第六章 止まった時計
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
曽根は、記録館の廊下に戻ると、二時十七分で止まった時計を壁から外した。
「これ、いつからここに?」
「前田さんが来たころからです」
黒瀬が答えた。
「中の機械は?」
「電池式です。何年か前に替えました。今は止まっていますが、それまでは動いていました」
曽根が裏蓋を開けると、電池は入ったままだった。端子に目立った錆はない。
「電池切れではなさそうですね」
澪が言った。
「まだ断定はできません」
曽根は、時計の針を動かさないよう注意しながら、内部を写真に撮った。
秒針の軸の近くに、薄い灰色の紙片が挟まっていた。紙は細く折られ、針の動きを妨げる位置にある。
理花が息をのんだ。
「紙で、わざと止めたんですか」
「その可能性があります」
曽根は紙片をピンセットで外し、証拠品用の袋に入れた。
小さな紙片には、青いインクの点がひとつ残っていた。
澪は観測簿を思い出した。濡れて波打っていたページ。数字を消した跡。円い輪染み。
「どの紙から切ったか、分かりますか」
「破れた端と比べれば、ある程度は分かるかもしれません」
理花は袋の中の紙片を見つめた。
「記録館の紙なら、私が分かることもあります」
「必要なら、あとで確認をお願いします。まずは鑑定に回します」
曽根は時計を箱にしまった。針は二時十七分のままだった。
時計の内部に異物が挟まっていたことは分かった。だが、それがいつ、誰によって入れられたのかは分からない。
澪は乾燥室の扉を見た。
室内からしか動かせない閂。外された形跡のない窓。扉の前に一つだけ残された濡れた足跡。
「時計は廊下にあるんですね」
「そうです」
「誰でも止められる」
曽根が言った。
黒瀬は腕を組んだ。
「止めた人間が、実際の時刻を知っていたとは限りません。針を合わせてから紙を挟めば、誰でも同じです」
「二時十七分を選んだ理由があるかもしれない」
夏目が言った。
「三十六年前の警報時刻だからですか」
夏目は答えなかった。
その日の午後、曽根は宿の時計も調べた。
古い振り子時計だった。振り子そのものは動いていたが、鐘を打つ機構の一部に不具合があった。
冬子は、以前から鐘の数が合わないと言っていた。音を鳴らす歯車に欠けがあり、針が指す時刻と鐘の音が一致しないことがあるという。
「昨夜、夏目さんは八時五十八分を見たと言いました」
澪は時計の裏を覗き込んだ。
「この時計が八分進んでいるなら、実際には八時五十分ごろです」
「本人の証言どおりなら、そうなります」
曽根は、帳面を開いた。
夏目が宿を出たのは、冬子が最後の電話を受ける前だったという。
電話の記録は九時十二分。ただし、その時刻が宿の時計を見て書かれたものなら、実際は九時四分ごろになる。
「冬子さんは、九時四分ごろには帳場にいた可能性が高い。夏目さんが出たのは、その前です」
「道が水につかる直前だったんですね」
「そう言っています。ただし、正確な潮位と通行可能だった時間を確認する必要があります」
曽根は帳面を閉じた。
「今のところ、時計だけでは誰の行動も証明できません」
夕方、町役場を通じて取り寄せた電話局の古い資料が記録館に届いた。
三十六年前の電話交換記録の複写だった。冬子が宿で見せた紙片と同じ形式で、より鮮明だった。
記録館から役場への通話は、二時十一分。
二時十七分の欄にも記録館と役場の名前が並んでいたが、詳しく見ると、こちらは役場から記録館への折り返しだった。
電話局の記録には、通話がつながった時刻と切れた時刻が別々に記されていた。
澪は、前田の観測簿の複写を並べた。
「これだと、二時十七分は役場からの電話が来た時刻です」
「冬子さんは、二時十七分に記録館から二度目の電話があったと言っていましたね」
曽根が言った。
「記憶違いでしょうか」
「まだ分かりません。電話の向きが逆になっている理由も調べる必要があります」
澪は数字を指で追った。
「でも、二時十一分に記録館から連絡があったことは確かなんですね」
「少なくとも、電話局の記録にはそう残っています」
「前田さんが消しかけたのは、二時十七分そのものじゃなくて、その前に書かれていた時刻かもしれません」
「二時十一分」
「そうです。二時十一分から二時十七分までの六分間に、何があったのか」
「避難を促す連絡が届いてから、正式な警報が記録されるまでの六分間」
曽根は複写を写真に撮った。
そのとき、黒瀬が記録室へ入ってきた。
「警部、乾燥室にあった記録紙を確認していただけますか」
曽根は黒瀬とともに乾燥室へ向かった。封印を管理していた警察官の立ち会いのもと、室内に残されていた潮位計の記録紙を確認する。
証拠品として取り出された紙は、記録室の机に広げられた。
「これが昨夜の分だと思います。前田さんが使っていた記録簿と、時刻を照合してください」
黒瀬が言った。
紙の上には、細い青線が波のように続いていた。最後の端は、途中で引きちぎられている。
端のそばには、小さな書き込みがあった。
2:17 連絡済
澪は、その文字の筆跡を見た。前田のものかどうかは、まだ分からない。
けれど「連絡済」の四文字の下に、鉛筆で書かれた別の文字が薄く残っていた。
消された文字は、短い一語だった。
待て。
曽根が記録紙を持ち上げた。
「誰が、誰に待てと言ったんでしょう」
澪は答えなかった。
窓の外では、夕方の潮がまた引き始めていた。
海面の向こうに、島と本土を結ぶ道が少しずつ現れてくる。
もし、その道を誰かが渡ったのなら。
時計の針が指す時刻より、潮がどこまで満ちていたかのほうが、確かな証拠になるかもしれなかった。




