体を張って守ってきたものね」
僕は静かに息を吸い込んだ。松田さんのことを思うと、胸の奥が熱くなる。
彼女は、危険があれば真っ先に盾になってくれた。威圧感のある佇まいで群衆を寄せつけず、移動のたびに傍にいてくれた――その存在がどれほど心強かったか。
――その人が、最後に望んだこと。
僕は意を決して北川さんに告げた。
「……分かりました。松田さんは……最優先で受けさせてください」
北川さんは、涙ぐみながら深く頭を下げた。
「ありがとうございます……! 10月で調整いたします。彼女……きっと喜びます。泣いてしまうかもしれません」
朱里も柔らかく微笑む。
「ダーリンらしいね。でも……無理だけはしないで」
僕は頷く。
「大丈夫。一人ひとり……ちゃんと向き合っていく」
北川さんは一瞬驚いた表情を見せた後、安堵したように頷いた。
「では、松田さんと木村さんは最優先でスケジュールを組みます。詳細は後日、改めてご説明いたします」
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北川さんとの打ち合わせが終わったのは、正午を少し回った頃だった。僕は護衛二人も自宅に招き、昼食を振る舞った。その中には松田さんの姿もあった。
食事中、松田さんは何度も僕をチラリと見ては、目が合うと赤面して視線を逸らす。
普段は決して見せない、そんな可愛らしい仕草に、僕の方が意識してしまう。
食後、僕は松田さんに声をかけた。
「松田さん……先ほど、北川さんからお話を伺いました。護衛、下番されるんですね……」
一瞬驚いた表情を見せた彼女は、すぐにいつもの凛とした顔に戻る。
「はい。一身上の都合により……申し訳ありません。長い間お守りでき、光栄でした」
言葉は少なくとも、その誠実さが胸に沁みる。彼女がいなければ、僕は安心して走ることもできなかっただろう。
本来なら、妻たちと相談して決めるべきことだが、それでも――僕は彼女の願いを叶えたいという気持ちを抑えきれなかった。
「松田さん……その願い……ぜひ、叶えさせてください! “その日”の僕は、松田さんのものです……好きにしてください」
その言葉に、松田さんは目を見開いたまま完全に固まった。北川さん、もう一人の護衛、朱里までもがフリーズしている。
数十秒後、ようやく再起動した北川さんが、赤面しつつも震える手で種付けに関する書類を差し出した。僕と松田さんは必要事項を記入し、署名を済ませる。
松田さんの手は震えていて、興奮と緊張が、はっきりと伝わってくる。周囲も皆、赤面しながらその場の空気に圧倒されていた。
後で北川さんと朱里から聞いた話では、「男性から“好きにして”と言われることは、女性にとっての憧れであり、とても強い性的高揚を伴うもの」なのだそうだ。
書類を記入し終え、北川さんと共に部屋を出る松田さんに、僕はそっとハグをした。
松田さんは、またしても赤面し、しばらく固まってしまった。
――これから稀人である僕は、走り、守られ、求められ、そして多くの命の未来を背負っていく。
軽い気持ちで接すれば、精神的には楽なのかもしれない。僕の立場から見れば、数ある“種付け”の中の一人に過ぎないのだから。
しかし、種付けに選ばれた女性たちにとっては違う。それは一生に一度しか経験できない人生を左右する出来事であり、子を成し、その後は長い年月をかけて育てていく覚悟を伴う。
この世界では――「子を成すこと」「出産」「育児」は、女性として最も幸福な営みだとされている。北川さんや妻たちから、何度もそう聞かされてきた。
そして男性は、子を成すための“種付け”を行えば、それで十分。それが、この世界の常識なのだ。
……本当に、それでいいのだろうか?僕は悩む。
種付けを受ける女性の立場になって考えてしまう。一度キリで寂しくはないのだろうか?僕に、何かできることはないのだろうか?――と。
だからといって、同情だけで婚姻を増やしていけば、それこそ収拾がつかなくなるのも事実だ。
僕一人で考えても、答えは出なかった。
だからこそ、僕は電話を取った。相手は同じ稀人であり、人生の先を歩く存在――義父のヨッシー(大舘真人)だ。
数コール後にヨッシーは応対した。
「……もしもし、ヨッシー? 今、大丈夫ですか?」
『おう、どうした? 何だか声が重いな』
電話口の声は、いつも通り落ち着いていて包容力があり、少し肩の力が抜ける。
「……実は、種付けの件なんだけど……正直、どう向き合えばいいのか分からなくなってさ」
一瞬の沈黙のあと、ヨッシーは低く息を吐いた。
『そうか……お前も、そこまで来たか』
「ヨッシーは……どうしてる? 気持ちの整理とか……」
『はっきり言うぞ』
彼の声が少しだけ厳しくなる。
『種付けした女性全員と、婚姻するのは物理的に無理だ。心も身体も、時間も、すべてが足りなくなる』
その言葉は重かったが、逃げ場のない真実だった。
『だからな、天馬。手の届く範囲の女性たち――つまり、お前の“妻たち”を精いっぱい愛せ!』
「……!」
『中途半端な優しさは、かえって人を傷つける。お前が本当に守れるのは、今、隣にいる女たちだ』
しばらく言葉が出なかった。
『罪悪感を抱くなとは言わん! だが、背負いすぎるな!俺たちは“神”じゃない。ただの人間だ』
その言葉に衝撃を受け、何か肩の力が抜け、精神的に楽になったような気がした。
「……ありがとう、ヨッシー」
『ハハハ、悩めるうちは大丈夫だ。それを忘れるな』
電話を切ったあと、胸の奥に溜まっていた霧が、少しだけ晴れた気がした。
――僕は稀人だ。多くを求められ、多くを背負う存在だ。
それでも、すべてを抱え込む必要はない。手の届く人を、確実に幸せにすること。逃げずに誠実に向き合うこと。
それが、僕が選んだ“稀人としての在り方”なのだと――ようやく、心から思えたのだった。




