第五章 二度目の鐘
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
冬子は、宿の帳場で曽根警部を待っていた。澪も一緒に座る。窓の外では、潮が石段を覆い、桟橋の杭だけが水面から出ていた。
「三十六年前、あなたは町役場で警報を担当していたそうですね」
曽根が言った。
「そうです」
冬子はためらわなかった。
「警報は二時十七分に出した、と記録されています」
「そう書いてあるね」
「実際は?」
冬子は帳場の引き出しを開け、古い鍵束をどけた。奥から、薄茶色の紙片を一枚取り出した。端が破れ、文字もところどころ薄れている。
「これは当時の電話交換記録。役場のものじゃない。電話局の控えを、母が持っていた」
紙には時刻と通話先が並んでいた。
二時十一分。記録館から町役場。
二時十七分。記録館から町役場。
「記録館からの最初の電話は、二時十一分に来ている」
澪は紙を見た。
「その電話で、何を言われたんですか」
「潮が予想より早く上がっている。避難を始めるべきだと」
「それで、すぐ鐘を鳴らした?」
冬子は一度、窓の外を見た。
「鳴らさなかった」
彼女の答えに、曽根はペンを止めた。
「なぜです」
「町役場から、少し待てと言われた。まだ水位が危険域を超えていない。鐘を鳴らせば、町が混乱する。そういう話だった」
「二時十七分まで待った?」
「二時十七分に、記録館からもう一度電話があった。今度は、すぐ逃げろと言った。私は鐘を鳴らした」
「何回ですか」
冬子は、膝の上に手を置いた。
「二度」
澪は、記録館のページに残った鉛筆の跡を思い出した。
「二度鳴らしたのは、合図の決まりですか」
「一度目は警報。二度目は、町の外れまで音が届くように、間を置いて鳴らした。鐘の音が聞こえない家があったから」
「記録には、その二度目が載っていません」
「記録には、二時十七分に一度鳴らした、とある」
「どうして二度目が消されたんでしょう」
「分からない。私が話したことは、当時の記録係に伝えた。書き留めたかどうかは知らない」
「記録係は、前田さんですか」
冬子はすぐに答えなかった。
「当時、記録館にいたのは前田さんだった」
「それなら、前田さんは知っていたんですね。鐘が二度鳴ったことを」
「知っていたはずだよ」
澪は、冬子の横顔を見た。顔色は落ち着いている。けれど、紙をつまむ指は、端を何度も折り曲げていた。
「昨夜、前田さんが『ようやく正しい時刻を出せる』と言ったそうですね」
曽根が聞くと、冬子は紙片を引き出しに戻した。
「言った」
「何を正すつもりだったんでしょう」
「さあね」
「あなたは、記録館へ行きましたか」
「昨夜は行っていない」
「前田さんと会ったのは、夕食のときだけ?」
「そう」
曽根は、時刻を尋ねた。
冬子は、食事を片づけたあと八時四十分ごろ帳場へ戻り、それから外へ出ていないと答えた。
宿の帳面には、客から受けた電話の時刻が記録されている。最後の通話は九時十二分だった。電話の向こうの客は、冬子が応対した声を覚えているという。
「その電話を受けたとき、時計は何時でしたか」
「九時十二分」
「時計は、八分進んでいるんでしたね」
冬子は曽根を見た。
「そうだったね」
「実際は九時四分ごろ。夏目さんが宿を出たのは、八時五十分ごろだと言いました。道が水につかる前に町へ渡るには、ぎりぎりの時間です」
「そう」
「あなたは、彼が出ていくのを見ましたか」
「見たよ」
「何時だと思いましたか」
冬子は、今度はすぐに答えなかった。
「時計を見たわけじゃない。夏目さんが、帰ると言った。私は戸口まで送った」
「昨夜の記録館の時計は、二時十七分で止まっていた。宿の時計は、八分進んでいる。記録の時刻も、時計の時刻も、いまのところ確かなものはない」
曽根はそう言って、帳場を出た。
冬子は澪を呼び止めた。
「あなたのお父さんは、あの高潮のことを話さなかった?」
澪は首を横に振った。
父は島を出たあと、ほとんど過去を話さなかった。澪の記憶にあるのは、雨の日に窓を閉めることと、夜中に目を覚ますと、玄関の鍵を確かめに行く姿だけだった。
「お父さんも、あの年の記録に関係していたの?」
「私は、何も知らない」
冬子はそう言い、引き出しにしまった紙片を見た。
「知っていることは、記録に残した。残したつもりだった」
その声には、怒りよりも疲れが混じっていた。
宿を出ると、潮が石段の最上段まで上がっていた。
澪は町へ渡る道を見た。朝には、黒い岩の筋が水面から出ていた。今はどこにも見えない。
夏目は、その道を渡ったと言っている。
では、彼が言う「八時五十八分」は、どの時計の時刻なのだろう。
そして前田は、三十六年前の二時十七分を、なぜ書き直そうとしていたのだろうか。




