第21話 『スプリングトラックゲームス 2018』
3月25日㈰
ついに『スプリングトラックゲームス2018』のレース当日を迎えた。この世界に転移してから初めての公式レース出走となる。
早朝6時に起床し、キッチンへ向かうと、すでに愛理が朝ごはんの支度をしていた。昨夜、愛理は僕の自宅に泊まったのだ。
この世界の制度では、同居は第二夫人までと定められているが、それ以外の側妻が宿泊することも一定の条件下では許可されている。
ただし、男性保護庁への連絡、若しくは事前の届け出が必要で、宿泊日数は年間30日まで、連泊は最長5日間までと法律で細かく規定されている。この規定を違反した場合、男性側には厳しいペナルティが課されるらしいが……その詳細はあえて聞かない方が良さそうだ。
テーブルには既に全員分の朝食が用意されていた。それだけでなく、愛理は昼のお弁当まで作ってくれていた。テーブルの上に整然と並ぶお弁当箱の数は、ざっと20個ほどありそうだ。
起きて来た僕に愛理は爽やかな笑顔で挨拶をする。
「あっ! おはよう、天馬さん。キッチン借りてるね」
「おはよう! お弁当まで……本当にありがとう」
僕は驚きと感謝の気持ちを込めて声をかけた後、愛理に軽くキスをし、お腹の子にも「おはよう」と挨拶をする。愛理は幸せそうに微笑んだ。
ほどなくして、奈月と朱里も眠そうな顔でリビングに降りてきた。二人に「おはよう」と声をかけ、それぞれにキスを交わす。奈月のお腹の子にも、そっと声をかけた。
朝食を終えた後、家族全員で準備を進めた。愛理の作ったお弁当は朱里がレンタカー(ワゴン車)に積み込み、僕は試合用のミナーヴァから提供された試作シューズと試作ウェア、その他の必要品を再確認した。
家族総出での協力は心強く、何より皆が僕のレースを楽しみにしてくれているのが嬉しかった。
美月は、零士さん、葉月さん、月子さんと共に会場へ向かい、クリスは部員達と合流することになっている。
午前8時、北川さんが迎えに来てくれた。
「おはようございます、天馬さん。旦那様方、今日もよろしくお願い致します」
彼女はいつになく柔らかい表情を浮かべていた。今日はスカートスーツではなくジャージ姿で、普段の印象とは大きく違う。さらに首にはスタッフカードを掛けている。護衛二人も同じようにスタッフカードを付けており、特別な体制であることが窺える。
奈月、朱里、愛理と共にレンタカー(ワゴン車)に乗り込み、北川さんの運転で自宅を出発。スタジアムへ向かう車内は、緊張感は特になく、終始和やかな空気に包まれていた。奈月と朱里は途中で応援グッズを確認しながら笑い合い、愛理は僕の横で静かに手を握ってくれた。
今日は快晴でほぼ無風状態、絶好のコンディション。ローカルな大会であるにも関わらず、皆の応援はとても嬉しいし、僕のモチベーションも高まる。
~~~~~
スタジアムに到着すると、すでに競技が開始され、多くの観客や選手たちで賑わっていた。華やかな会場の雰囲気に、自然と気持ちが高ぶる。
会場内を見回すと、観客席は9割程埋まっていて、少ないながらも男性の姿も見える。
テレビ中継はなく、新聞や専門誌の記者とカメラマン(ウーマンかな)の姿が散見される。男性が出場することは事前に知らされていた様で、僕の姿を見かけると、一様にカメラを向けてきたが、北川さんと護衛が遮ってくれたお陰で、直撃取材は免れた。
北川さんが事前に確保してくれた観客席には、既に僕の家族や親しい方達が約40人ほどが集まっていた。
美月、零士さん、葉月さん、月子さん、ヨッシー、優美さん、ミアさん、クリス、それに部員たちもいる。リリカと優君は練習試合のために来られなかったが、心の中で応援してくれているだろう。
因みにヨッシーと優美さんミアさんは、しっかりと変装しており、隣りには私服姿の吉野さんがいる。周りには4人の護衛(女性)がガードし、更に4人の護衛が遠巻きで監視もしているそうだ。
ローカルな大会であるにも関わらず、皆の応援はとても嬉しいし、僕のモチベーションも高まる。
応援席に向かい、皆に挨拶を済ませたあと受付を済ませ、北川さんと護衛を伴い男性選手専用のロッカールームへ向かった。
ロッカールーム前には警備員(勿論、女性である)が配置されていて物々しい雰囲気である。
5000m走の参加人数は60名。20名ずつ3組に分かれてレースが行われる。
予選はなく一発勝負で、タイムによって順位が決定するシステムとなっている。
出場する選手は僕以外は全て女性だ。
僕は3組目でスタートは11時20分の予定だ。ゆっくりウォーミングアップを進める時間は十分にある。
着替えを済ませ、ユニフォームの上からウィンドブレーカーを着用し、10時に北川さんと護衛を伴いサブトラックへ移動。そこではシューズ開発責任者の木村さんとスタッフが待っていた。
木村さんと開発スタッフの方たちは、スタッフカードを首に掛けていた。
「こんにちは、木村さん。遠いところまでありがとうございます」
「こっ……こんにちは! 天馬さんの走る姿を動画で撮影し、フォームのデータを取らせていただきます。頑張ってくださいね!」
木村さんらは、僕のレース中のデータを細かく分析するために来てくれていた。僕がアップ時からレースまでの動画をあらゆる角度から撮影し、データを収集するそうだ。
陸上競技では大会のほうが最大限の能力を発揮しやすいため、練習時よりも正確なデータが取れる。木村さんは、その点を考慮して今回のレースを分析対象に選んだのだ。
挨拶を交わした後、動的ストレッチから軽いアップを始める。すでに多くの選手がサブトラックでウォーミングアップをしていたが、僕を見るなり驚いた表情を浮かべていた。
当然のことながら、女性ばかりである。
サブトラックの8レーンを使い、20分かけてゆっくりジョグをしながら体を温める。その後、200mを32秒でのダッシュを3本実施し、ランドリルで全身をほぐした。
10時50分、予定していたアップを終えて仕上がる。隣の競技場へと移動し、ウインドブレーカーを脱いでベンチコートを羽織り、11時の選手コール(点呼)を待つ。
選手コールの時間になると、スタッフが胸元のアスリートビブス、右側のお尻に貼り付けたナンバーカード、そしてシューズをチェックする。シューズはミナーヴァの試作品だったが、特に問題はなかった。スタッフはスパイクシューズではないことに驚いた様子だったが、規定違反ではないため問題なくコールを終えた。
(注意:トラック競技では厚底シューズは2020年に禁止となりました)
スタートまであと10分弱、僕はいつものルーティンを行う。
両膝をつき、両手を地面につけ、土下座をするような姿勢で一礼し、最後に唇を競技場に触れさせる。競技場への敬意を表し、サポートしてくれた人々への感謝を込めた儀式だ。そして目を瞑り、深くゆっくりと呼吸を整え、静かに目を開ける。
次の瞬間、周囲の喧騒が消え心が研ぎ澄まされる。僕は完全にゾーンに入った。
観客席からはざわめきが消え静寂が広がる。僕の表情を見た人々が、何かを感じ取ったのかもしれない。
いよいよ僕の組のスタートとなり、ベンチコートを脱いでスタートラインに立つ。ユニフォームはセパレートタイプで、トップは胸元までの赤色ノースリーブ(肩甲骨が露わになるデザイン)に、黒のローライズのショートタイツだ。
胸元には「ミナーヴァ」と「沖ホールディングス」のロゴが入っている。
観客も選手も、僕のユニフォーム姿に釘付けになっていた。特にスタートラインに立つ選手たちは、僕をガン見状態であった。
スタートラインに立つと、選手たちのピりついた雰囲気が漂って来る。僕はこの雰囲気がとても好きであり、高揚感が一気に押し寄せてきた。
観客席を見上げると、奈月、朱里、愛理、美月、クリスの姿がすぐに目に入る。5人とも手を振り、笑顔で声援を送ってくれていた。妻たちの存在が、僕にとってどれほど大きな力になっているのか、改めて実感する。
心の中で、そっとつぶやく。
「すべてはここから始まる! この世界で、新たな歴史を作るんだ!」
スタートの号砲が鳴る。と同時に一斉に走り出す選手たち。僕一人が先頭になって飛び出すが、僕のペースには誰も付いてこれない。
最初の1周は65秒と突っ込み過ぎずに設定したペースで進む。2周目も同じラップタイムを刻み、入りの1kmは2分44秒と、僅か3周目で早々と設定ペースとなり安定する。
テンポよく走れていて、腕もよく振れている!
地面からの反発力も、しっかりと推進力に変換できている!
正に“絶好調だ!”
そのまま設定ペースで進み、7周目を迎えるころには全員周回遅れにしていく。
抜かれた選手らは、僕の走りに驚いている様だ。
観客席は静まり返り、妻たちの声援さえも遠くに感じるほど、僕は完全にゾーンに入り集中していた。
3000m地点で8分12秒。
ラスト5周、残り2km。このままのペースを維持すれば、13分40秒のタイムが出る。
心臓の鼓動はピークに達し、呼吸は荒くなり吐く息は生臭い。すでに無酸素状態で、スパートをかける余裕は残っていない。ただ、全力でペースを維持することに集中する。
ラスト一周を告げる鐘が鳴る! 心拍数は極限まで上がり、心臓が口から飛び出そうでとてもキツい! 腕を大きく振ることを意識し、最後の気力を振り絞る!
そして、そのままのペースを保ち、渾身のガッツポーズと共に満面の笑みでゴールテープを切った。
時計は13分40秒を記録し、この世界の5000m走における世界記録を達成した瞬間だった。
ゴールした瞬間、スタジアムは静寂に包まれる。数秒の沈黙の後——観客席が割れんばかりの歓声に包まれた。
「す、すごい……」「世界記録だ!?」「お……おとこが?!」「男がここまで速いなんて……!」「美しい!!」「エロい体!」
歓声の渦に包まれたスタジアムにて、僕はウイニングランをしながら、観客らに手を振る。
1分以上遅れて続々とゴールする選手たちも僕の記録に呆然としている。
ウイニングランを終え、ゼッケンを握りしめながら息を整え、観客席を見上げると、そこには涙を浮かべながら僕を見つめる妻たちの姿があった。
僕はゆっくりと妻たちのもとへ駆け寄る。そして、奈月、朱里、愛理、美月、クリス——一人ずつ抱きしめて喜びを分かち合った。
彼女たちの温もりが、今になって実感される。
「お疲れ様でした」
奈月は涙を流しながら僕を労う。
「ダーリン、本当にすごい……!」
朱里も涙を流しながら僕を労った。
「おめでとう! 世界が、あなたの走りを見たわよ!」
クリスは尊敬の眼差しを向けていた。
美月と愛理は何も言わずに涙を流しながら僕を抱きしめてくれた。
涙ぐむ妻たちを前に、僕は笑みを浮かべながら小さく頷いた。
そして……僕は何故か? 北川さんも妻以上に強く抱きしめていた!
「あっ……! おっ…お疲れ様です……ごちそうさまです」
気付けば、北川さんはフリーズしていた。
観客席を見回すと、割れんばかりの歓声と熱気の渦に包まれていた。
感動のあまり涙を流す者、世界新記録に立ち会えたこと、その記録を更新したのが男性であること、観客らは驚きと共に熱狂している様だ。
僕としてはPB(自己ベスト)に及ばないタイムではあったが、取り敢えず世界記録を更新したことに安堵する。と同時に、久々の大会で走れたことに嬉しさが込み上げる。
だが、このレースでの記録は僕にとっては単なるステップでしかないし、スタートに過ぎない!
今後はフルマラソンへ向けてトレーニングを積み重ね、この世界でオリンピックの金メダルを目指して、更なるステップアップを積み重ねていくとしよう。
ゴールまでの道のりは長いが、心は確信していた。
このレースの先に、必ず新しい未来が待っていると――。
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応援してくれた皆がいる観客席の前でゴールの余韻に浸っていると、大会役員の腕章を付けた中年女性が、もう一人の女性を伴ってこちらへと歩み寄ってきた。
「とても素晴らしいです! この場で世界新記録に立ち会えるなんて、まるで夢のようです! しかも……男性が!」
大会役員の女性は驚きと興奮に満ちた表情で声を弾ませていたが、その後ろに控えるもう一人の女性は無表情だった。これは間違いなく、アレをするために来たのだろう。僕は淡々とした口調で応えた。
「ありがとうございます……。あの、ご要件はドーピング検査ですか? どちらで実施しましょうか?」
僕の言葉に、大会役員と検査官と目される女性は目を見開いて驚いたようだった。
「もっ…申し遅れましたが、東京陸連競技委員会の大野です。こちらはドーピング検査員の石田です。大変申し訳ないのですが……規則ですので、ご理解ください……石田が実施致しますが、すぐに検査させて下さい!」
大会役員と検査員が資格証と身分証を僕に見せた。僕が世界新を更新した以上、ドーピング検査は必須となる。ローカルな大会ではあるが、短距離種目に有力選手が数名出場していたこともあり、ドーピングの検査員が派遣されていたのだろう。
競技終了後のドーピング検査は速やかに行われるのが原則だ。しかし、検査員が女性であることに多少の抵抗感がある。この世界の貞操観念を考えれば、彼女が問題を起こさないとは限らない。
そう思った矢先、北川さんが間に入った。
「ちょっと待ってください! 例え検査とはいえ、密室で二人きりにさせるわけにはいきません! 万が一のことがないとは言い切れませんからね! 親族側から二人を立ち会わせますが、よろしいですね!」
北川さんは「男性保護庁」の身分証を見せながら、強い口調で大会役員と検査員に迫る。すると、検査員は北川さんと身分証を交互に見て驚き、その圧力に気圧されたように身を引いた。
「とっ……当然です。親族の方二人の立ち会いを許可します」
検査員の許可が下りたので、僕は迷わず美月と何故か?北川さんを立ち会わせることにした。
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多目的トイレ内にて検査は無事に終了した。
しかし、問題があるとすれば――採尿中に美月以外の女性たち、つまり検査員と北川さんが、驚きとともに顔を赤らめ、完全にフリーズしていたことだ。
特に北川さんは、瞬きせずに刺すような目でガン見しては口元から涎を垂らし、情けない表情をしていた。
「……こんな状態で、検査の信頼性は大丈夫なのか?」
思わず疑問が頭をよぎったが、ともあれ、僕がクリーンであることは証明された。
検査を終えて控室に戻ると、美月が小さく笑いながら話しかけてきた。
「お疲れ様。検査員の人、完全に固まってたわね。あれでちゃんとデータ取れてるのかしら?」
「さあ?……でも、まあ結果が出れば問題ないでしょう」
タオルで汗を拭きながら答えると、北川さんも戻ってきた。先ほどの乱れた表情はすっかり消え、いつもの冷静な表情に戻っている。だが、顔が紅く僕の股間の辺りをチラ見したりと、どこかぎこちない。
「検査結果は後日正式に発表されますが、天馬さんがクリーンであることは間違いないでしょう。……それより、次の対応について話したいのですが」
「次?」
僕は怪訝な表情で応える。
「天馬さんの記録について、陸連関係者が直接話をしたいと言っております。おそらく、このまま次の大会へ出場の話も出るでしょう」
「なるほど……」
やはり、こうなるか。
ただのローカル大会で終わるとは思っていなかったが、正式な記録として認められれば、日本陸連、あるいはWA(世界陸連)からの注目は避けられない。
メジャーな大会への出場の打診であろうか?取り敢えず話しを聞くとしよう。




