第36話 始動!
4月16日㈪ ——夕方16時30分
練習開始前、僕はクリスと共に部員たちをミーティングルームへ集めた。
ホワイトボードとプロジェクターを準備し、ここからが本当の意味での“新体制”のスタートだと、自然と背筋が伸びる。
僕は部員らにR式トレーニングの第1期『基礎固めの時期』についての説明を始める。
「今日は、これから7月まで――12週間かけて取り組むトレーニング計画について説明します」
そう切り出すと、部員たちの表情が一斉に引き締まった。新入部員の一年生はもちろん、上級生たちも姿勢を正し真剣な眼差しを向けてくる。
「すでに監督から聞いてる者もいると思うが、僕が導入するのは“R式トレーニング”と呼んでる方法です」
ざわり、と新入部員らから小さなどよめきが起こる。
この世界線には存在しない理論――既存部員には以前、この理論を伝えてあるが、新入部員は初めて聞くものであり、それをいきなり提示されたのだから無理もない。
因みに……北川さんより「R式トレーニング」は、この世界にはない理論である為、僕が考えた理論として欲しいと言われたのである。僕としては……後ろめたさはあるが、北川さんのお願いを受け入れた次第である。
「第1期は“有酸素能力の発達”で期間は12週間で7月までです。この期間でやることは、はっきり言えばとても地味です。スピード練習はほとんどやりません」
スクリーンに映し出されたのは、週ごとの走行距離とジョグ中心のメニュー表。思った以上に“走る距離”が多いことに、新入部員の何人かが目を見開いた。
「中心になるのはジョギングで、ゆっくり長く最終的な目標は――2時間以上、各人の走力レベルに応じた設定ペースにて、止まらずに走り続けられる体を作ることです」
室内の空気が一瞬、張りつめる。
「そんなに……走るんですか……」
新入部員から小さな声が漏れたが、僕は否定も肯定もせず続けた。
「誤解しないでほしい。闇雲に距離を踏ませるわけじゃない。心拍数、疲労度、回復具合を見ながら段階的に積み上げます。この第1期は、次の段階――スピードとレース強度の練習に進むための“土台作り”です」
部員らを見渡し一呼吸置いてから、更に説明を続ける。
「先週のタイムトライアルの分析結果は、あと数日でまとまります。もう少し待って欲しい。来週からはその分析を基に、走力レベル毎にグループ分けしてペースを決める。今週一杯は、特にペースは指定しません」
監督であるクリスが横で頷きながら補足する。
「並行して、体幹トレーニングと筋力トレーニングも行います。特に股関節まわりと腸腰筋、ハムストリング⋯⋯フォームの維持と故障を防ぐためにも重要です」
部員たちはメモを取りながら、時折顔を見合わせていた。未知の理論に対する期待と、「本当に大丈夫なのか」という不安が入り混じっているのが痛いほど伝わってくる。
その沈黙を破ったのは、一年生の「三上ルイ」だった。
「天馬コーチ!!」
まっすぐ手を挙げる迷いのない動きだ。
「質問いいですか?」
「どうぞ」
「ジョグ中心で、スピード練習をほとんどしないってことは……レースペースが遅くなったりしないんですか?」
三上はとても素直で、核心を突いた質問だった。上級生たちも同じ疑問を抱いていたのだろう視線が一斉に集まる。
「いい質問だ」
僕は一度うなずき、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「結論から言うと、遅くならない。むしろ後で必ず伸びる」
ざわり、と再び空気が動く。
僕は説明を続ける。
「有酸素能力が高まれば持久力が向上し、同じスピードでも“余裕”が生まれる。余裕があればフォームは崩れにくく、後半にスピードを上げられる。第1期は、その余裕を最大限に広げる期間だと理解して欲しい」
僕の説明を受けた三上は、一瞬考え込むように視線を落とし、そして小さく笑った。
「……なんか、理屈は分かります!きつそうですけど、面白そうですね」
その言葉に何人かの一年生がほっとしたように息を吐いた。
続いて、キャプテンの鳴野が手を挙げる。
「天馬コーチ!私からもいいですか?」
「もちろん」
僕は笑顔を交えて鳴野の質問を促す。
「二時間走るってことは……ペースはかなり抑えますよね?正直、上級生としては“物足りなさ”を感じる選手も出ると思います」
さすがキャプテンだ。部全体を見据えた質問だった。
「その点は、僕も承知してる」
僕は鳴野を正面から見据える。
「だからこそ、この期間は我慢比べになる。速さじゃなく“積み重ね”と“継続”が評価基準だ」
鳴野は一瞬、唇を噛みしめ――そして、はっきりとうなずいた。
「……分かりました。キャプテンとして、私が率先してやります」
その言葉に部員たちの表情が引き締まる。
鳴野自身もまた、僕に認められたいという思いを、隠そうとはしていなかった。
「ありがとう。心強いよ」
僕は笑顔でそう返すと、鳴野はわずかに頬を赤らめ、視線を逸らした。
「最後に一つだけ」
僕は全員を見渡し熱く語る。
「このR式は、結果がすぐには出ない! 不安になる日も疑いたくなる日もあると思うし、焦りもあると思う! だが……僕は君たちを速くするためにここにいる! どうか……信じてついてきて欲しい! 必ず、次の段階で“走りが変わった”と実感できると思う!」
静かな沈黙のあと、誰からともなく、はっきりとした返事が返ってきた。
「「「はい!!!」」」
その声を聞きながら、僕は確信した。ここにいる部員(選手)らは、まだまだ伸びる。
そして――R式トレーニングの第一歩は、確かに踏み出されたのだ。
~~~~~
ミーティングを終えると、部員たちは着替えを済ませ、ラグビー場外周コースへと移動した。
部員らには全員チェストストラップ型のハートレートセンサー(心拍計)を装着してもらい、スタート&ゴール地点に近づくとクリスのタブレットに心拍数が送信される仕組みとなっていて、リアルタイムで心拍数を計測できる様になっている。
夕方とはいえ春の日差しはまだ柔らかく、走り出すには申し分ないコンディションだ。
「今日は90分、止まらずに走ること。ペースは“会話ができる速さ”だ。絶対に上げないこと」
僕の言葉に、何人かの新入部員が顔を見合わせた。
「……90分、ですか」
「タイムは計らないんですよね……?」
新入部員らが不安気な眼差しで、僕に質問してきたので、彼女らを安心させるため、僕は柔らかい声音で応えた。
「計らないので、今日は距離も気にしなくていいよ」
その返答が、かえって不安を煽ったのかもしれない。競技者ほど、“数値がない練習”に戸惑うものだ。
スタートの合図を出すと、自然と集団は二つに分かれた。先頭に立ったのはキャプテンの鳴野だった。
「最初は私が引っ張ります。きつくなったら、すぐ言ってください」
そう声を掛けながら、鳴野は極端に抑えたペース(4分40秒/㎞)で走り始める。決して遅すぎず、しかし“楽”とも言い切れない絶妙な速度である。
40分——50分――最初は雑談も聞こえていた集団から、次第に声が消えていった。
「……意外と、長いですね」
「脚じゃなくて、呼吸が……」
60分、12㎞を過ぎたあたりで新入部員の表情に変化が現れる。汗の量が増えフォームがわずかに崩れ始めた。
「肩の力抜いて…腕、そんなに振らなくていい」
鳴野は振り返りながら、一人ひとりに声をかける。決して叱らず、決して急かさない。キャプテンとしての自覚が走りの中に滲んでいた。
一方で――。
「……あれ?」
僕の視線の先、集団のやや後方を走る三上ルイは、明らかに様子が違っていた。呼吸は乱れていないし、肩の上下動も少なく着地音が軽い。
時間が経つにつれて“楽になっている”ようにすら見える。
70分——14㎞を過ぎた頃、他の新入部員が苦しそうに顔を歪める中、三上だけは表情が変わらない。
(順応が……早すぎる)
僕は内心でそう呟いた。
85分―—17㎞を過ぎた頃、男子マネージャーが「ラスト5分です!」と声を掛け、皆の頑張りを後押しする。
そして、ようやく90分——18.6㎞をキロ4分40秒のペースで、一人の脱落もせずに走り切った。
止まった瞬間、その場にしゃがみ込む者、芝生に仰向けに倒れる者、新入部員の多くは言葉も出ない様子だった。
「……これが……基礎……」
「正直……きつい……です……」
その中で、三上ルイはというと――まだまだ余裕があるようで、すぐに姿勢を整えていた。
「……意外と、いけました」
鳴野に小さく笑ってそう言う。鳴野が驚いたように彼女を見る。
「相変わらずルイは……すごいわね」
三上は笑顔を交えて鳴野に応える。
「高校のときより、楽に走れてる気がします」
それは決して誇張ではなかった。
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部員たちがクールダウンに入った後、僕とクリスは少し距離を置いて様子を見ていた。
「……やっぱり、三上は本物ね!」
クリスが研究者の顔で言う。
僕は感心した表情でそれに応える。
「ああ、有酸素域での効率が異常にいい。無駄が少なすぎる」
するとクリスはタブレットを見て驚きの表情をする。
「心拍数、見ました?70分過ぎても、ほとんど変化なしだった」
クリスはタブレットにメモを取りながら、興味深そうに続ける。
「筋力もまだ未完成なのに“走るための神経系”が、最初から出来上がってる感じがする」
「R式に一番早く適応するタイプだな」
僕がそう言うと、クリスは静かにうなずいた。
「上級生たちは……」
僕も頷く。
「予想通りだ!スピード慣れしてる分、抑えるのが一番きついだろうな」
だからこそ、と僕は続ける。
「この第1期が重要になる。鳴野が先頭に立ってくれたのは大きい」
視線の先では、鳴野が最後まで残って新入部員のケアをしていた。クリスは鳴野に温かい視線を向け言う。
「キャプテンとして、ちゃんと機能してますね」
「……ああ」
僕も鳴野に感心する。クリスはふっと笑い少しだけ声を落とす。
「天馬、この世界でR式は未知数よ。でも――今日の90分走は、理論通りの反応が出てるわ。不安よりも期待の方が大きいわ」
その言葉に胸の奥が静かに熱くなった。
「なら、あとは積み上げるだけだな」
心地良い春の風が吹く夜空の下、ナイターの照明に照らされた部員たちの息遣いが、確かな“始まり”を告げていた。
R式トレーニング第1期――僕のコーチとしての本格的な第一歩は、確実に刻まれていた。




