第35話 分析
4月15日㈰
昨日はタイムトライアルを実施したので、今日の僕の朝のトレーニングは、護衛を伴い大学のラグビー場周回コースにて10kmのジョグのみとした。
ここ1週間ほど、色々とあって朝のランニングは久々となってしまったが、気持ちをリセットすることが出来、気分爽快である。
8時頃に自宅に戻ると、愛里と奈月がすでに起きていて、愛里が作ってくれた朝食がテーブルに並べられていた。
朱里は久々の夜勤であったので、10時ごろに帰宅する予定なので、この場にはいない。
僕は2人にいつもの挨拶をしてからテーブルに着き、朝食を摂る。
その後は、今日は奈月と共に過ごす日なので、二人でショッピングモールへと買い物に出かける。
愛理は友人らとの食事会をするため、護衛を伴い外出していった。僕らに気を遣ったのかもしれない。
奈月は僕との外出が楽しかったのか、終始笑顔で買い物を楽しんでいた。
奈月は妊娠中であるので、余り無理はさせられない。
主にマタニティウエアなどを中心にショップ巡りをし、数点購入してから15時ごろに早々と帰宅した。
~~~~
18時を少し過ぎた頃、僕の自宅では妻達全員(奈月、朱里、クリス、美月、愛理)を招いて食事会を催した。
僕と愛理とクリスの三人が台所に立ち、それぞれの得意料理を振る舞った。
テーブルの上には、和・洋・イタリアンが見事に入り混じった豪華な料理が並び、
食卓を囲む妻たちの笑顔と談笑が、春の夜の空気をいっそう柔らかくしていた。
朱里が僕の作った出汁巻き卵を頬張り、目を細める。
「やっぱり、ダーリンの出汁巻き卵が一番ね」
奈月が苦笑しながら、朱里の肩を軽く叩いた。
「そう言いながら、愛理さんのラザニアとクリスのヒレカツもおかわりしてるじゃない」
「だって美味しいんだもん!」
朱里は頬を膨らませながらも幸せそうに笑う。
美月は赤ワインのグラスを傾け、奈月・朱里のやり取りを楽しそうに眺めていた。
「ふふっ、どれも甲乙つけがたいわね。料理の戦いというより、愛情の共演かしら」
その言葉に皆が笑い、部屋中に穏やかな笑い声が広がった。家族そのものの温かさが漂い、僕はその光景を静かに胸に刻んだ。
食後はリビングの大画面モニターに昨日のタイムトライアル映像を映し出す。僕とクリスを中心に、妻たちも加わってフォームの確認と課題分析を進めた。
僕とクリス以外はランニングの専門家ではないが、第三者の視点からの意見は驚くほど鋭く、時に僕らの気付かない見落としを補ってくれることがある。
クリスが先に口を開いた。
「三上と鳴野以外は、終盤の腰の落ちが気になるね」
僕もその指摘に応える。
「うん。この二人以外は体幹の維持がまだ弱いね。腕も横振りになってる。三上のフォームは柔らかいけど、終盤で少し崩れる。持久力が課題だね。鳴野は体幹が強いけど、足のさばきが遅い。スタミナはあるがスピードが足りない」
三上は小柄(身長155cm)ながらフォアフット走法(つま先接地)で、ストライド(歩幅)も大きくスピードのある選手だ。
しかし、ラスト800メートルでフォームの崩れからペースが落ちる傾向がある。ペース配分と体幹の筋力を鍛えれば、確実にもう一段上へいけるだろう。
また、彼女はストライド走法(大股)でもあるので、平地や下り坂に於てはそのスピードを遺憾なく発揮できるが、坂道(上り坂)に於ては、ピッチ走法(小股)に切り替えなければならない欠点もある。走りのテンポの変化に対応出来るだろうか。おそらく上り坂は苦手であろうし平地向きであると推察する。
それと……ストライド走法は、スピードはあるが、シンスプリントに罹患しやすく、腸腰筋と股関節を痛めやすい欠点もある。防止策として、しっかりと体幹と腸腰筋を鍛えなければならない。
一方、鳴野もフォアフットではあるが、ピッチ走法(小股)で安定したペースを刻むタイプだ。爆発的なスピードは出せないが、ペースの安定性は抜群である。
彼女は、おそらく坂道と下り坂には強いであろうし、ロングレンジでの勝負が似合いそうだ。
彼女は筋力も申し分ないので、ケガのリスクはおそらく低いであろう。只……スピードが圧倒的に足りてないので、スピード持久力を付けるトレーニングが必要である。
そんな分析をクリスや妻たちと話し合いながら進めていくと、奈月が画面を見つめながら少し身を乗り出した。
「この子、右肩が落ちてるように見えるけど……それって腕の振り?」
僕は奈月の的確な指摘に驚く。
「そう! よく気づいたね奈月。右腕の戻しが少し遅いんだ」
僕が答えると、クリスが感心したように頷く。
「ランナーじゃない視点って、ほんと鋭いのね」
その後も朱里は姿勢バランスについて、美月は呼吸のリズム、愛理は着地角度について、それぞれ違う視点から各部員らの指摘をしてくれた。
奈月は整形外科医の観点から、朱里は格闘技経験者として、美月は空手の呼吸法から、そして愛理は経営者として全体の流れを見て分析をまとめてくれた。
妻達の意見はとても参考になったし、各選手のファイル作成に大いに助かったのである。
数日中には選手全員に配布することができそうだ。
それぞれの視点が重なり合うことで、僕たちのチームはより強くなっていく。妻たちの存在は、僕にとってかけがえのない支えだ。
気づけば22時を過ぎていた。紅茶を片手に、皆が安堵したような表情で語り合っている。
23時を回った頃、ようやくお開きとなった。遅い時間でもあり、北川さんに連絡を入れて、美月とクリスは今夜、僕の家に泊まることになった。
さて――今夜は奈月の番だが、彼女は妊娠中のため体を休めることを優先した。僕は床に布団を敷いて眠ることにした。
ベッドで横になる奈月は申し訳なさそうにしていたが、その笑顔は幸せに満ちていた。
彼女と出会ってまだ三ヶ月弱ではあるが、一緒に過ごした時間の濃さが、もう何年も共に生きてきたような錯覚を覚えさせる。
隣のベッドで眠る奈月の寝息を聞きながら、僕は静かに目を閉じた。
◆◆◆◆◆
4月16日(月)・早朝
鳥のさえずりとともに目を覚ますと、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。奈月はまだ静かに眠っており、その穏やかな寝顔を見ていると胸の奥が温かくなる。
ふと、リビングの方から小さな物音が聞こえた。そっと部屋を出ると、キッチンでクリスがコーヒーを淹れていた。
彼女は髪をひとつに束ね、まだ寝間着姿のまま、カップをテーブルに並べていた。
「おはよう、天馬。少し早起きしすぎちゃった」
「いや、助かるよ。朝の香りがもう仕事モードだね」
クリスは微笑みながら僕にコーヒーを淹れてくれてカップを差し出した。
「昨日のフォーム分析、すごく良かったわね。あの子たち、きっと伸びるわ」
「うん、間違いなく伸びる。すぐに結果が出るよ」
——しばらく沈黙が続いた後、クリスは真剣な表情で僕の目を見つめた。
「天馬……先日話したこと、やっぱり真剣に考えたいの。研究の区切りがついたら、私たちの子どもを……本気で考えたい」
僕はその言葉を静かに受け止め、クリスの手を優しく包み込んだ。
彼女は昨日、奈月と愛理のお腹を見つめながら、複雑そうな表情を浮かべていた。
「わかってる。君の気持ちを無駄にはしないよ。焦る必要はないけど……その未来を一緒に描いていこう」
クリスは小さく息を吸い、涙を堪えるように微笑んだ。
「ありがとう、天馬……あなたと一緒になれて、本当によかった」
朝の光が差し込み、彼女の頬を柔らかく照らしていた。
その姿を見つめながら僕は思う―—この家には笑顔と、これから生まれる新しい未来が確かにあるのだと。
しばらくすると、愛理が寝室から現れた。「おはよう」と穏やかに微笑み、僕たちに軽く頭を下げると、すぐにエプロンを身に着けて朝食の準備を始めた。
愛理のエプロン姿はいつ見ても可憐で、僕は思わず抱きしめたくなったが、愛理は笑顔のまま軽く身をかわして僕の腕をすり抜けた。
どうやら、先ほどの僕とクリスのやり取りを聞いていたのか、あるいはクリスの表情からその想いを察したのかもしれない。
愛理は静かに目で合図を送り、僕に“彼女の心に寄り添ってあげて”と伝えていた。
その気遣いに気づかないまま、クリスは黙々と朝食の支度を続けていた。僕はそんな彼女の手を取り、リビングに導いて、しばしの間抱きしめた。
クリスは小さく嗚咽を漏らしながら、僕の胸に顔を埋めた。日増しに深まる愛情と、奈月や愛理への羨望、焦りと願いが入り混じった複雑な涙。
それをただ受け止めながら、僕は彼女の背を優しく撫でた。
少ししてクリスが落ち着きを取り戻すと、僕と愛理、三人で朝食とお弁当を作り始めた。
愛理は微笑みながら、クリスに焼き魚の焼き加減を教えている。その光景はまるで姉妹のようで、僕は胸の奥で静かに安堵した。
朝食とお弁当の準備が整う頃、他の妻たちも続々と起きてきた。
奈月はすっぴんで、白地に花柄のマタニティワンピース。美月はグレーのスーツにミニ丈のタイトスカート、完璧なメイクに整った髪。その姿は朝から隙がなく、いつもながら美月の几帳面さには感心する。
そして最後に、朱里が寝間着のままボサボサ頭で現れた。眠そうに目をこすっている彼女の頭を母親の愛理が軽く小突いた。
「いつまで寝てるの朱里! シャキッとしなさい」
「んー……まだ眠いのに……」
母娘のそんなやり取りに、リビングに笑い声が広がる。
ちなみに朱里は今日は非番で、昼は僕の練習に付き添う予定だ。護衛も兼ねている。
~~~~~
8時過ぎ、皆にお弁当を手渡して送り出したあと、僕は食器の片づけと洗濯を済ませ、9時頃に朱里と共に東相大学へ向かった。
ラグビー場の外周コース――1キロ弱のゴムチップコースを使い、久々のロング走を行う予定だ。
そろそろフルマラソン(42.195km)に向けた本格的なトレーニングを再開したい。出場については警護上の問題もあり、北川さんと調整中だ。
彼女の話では、11月頃を目標に大会への出場を計画しているという。
今日はその第一段階として、キロ3分ペースでのハーフのペース走(21km)を実施することにした。
この世界に来てから10km以上のペース走をするのは実に四ヶ月ぶりだ。
〜〜〜〜
ラグビー場の周回コースを21周と少し。時計を止めると、1時間03分17秒――設定通り、3分/kmペースを維持したまま走り切った。久しぶりのペース走としては上々の出来である。
ただ、1キロ弱の周回コースを何度もぐるぐる回るのは正直……精神的にきつい。見通しが良い分、飽きるし集中力の維持も難しい。
朱里と二人の護衛が等間隔で配置され、警備は万全だが、トレーニング環境としては、もう少し広く変化のあるコースが欲しい。
できれば河川敷の5km往復コースや、軽いアップダウンのある林道などが理想だ。
だが、稀人である僕の立場上、容易には実現できない。北川さんもその件については検討中で、「もう少し時間をください」と言っていた。
ハーフを走り終え、軽くクールダウンも終えると、朱里が小走りで近づいてきた。
「ダーリン、すごいタイムじゃない! まだ余裕ありそうだったけど?」
「うん、脚も呼吸も問題ない」
冗談めかして言うと、朱里は笑いながらタオルを差し出した。
「ふふっ、なっちゃん(奈月)に怒られない程度にしてね。無理すると、また心配するから」
「わかってるよ」
タオルで汗を拭いながら、僕は空を見上げた。春の陽光が心地いい。
ストレッチを終えてから、少し間をおいて朱里が少し声を落として言った。
「……クーちゃん(クリス)、今朝泣いてたでしょう?」
「……気づいてたか」
朱里は穏やかに頷く。
「うん。でも、あれはきっと幸せな涙だと思う。クーちゃん……昨日、なっちゃんとお母さん(愛理)のお腹を見て、複雑な表情をしてたから……。早くダーリンの子を身ごもりたいのかな」
朱里は複雑な表情を見せ俯く。僕はそんな朱里を抱きしめた。すると朱里は上目遣いで僕を見つめ、その頬がわずかに赤く染まる。朱里のその言葉に胸が熱くなり、僕は静かに答えた。
「ありがとう朱里。君も、きっといい母親になるよ」
朱里は照れ隠しのように笑い、拳で僕の胸を軽く叩いた。
「……もう、そういうこと言わないの!」
彼女の笑顔を見ながら、僕は改めて思う。この世界での家族の形は、元の世界での常識を超えていても、そこに流れている想いは、どこまでも真っ直ぐで温かい――。




