第32話 月子さんへの報告……ヨッシーの祝勝会
4月7日㈯
―― 翌日 ——
僕は奈月と美月と北川さんと共に、月子さんの家──つまり奈月と美月の実家を訪れた。僕が「藤野 篤」の子であるという事実を、月子さんに報告するためだった。彼女自身が「ぜひ話がしたい」と、強く希望してくれたからでもある。
なお、この件は国家機密(特別機密)に指定されており、奈月の父・零士さんには伝えていない。彼は現在、他の側妻宅を順番に回っていて、今日はヨッシー宅で僕の祝勝会の準備をしているそうだ。
玄関を開けると、奈月と美月の母・葉月さんが、明るく優しい笑顔で迎えてくれた。僕たちは案内され、リビングへと向かう。
リビングに入るなり、月子さんが目に涙を浮かべ、立ち上がって近づいてきた。
「……お父様の子なのね!」
その声は震えていた。次の瞬間、彼女は僕の体にしがみつくように抱きつき、堰を切ったように嗚咽を漏らした。
僕は驚きながらも、そっと彼女の背中に腕を回し、ゆっくりと撫でた。彼女の温かい涙が僕の肩に染み込んでくる。
奈月、美月、そして北川さんは、その光景を静かに見守っていた。誰も言葉を発しなかったが、そこに確かな“家族の絆”が存在していることを、皆が感じ取っていたようだった。
やがて月子さんは涙を拭い、少し照れくさそうに笑った。
「……ごめんなさいね、いきなり取り乱して。でも、天馬さんの顔を見て、なんとなくわかったの。目元も、雰囲気も、お父様にそっくりなのよ」
僕はゆっくりと頷いた。
「僕自身も、ずっと胸の奥に引っかかるものがありました。ようやく、それが晴れた気がします。こうして月子さんと温もりを分かち合えて、本当にありがたいです」
月子さんはそっと僕の手を取り、優しく微笑んだ。
「これからは、私のことを“姉”のように思って接してね。……いえ、それ以上でもいいわ。あなたは、私たちの“誇り”なのだから」
その言葉に奈月も美月も目を潤ませ、そっと頷いていた。
その後、月子さんが金庫からアルバムを取り出し、僕たちは北川さんも交えて一緒に写真を見ながら、月子さんから父・篤の思い出をたくさん聞かせてもらった。
陸軍士官として軍務に就いていた篤は、多忙を極めていたにもかかわらず、家では家事も育児も率先してこなし、事業で多忙だった千代乃さんを陰ながら支え続けていたという。学校行事には必ず顔を出し、友人たちからも「理想の父親」として羨ましがられていたらしい。
6人の姉妹たちは皆“パパッ子”で、よく父親の取り合いをしていたそうだ。当時の男性は、女の子に対して関心を持たない人も多かったというが、篤は違った。寧ろ信じられないほどの愛情を惜しみなく注ぎ、娘たちはその愛の中で育ったのだ。
その話を聞きながら、僕は改めて父が本当に皆から深く愛され、幸せな人生を歩んでいたことを実感した。
気づけば、時刻はすでに午前11時を過ぎていた。そろそろヨッシー宅へ向かう時間だ。
最後に月子さんが玄関先まで出てきて、僕を見送ってくれた。
「天馬さん、今日は来てくださってありがとう。……私のことはこれからも姉のように思ってくれたら嬉しいわ。……もう一度だけ……抱きしめてもよろしいかしら?」
「はい! これからのご挨拶は“ハグ”にしましょうね」
僕はウインクを交えて返した。月子さんは一瞬驚いたような顔を見せたが、次の瞬間、涙を浮かべながら僕の胸元にそっと顔を埋めてきた。僕はその身体をしっかりと受け止めた。
血の繋がりはなくとも、父が深く愛した娘・月子さんとの“家族の抱擁”は、言葉にならないほど温かく、心に深く刻まれるものだった。
~~~~
月子さん宅を後にした僕たちは、奈月、美月、北川さんと共に、先日の大会の祝勝会が行われるヨッシー宅へと向かった。
なお、月子さんと葉月さんも祝勝会に出席する予定で、別途タクシーで向かうとのことだった。
僕たちは一度自宅マンションに立ち寄り、愛理と朱里をピックアップする。
玄関を出ると、愛理が笑顔で近寄り、僕にぎゅっと抱きついてきた。
「天馬さ〜ん、今日もよろしくね♪」
最近の愛理は、以前にも増して甘えん坊になってきた気がする。そんな愛理を見て、奈月と美月は呆れたような顔で肩をすくめていた。
愛理は手土産としてワインとビールを朱里に持たせていて、その心配りには毎度ながら感心する。ちなみに、愛理はヨッシーとは仕事を通じて顔見知りだが、零士さんとは今回が初対面。朱里は幼い頃から零士さんと面識があるとのことだった。
北川さんの運転するワゴン車に、僕と5人の妻たちが乗り込む。僕らの前後には護衛車が付き、計10名の護衛が随行する。4月いっぱいまでは愛理を除く妻たちにも個別に護衛がついているため、移動のたびに小規模な“行列”のようになってしまうのは仕方ない。
~~~~
お昼頃にヨッシー宅――大舘真人(芸名・高木良明)の邸宅に到着した。
ゲートの厳重なセキュリティーを通過すると、広大な庭先ではすでにバーベキューが始まっており炭火の香りが漂っていた。
車を降りると、真っ先にクリスが駆け寄ってきた。
「天馬、おかえりなさい」
新年度の「長距離・駅伝部」の打ち合わせのため、僕は今日と明日はクリス宅(ヨッシー宅)に宿泊する。「おかえりなさい」という言葉に少し戸惑いつつも、僕は笑顔で返した。
「ただいま〜」
そのまま自然にハグを交わす。クリスは次に愛理の方へ向き直った。
「愛理さん……いろいろ大変でしたね。私にできることがあれば、何でも相談してくださいね」
「ありがとう」
愛理は柔らかく微笑み短く応えた。二人のやり取りを見て、僕は胸の奥がほんのり温かくなる。
庭の奥からはヨッシーと零士さんが、すでに缶ビール片手に上機嫌でやってきた。
「おぉ〜! 天馬~! 世界記録更新おめでとう! ……いやぁ~零士も一緒だし、つい先に始めてしまった!」
ヨッシーは零士さんの肩に腕を回し笑いながら言う。零士さんもにやりと笑い、僕に手を差し出した。
「堅苦しい挨拶は抜きだ。まずは一杯やろう!」
差し出された缶ビールを受け取りつつ、僕は初対面の愛理を零士さんに紹介する。零士さんはほろ酔いながらも、真摯に挨拶を交わした。
愛理はその後ヨッシーに挨拶し、さりげなく手土産を差し出す。ヨッシーは丁寧に受け取り、ふと美月に気付いて声を上げた。
「おや……みっちゃんか? すっかり大人の女性になったな! それと……遅ればせながら結婚おめでとう!」
美月は頬を赤らめ、照れながら礼を述べた。
やがて月子さんと葉月さんも到着。ヨッシーが大声で乾杯の音頭を取りバーベキューという名の大宴会が始まった。
残念ながら、義妹のリリカと優君は試合で不参加だったが、新たにヨッシーの妻である第四夫人と第五夫人、そしてその娘たち(第四・第五夫人の子)の紹介が続いた。ヨッシーは「娘たちを将来的に……」と冗談交じりに語ったが、僕は五人の妻で手一杯の現状を理由に、苦笑しつつやんわりと躱した。
零士さんも同じ様に第二夫人と第三・第四夫人、そしてその娘三人を新たに紹介してくれたが、こちらも同様にやんわりとかわす対応をした。
なお、ヨッシーの第三夫人・大舘さおりさんは東相大学の理事長という立場ゆえ、このような私的な宴席への参加は難しいらしい。こればかりは致し方ない。
炭火で焼かれる肉や魚介の香ばしい匂いの中、笑い声が絶えず宴は熱を帯びていった。
ヨッシーはビールを掲げ、僕の肩をがっしり掴む。
「天馬! こうして皆で集まるのは初めてだろう? また近いうちにやろうじゃないか!」
零士さんも背中を豪快に叩き、笑う。
「そうだ! 天馬君を通じて、真人とは義兄弟になったんだ。親友であり親戚でもある、これほど嬉しいことはない!」
僕は奈月や美月、クリスとの婚姻を通じて、零士さんとヨッシーが正式に「縁戚」となったことを思い、二人の喜びように胸が温かくなった。
その最中、クリスがふと真剣な顔で耳元に囁く。
「天馬……今夜、話したいことがあるの。駅伝部のことだけじゃない……とても大事な話なの」
僕は小さく頷いた。クリスの表情には、ただの部活の相談とは違う気配が漂っていた。
~~~~~
夕方、祝勝会を兼ねた大宴会は幕を閉じた。
妻たちや月子さん、葉月さん、零士さんも帰路につき、愛理は何度も僕を抱きしめては離れがたそうに朱里に引き剝がされる――その繰り返しだった。
すっかり静かになった屋敷で、僕はクリスの部屋に入り、新年度からの「長距離・駅伝部」について打ち合わせを始めた。
4月1日付けで、陸上部は「短・中距離部」「競技部」「投擲部」「長距離・駅伝部」の四つに正式に分かれた。実績を残した短・中距離部に予算の大半が割り振られ、実績のない長距離・駅伝部にはわずかな額しか回ってこない。
だが、僕がスポンサーから得た収入の半分を寄付したことで、潤沢な環境が整った。ユニフォーム、遠征費、合宿費、寮費――すべて十分に賄える。さらに「㈱ミナーヴァ」からはカーボンシューズが提供される予定となっていて、選手たちは最高の条件でトレーニングができる。
クリスは僕の正面に座ると、深々と頭を下げた。
「天馬……本当にありがとう! これで選手たちに良い環境を整えられる……感謝してもしきれないわ」
「クリス、頭を上げて。僕は走ることが好きなだけだ。お金の使い道があるなら、それを有効に使って選手を育てていこう」
クリスは涙を浮かべながら僕に抱きつき、しばらくそのまま離れなかった。落ち着きを取り戻すと、真剣な表情で話し始める。
「新しく入部してくれたのは10人。まだ県大会レベルがほとんどだけど、1人だけインターハイで入賞経験のある選手がいるの……」
クリスの瞳には、期待と決意の光が宿っていた。
僕はその熱に応えるように、力強く頷き改めて真剣な打ち合わせをする。
中心となるのはクリスだ。研究員(東相大学スポーツ科学部)としての立場と長距離・駅伝部の監督としての責任から、今年度の部の方向性や、新戦力の編成について細かく説明してくれる。
「天馬の計画から……特に駅伝は……ここからの二ヶ月が勝負だと思うの。夏場に入ると調整が難しいから、今のうちに土台を作りたいの!」
クリスは手元の資料を広げながら語り、僕もコーチとして意見を述べた。次の駅伝シーズンを見据え、選手たちの練習方針、栄養管理、メディア対応まで話題は多岐に及んだ。
打ち合わせを終え、ほっと息をついたその時だった。クリスは紅潮した表情で一瞬言葉を探すように黙り込み、やがて真剣な眼差しを僕に向けてきた。
「ねえ、天馬……少し話したいことがあるの」
「ん? 改まってどうしたの?」
彼女は一呼吸おいてから、真っ直ぐに僕の目を見据える。その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
「……私……あなたとの子どもが欲しいの」
クリスの言葉には、母になりたいという切実な願いが込められていた。その言葉に、僕は心臓が一瞬大きく跳ねた。思わず言葉を失いかけたが、彼女の真剣さに押されて、僕は黙って耳を傾ける。
「私は今まで監督として、そして一人の女性として生きてきた。だけど……あなたと出会ってから、自分の中に新しい感情が芽生えたの。あなたとなら、きっと素晴らしい子どもを育てられるって確信があるの」
クリスは言葉を選びながら、しかし一切の迷いなく続けた。
「もちろん、あなたには奈月さんや朱里さん、そして美月さんに愛理さんもいる。私のわがままかもしれない! あなたに負担を強いることになるかもしれない! でもね……どうしても“母親”として、あなたの血を引く子を抱きたいの!あなたの走りや強さ、そして優しさを受け継いだ子を……」
僕は胸の奥に熱いものを感じながら、少し俯いて考えた。
クリスは監督であり、大学の研究員でもある。選手を預かる身でもあり責任もあるが、そこは僕がフォローすれば特に問題はない。研究員としての仕事は、6月には落ち着くと聞いた。
何よりもクリスがそう強く願ってくれること自体が、僕には嬉しくもあった。
「分かった……僕も、その願いを受け入れるよ。クリスがそこまで強く望むなら、僕も応えたい。僕も……君との子どもを見てみたい」
クリスの瞳が潤み、次の瞬間、彼女は小さく息を呑んでから笑顔を見せた。
「……ありがとう、天馬。本当に、ありがとう」
彼女は僕の胸に身体を預けた。僕はそっと背中に手を廻して抱きしめた。クリスも僕を抱きしめる。その体から伝わる温もりに、僕はこれから背負う新たな責任と、確かに芽生えつつある未来への期待を感じていた。
【あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これにて第4章は完結です。




