↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮目の記録  作者: 白い愛
PR
5/24

第五章 二度目の鐘

登場人物




浅倉 澪あさくら・みお  古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。




前田征司まえだ・せいじ  元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。




前田理花まえだ・りか  征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。




黒瀬達也くろせ・たつや  島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。




夏目圭介なつめ・けいすけ  鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。




篠宮冬子しのみや・ふゆこ  島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。




曽根警部そね  島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。

冬子は、宿の帳場で曽根警部を待っていた。澪も一緒に座る。窓の外では、潮が石段を覆い、桟橋の杭だけが水面から出ていた。

「三十六年前、あなたは町役場で警報を担当していたそうですね」

曽根が言った。

「そうです」

冬子はためらわなかった。

「警報は二時十七分に出した、と記録されています」

「そう書いてあるね」

「実際は?」

冬子は帳場の引き出しを開け、古い鍵束をどけた。奥から、薄茶色の紙片を一枚取り出した。端が破れ、文字もところどころ薄れている。

「これは当時の電話交換記録。役場のものじゃない。電話局の控えを、母が持っていた」

紙には時刻と通話先が並んでいた。

二時十一分。記録館から町役場。

二時十七分。記録館から町役場。

「記録館からの最初の電話は、二時十一分に来ている」

澪は紙を見た。

「その電話で、何を言われたんですか」

「潮が予想より早く上がっている。避難を始めるべきだと」

「それで、すぐ鐘を鳴らした?」

冬子は一度、窓の外を見た。

「鳴らさなかった」

彼女の答えに、曽根はペンを止めた。

「なぜです」

「町役場から、少し待てと言われた。まだ水位が危険域を超えていない。鐘を鳴らせば、町が混乱する。そういう話だった」

「二時十七分まで待った?」

「二時十七分に、記録館からもう一度電話があった。今度は、すぐ逃げろと言った。私は鐘を鳴らした」

「何回ですか」

冬子は、膝の上に手を置いた。

「二度」

澪は、記録館のページに残った鉛筆の跡を思い出した。

「二度鳴らしたのは、合図の決まりですか」

「一度目は警報。二度目は、町の外れまで音が届くように、間を置いて鳴らした。鐘の音が聞こえない家があったから」

「記録には、その二度目が載っていません」

「記録には、二時十七分に一度鳴らした、とある」

「どうして二度目が消されたんでしょう」

「分からない。私が話したことは、当時の記録係に伝えた。書き留めたかどうかは知らない」

「記録係は、前田さんですか」

冬子はすぐに答えなかった。

「当時、記録館にいたのは前田さんだった」

「それなら、前田さんは知っていたんですね。鐘が二度鳴ったことを」

「知っていたはずだよ」

澪は、冬子の横顔を見た。顔色は落ち着いている。けれど、紙をつまむ指は、端を何度も折り曲げていた。

「昨夜、前田さんが『ようやく正しい時刻を出せる』と言ったそうですね」

曽根が聞くと、冬子は紙片を引き出しに戻した。

「言った」

「何を正すつもりだったんでしょう」

「さあね」

「あなたは、記録館へ行きましたか」

「昨夜は行っていない」

「前田さんと会ったのは、夕食のときだけ?」

「そう」

曽根は、時刻を尋ねた。

冬子は、食事を片づけたあと八時四十分ごろ帳場へ戻り、それから外へ出ていないと答えた。

宿の帳面には、客から受けた電話の時刻が記録されている。最後の通話は九時十二分だった。電話の向こうの客は、冬子が応対した声を覚えているという。

「その電話を受けたとき、時計は何時でしたか」

「九時十二分」

「時計は、八分進んでいるんでしたね」

冬子は曽根を見た。

「そうだったね」

「実際は九時四分ごろ。夏目さんが宿を出たのは、八時五十分ごろだと言いました。道が水につかる前に町へ渡るには、ぎりぎりの時間です」

「そう」

「あなたは、彼が出ていくのを見ましたか」

「見たよ」

「何時だと思いましたか」

冬子は、今度はすぐに答えなかった。

「時計を見たわけじゃない。夏目さんが、帰ると言った。私は戸口まで送った」

「昨夜の記録館の時計は、二時十七分で止まっていた。宿の時計は、八分進んでいる。記録の時刻も、時計の時刻も、いまのところ確かなものはない」

曽根はそう言って、帳場を出た。

冬子は澪を呼び止めた。

「あなたのお父さんは、あの高潮のことを話さなかった?」

澪は首を横に振った。

父は島を出たあと、ほとんど過去を話さなかった。澪の記憶にあるのは、雨の日に窓を閉めることと、夜中に目を覚ますと、玄関の鍵を確かめに行く姿だけだった。

「お父さんも、あの年の記録に関係していたの?」

「私は、何も知らない」

冬子はそう言い、引き出しにしまった紙片を見た。

「知っていることは、記録に残した。残したつもりだった」

その声には、怒りよりも疲れが混じっていた。

宿を出ると、潮が石段の最上段まで上がっていた。

澪は町へ渡る道を見た。朝には、黒い岩の筋が水面から出ていた。今はどこにも見えない。

夏目は、その道を渡ったと言っている。

では、彼が言う「八時五十八分」は、どの時計の時刻なのだろう。

そして前田は、三十六年前の二時十七分を、なぜ書き直そうとしていたのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。