第七章 紙の切れ端
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
時計を止めていた紙片は、観測簿から切り取られたものではない可能性が高かった。
理花は、封を開けずに袋越しに紙の色や表面を確かめた。表面にはごく細かな凹凸があり、端には青い点が見える。
「記録館の用紙とは違うように見えます」
「分かるんですか」
澪が尋ねると、理花はうなずいた。
「観測簿に使う紙は、ここにあるものと違います。こっちは、役場で使う伝票に似ています」
夏目が顔を上げた。
「似ているだけなら、どこでも手に入るでしょう」
「そうですね。紙だけでは、誰が持っていたかまでは分かりません」
理花はそれ以上言わなかった。曽根も、夏目を見なかった。
澪は、紙片の青い点をじっと見た。観測簿の隅にも、小さな青い印があった。前田が資料を整理するとき、分類の目印に使っていたらしい。紙片の点とは形が違う。
「この青い点は、何の印ですか」
「伝票を束ねたときに付く印じゃないでしょうか」
夏目が言った。
「役場の用紙に、こういう点があるんですか」
「古いものには。紙を数えるための印刷かもしれません」
彼は説明を終えると、記録館を出ていった。曽根は引き止めなかった。
翌日の昼前、潮が十分に引いたのを確認してから、澪と曽根は島と本土を結ぶ道を歩いた。
足元には浅い水が残り、岩の上に白い線が連なっている。満潮時に海水が届いた位置を示しているようだった。
澪は、記録館の壁にあった金属板を思い出した。いちばん上の目盛りだけ、塗料が新しかった。
「前田さんは、あれを塗り直したんでしょうか」
「本人に聞けなくなりました」
曽根は足を止め、岩場の白い跡を見た。
「昨夜、道を渡った人がいるなら、靴底に塩分や泥が残っているかもしれません。足跡の水だけでなく、靴そのものも調べる必要があります」
町役場の保管庫は、庁舎の古い棟にあった。
夏目が扉を開け、三十六年前の当直記録を出した。表紙には、電話や警報の記録をまとめたと書かれている。
最初のページには、役場から記録館へ電話した時刻が記されていた。
二時十七分。
次に、警報の鐘を鳴らした時刻がある。
二時十七分。
「同じ時刻ですね」
澪が言った。
「当時の記録係が、まとめて書いたのかもしれません」
夏目は、指をページの端にかけた。
曽根がその手を止めた。
「触らずに、続けてください」
夏目は手を引っ込めた。
鐘を鳴らした時刻の下には、備考欄がある。
そこには、鉛筆で小さく「二度」と記されていた。さらにその横に、別の筆跡で短い線が引かれている。消そうとしたようにも、単に文字を区切ったようにも見えた。
「冬子さんの話と合いますね」
「はい」
「二度目の鐘についても、記録が残っていた」
曽根は、鉛筆の跡を写真に撮った。
「それなら、記録館の切り取られたページには、何が書いてあったんでしょう」
澪が尋ねると、夏目は答えた。
「役場の控えだけで全部が分かるとは限りません」
その言い方が、澪には気にかかった。
「何が足りないんですか」
「誰が最初に『待て』と言ったかです。電話の相手の名前は、どちらの記録にもない」
「その指示は、役場から出たんですか」
夏目は、今度もすぐには答えなかった。
「冬子さんは、そう聞いたと言っています」
「あなたは、違うと思う?」
「私は、当時そこにいません」
曽根は記録を閉じず、最後のページまで目を通した。
記録の末尾には、役場から記録館へ再び連絡した時刻が書かれていた。
二時三十一分。
最後に小さな字で、次の一文がある。
観測値、再確認。記録館に照会。
澪はその文字を見た。
「二時三十一分にも、記録館へ電話をしたんですか」
夏目がうなずいた。
「そのようです」
「前田さんは、その電話にも出た?」
「記録には、応答した人の名前がありません」
「そのとき、潮位はどうなっていたんでしょう」
夏目は、保管庫の奥にある別の箱を見た。箱には、高潮の日の観測紙が残されているはずだった。
けれど、箱は空だった。
「記録紙は、ここにはありません」
「移管したんですか」
「いいえ。記録館にあるはずです」
帰り道、曽根は役場の階段を下りながら言った。
「二時十一分の電話、二時十七分の鐘、二時三十一分の再確認。三つの時刻がある」
「その三つの出来事のうち、二時十七分だけが正式な記録として強調されている」
「誰が、何のために」
潮がまた満ち始めていた。先ほど二人が渡った道の白い線は、もう水に隠れかけている。
澪は、記録館へ戻ったら、壁の潮位板をもう一度調べようと思った。
塗り直された線が、どの高さを示しているのか。
その答えが、三十六年前の記録に繋がる気がした。




