第九章 もう一枚の控え
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
町役場に残っていた控えは、古い警報盤の裏から見つかった。
保管庫の箱に入れられていたのではない。前田征司がかつて使っていた記録館から、役場へ移された書類の束に紛れ込んでいたものらしい。
紙は二つ折りで、内側に薄い鉛筆書きが残っている。
曽根は発見時の状況を確認してから、手袋を着けた担当者に指示し、机の上に控えを広げさせた。
「表紙には、前田さんの署名があります」
夏目が言った。
「これは、どこで見つかったんですか」
「古い警報盤の裏です。記録館から移したとき、誰かが挟んだのでしょう」
「いつ移したんですか」
「記録館を町に引き継いだときです」
「誰が運んだ?」
夏目は、すぐに答えなかった。
「私も手伝いました。ほかにも何人か」
曽根は、控えの最初のページに目を通した。
記録は三つの欄に分かれていた。観測値、電話連絡、警報操作。公文書の台帳より細かく、誰がいつ何をしたかを記すための帳面だったらしい。
二時十一分の欄に、前田の署名がある。
潮位、警戒線を越える。町へ連絡。
二時十二分には、電話を受けた人物の名が記されていた。
姓は夏目。名前は、紙の折り目に重なって読みにくくなっている。
その下に、短い一文があった。
待て。次の確認まで鐘は鳴らすな。
二時十七分の欄には、冬子の署名とともに「鐘、二度」とある。
「この控えには、二時十一分に警戒線を越えたと書いてあります」
澪が言った。
「そのあと、夏目姓の人が『待て』と指示している」
曽根は担当者に指示し、紙の折り目を慎重に広げさせた。
隠れていた名前が現れる。
当直責任者、夏目重蔵。
夏目は、その名を見つめたまま動かなかった。
「あなたのお父さんですか」
曽根が尋ねた。
「そうです」
「この指示を、聞いたことがありますか」
「いいえ」
「前田さんは、この控えを知っていた?」
「分かりません」
「昨日、前田さんが『正しい時刻を出せる』と言ったのを、聞いていますね」
「聞きました」
「あなたのお父さんの指示が、記録から消えていたとしたら?」
夏目は椅子を引き、腰を下ろした。
「父は、当時の担当者です。記録に名前が残っていても、驚きません」
「けれど、町の台帳にはありませんでした」
「台帳は、何度も書き写されています。抜けた名前があっても、私のせいではない」
「誰も、あなたのせいだとは言っていません」
曽根は声を変えなかった。
夏目は、控えの隅を見ていた。
そこには、印の跡がある。署名の近くに押されたはずの印は、紙の繊維だけをへこませて、朱肉の色は残していなかった。
「この『待て』は、お父さんの字ですか」
澪が聞いた。
「知りません。父の字を、そんなに覚えていない」
「この記録を見たことは?」
「初めてです」
「では、どうして、控えに何が書いてあるか分かったのですか」
「分かっていません」
夏目は顔を上げた。
「さっき、町の台帳にはないと言った。そこから考えただけです」
曽根は、返事をしなかった。
控えの表裏を写真に撮らせ、紙の状態を確かめる。
鉛筆の線は、強く書かれていた。二つ折りにした内側には、文字の筆圧が移った跡がある。
澪は、乾燥室で見つかった観測紙に残っていた「待て」の文字を思い出した。
「昨夜の記録紙にも、同じ言葉がありました」
夏目が、目を細めた。
「同じ言葉?」
「潮位計の紙に、消された跡が残っていました。鉛筆で『待て』と」
「それは、誰の字か分かるんですか」
「まだです」
「なら、父と結びつける理由はありません」
「私は、同じ言葉があったと言っただけです」
澪はそう返した。
夏目は答えなかった。
曽根は控えを証拠品として保管させた。
「二時十一分に警戒線を越えた。二時十二分に『待て』の指示。二時十七分に鐘が二度鳴った。これが事実なら、町の正式な記録には、その六分間の経緯が十分に残されていない」
「隠したのは父かもしれません」
夏目は言った。
「あるいは、父を守るために、後の誰かが書き換えたのかもしれません」
部屋を出たあと、澪は曽根に尋ねた。
「夏目さんは、お父さんをかばっているんでしょうか」
「そうかもしれません」
「あるいは、何か知っている?」
「それも、まだ分かりません」
記録館へ戻るころには、潮が十分に引き、島と本土を結ぶ黒い道が現れていた。
澪は、自分の靴底を見た。白い塩が、溝に残っていた。
「昨夜、乾燥室の前にあった足跡」
彼女は言った。
「あれは、道を渡ってきた人の靴底と比べられますか」
曽根は、歩みを止めた。
「できます。靴底に残った塩分や泥と、記録館の床に残された成分を比較することはできます。ただ、それだけで誰が歩いたかまでは断定できません」
澪は、足元の白い塩を見つめた。
記録館の扉の前にあった、ひとつきりの濡れた足跡。
あれは、本当に、部屋へ入った人間のものだったのだろうか。




