第四章 鐘の数
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
切り取られたページの跡を、曽根は写真に撮った。表と裏、それから破れた縁を拡大して、順番に記録する。
「破った時期は分かりますか」
「紙の断面を見る必要があります。劣化して自然に裂けたのか、人の手で破られたのかも、今は言えません」
理花が答えた。繊維片を採取されたときと同じ、静かな声だった。
夏目は町役場から持ってきた控えをもう一度確かめていた。三十六年前の記録は、表紙こそ新しかったが、綴じ糸は古い。切り取られた部分に対応する記録は、そこには残っていなかった。
「控えにも、同じところがありません」
「最初からなかったんですか。それとも、後で同じように抜かれたのか」
曽根が尋ねると、夏目は首を横に振った。
「分かりません。町の台帳は、何度か書き写されています。元の形を知っている人は、もうほとんどいません」
その日の昼、澪は警察の立ち会いのもと、記録館の観測機器を調べた。
乾燥室は引き続き立ち入りが制限されていたため、記録室に保管されている旧式の潮位計を確認することになった。
装置の脇にある棚には、古い潮位計の部品が並んでいた。金属の歯車は黒ずみ、細い針の先には青いインクが固まっている。
黒瀬は、装置の前に立っていた。
「今も動かせるんですか」
「電源を入れれば、記録紙は送れます。ただ、海側のセンサーは外しました。観測はずいぶん前に終わっています」
「紙に時刻は印字されますか」
「いいえ。時間軸は紙の送りで分かります。紙の端に、時刻を書き込むのは人です」
「それなら、記録簿の二時十七分は、機械が示した時刻ではないんですね」
黒瀬は装置の蓋を閉めた。
「そうです」
「昨夜は、潮位計が止まった時間だと言っていました」
「記録簿の最後の時刻が二時十七分だった。機械もそのころ止まったのだと思ったんです」
「見たわけではない?」
「見ていません」
澪は、黒瀬の答えを聞きながら、彼の袖口に残っていた灰色の粉を思い出した。
「三十六年前の高潮の記録も、この機械で取ったんですか」
「同じ型です。今のものより古いけれど」
「警報を出すかどうかは、誰が決めたんでしょう」
黒瀬は少し黙った。
「潮位だけでは決まりません。島では、潮位計の数値を見て、観測員が町へ連絡する。町が警報を出す。鐘を鳴らすのは、町の人間です」
その説明に、夏目が顔を上げた。
「当時の町の記録には、警報を出した時刻が書いてあります」
「何時ですか」
「二時十七分です」
部屋の中の空気が、わずかに変わった。
前田の記録簿に書かれ、消されかけていた時刻。
壁時計が止まった時刻。
三十六年前、警報を出した時刻。
「同じ時刻が、三つある」
澪は言った。
「偶然かもしれません」
夏目はそう返したが、視線は台帳から動かなかった。
曽根は、三十六年前の記録が残るページを机に広げた。
時刻の横には、前田征司の署名がある。警報の記録には、役場の担当者の印が押されていた。名前はインクがにじみ、判読できなくなっている。
「この印は、誰のものですか」
「当時の担当者のものです。名前は、町の記録で確認できます」
「確認してください」
夏目はその場で電話をかけた。
役場の保管庫を調べるよう頼んだが、通話が終わるまで、ひとことも余計なことを言わなかった。
その間、澪は切り取られたページの次の紙に残った「鐘」の文字を見つめた。
鉛筆の跡は、上に重なっていた紙から強い筆圧で押しつけられたものらしい。
書き手は強く筆圧をかけたあと、線の途中で止まっていた。次の文字のへこみは、かすかに残っている。
「二度」
澪が言うと、理花が近づいた。
「読めるんですか」
「『鐘は二度』と続くように見えます」
「二度、鳴った?」
「あるいは、二度目の鐘のことを書いたのかもしれない」
理花は紙に触れず、目だけで跡を追った。
「叔父は、この記録を見つけたんでしょうか」
「昨日、見せたいものがあると言っていました」
「何を見せるつもりだったのかは、聞いていません」
曽根が尋ねると、理花は首を横に振った。
電話を終えた夏目が、机のそばへ戻ってきた。
「町役場に、三十六年前の当直記録が残っていました。警報の担当者は――」
彼はそこで、手帳を机に置いた。
「篠宮冬子さんです」
その名を聞いても、澪はすぐには驚かなかった。
冬子が昨夜、前田の言葉を伝えたとき、あの人は何かを隠していた。
けれど、隠しているものが殺人に結びつくのか、それとも、三十六年前の記録に結びつくのかは、まだ分からない。
曽根は、台帳を閉じた。
「冬子さんにも、話を聞きます」
「その前に、ひとつ確認したいんですが」
澪は、記録館の窓の外を見た。
海は朝よりも高くなっている。島と本土をつなぐ道は、もう水の下だった。
「三十六年前の鐘は、二時十七分に鳴ったんですか」
誰も答えなかった。
潮が戻る音は、窓越しには聞こえない。
けれど、島へ続く道が消えたことだけは、皆が見ていた。
読みやすいように改行を入れてみました!




