第八章 消えた観測紙
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
記録館へ戻ると、曽根は立ち会いの警察官に指示し、乾燥室の封印を解かせた。部屋を詳しく調べるのは、前田が亡くなってから三度目だった。
澪は、壁に取り付けられた金属製の潮位板の前に立った。潮位を示す目盛りの一番上だけ、白い塗料が新しい。表面の端がわずかに浮いている。
「この下を調べてもいいですか」
曽根は潮位板を撮影してから、うなずいた。
「こちらで確認します」
曽根は鑑識担当者に指示し、浮いた塗料の端を慎重に調べさせた。
細いヘラを差し込むと、塗料が薄くめくれた。その下から、古い黒い線が現れる。新しい白線より、指一本ぶんほど上だった。
黒瀬が近づいた。
「前田さんが上から塗ったんでしょう」
「いつですか」
「分かりません。先月、ここを通ったときは、もう白くなっていました」
「古い線を隠すために?」
「ただの目盛りです。塗り直しただけかもしれない」
黒瀬は、線を見たまま動かなかった。
曽根は、古い線と新しい線を別々に撮影した。それから、乾燥室に残された潮位計の記録紙を取り付ける部分を調べた。
紙送りの軸には、切れた紙の端が少しだけ残っている。紙は引き抜かれたのではなく、刃物で切られたようにまっすぐだった。
「昨夜の記録紙は、ここから外したんですか」
曽根が尋ねた。
黒瀬は軸を覗いた。
「機械が記録した紙なら、ここから巻き取ります」
「ほかにも記録紙が残っていた可能性は?」
「前田さんが別に保管していたかもしれません」
澪は、古い潮位記録の箱が置かれていた床の擦り跡を思い出した。
箱は今も同じ場所にある。だが、箱の裏側と壁の間には、指が入るほどの隙間があった。
「箱の後ろを確認してもらえますか」
曽根がうなずき、鑑識担当者が箱の位置を撮影した。
慎重に箱をずらすと、裏側に薄い封筒が落ちていた。
封筒の表には、日付も宛名もない。
曽根は封筒を撮影し、手袋を着けた鑑識担当者に中身を確認させた。
中には、細長い観測紙が一枚入っていた。
紙の端は切り口がまっすぐで、記録線は途中から急に折れ曲がっている。
青い線のそばに、鉛筆で時刻が二つ記されていた。
2:11
2:17
二つの時刻の間には、短い縦線が引かれている。何かの境目を示したようだった。
「これが、三十六年前のものなら……」
澪は言いかけて、言葉を止めた。
紙は古びているが、他の観測紙と同じ程度の変色だった。年月を特定できる印は見つからない。
曽根は封筒も紙も別々に撮影した。
「紙の出どころを調べます。書いた人も、筆跡を照合する」
「前田さんが隠したんでしょうか」
理花が聞いた。
「そうかもしれません」
「隠したのなら、なぜあの箱の後ろに?」
「見つけてほしかったのか、見つからないようにしたかったのか。置いた人に聞かないと分かりません」
理花は、透明な保護シート越しに封筒の折り目を見た。紙の端に、消えかけた青い点がある。
「この点は、役場の伝票にあったものと似ています」
夏目が眉を寄せた。
「それだけで、役場の紙とは決められません」
「決めていません。似ていると言っただけです」
理花は、彼の目を見た。
曽根は観測紙を証拠袋に収めた。
紙の上の鉛筆の時刻は、前田の記録簿にあった二時十七分と同じだった。
ただ、二時十一分には丸がつけられ、二時十七分には横線が引かれている。
「この線は、潮位の変化を示しているんですか」
澪が黒瀬に聞いた。
「急に折れ曲がった青い線は、潮位計の針が跳ねた跡かもしれません。機械が古いと、紙送りが乱れることがあります」
「時刻を書いたのは誰ですか」
「分かりません」
「黒瀬さんは、こういう書き方をしますか」
「しません」
曽根は、記録紙を見つけた位置を記録した。封筒が箱の後ろにあったことも、箱の置かれ方も。
澪は、白い塗料の下から出た黒線をもう一度見た。
高いところに残る古い線と、少し低い新しい線。
数センチの違いでも、潮の記録には意味があるのかもしれない。
前田は、なぜ目盛りを塗り直したのか。
そして、誰が二時十一分と二時十七分を並べたのか。
曽根が乾燥室の封印を貼り直していると、廊下から電話の呼び出し音が聞こえた。
夏目が受話器を取る。短く話し、澪たちを見た。
「役場からです。三十六年前の当直記録に、もう一枚、別の控えがあったそうです」
「何が書いてあるんですか」
「まだ確認中だそうですが……表紙に、前田さんの署名があると言っています」
曽根は、封筒の入った証拠袋を手に取った。
「その控えを、今すぐ見せてもらいましょう」




