第三章 記録の余白
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
曽根警部は、前田の遺体が運び出されるまで、乾燥室に誰も立ち入らせなかった。
玄関脇の小部屋で、関係者たちは一人ずつ事情を聞かれた。
最初は黒瀬だった。
彼は昨夜、夕食のあと宿へ戻り、そのまま自室で過ごしたと言った。記録館の暖房の調子を見に来たのは夕方で、乾燥室には入っていないという。
「前田さんから、何か頼まれませんでしたか」
「暖房を直せと言われました。あとは、翌朝まで空調を切るなと」
「乾燥室の?」
「建物全体です。記録紙は急に湿度が変わると傷む」
黒瀬は机の木目を見つめた。
袖口に、灰色の粉がついている。
澪が気づくと、彼は指で払った。
「機械を触ると、こういう粉がつくんです」
「何の粉ですか」
「配電盤の中の埃です」
話が終わると、曽根は黒瀬の袖口に残った粉を採取した。
澪は、その手つきを見ながら、昨日の夕食で黒瀬が空調の話をしていたことを思い出した。
乾燥室の紙を傷める、と彼は言っていた。
次は夏目だった。
彼は昨夜、夕食のあと九時過ぎに宿を出て、町役場の宿直室へ戻ったという。
潮が引いている時間帯には、島と本土を結ぶ道の一部が歩いて渡れる状態になる。ただし、通行できる時間は限られていた。
冬子が玄関先で、彼の姿を見送ったと証言している。
「何時ごろだったか、覚えていますか」
「時計が八時五十八分でした。宿の時計です」
「昨夜、八時五十八分に?」
「そうです。時計が八時五十八分を指していました」
「鐘も聞きましたか」
夏目は少し考えた。
「八回、聞きました」
曽根は何も言わずに記録した。
夏目が出ていくと、理花が部屋へ入った。
前田の姪である理花は、昨夜は宿に残っていたと話した。
食事のあと、客室で古い書類の写真を見返していた。宿の主人が、ときどき廊下を通る姿を見たという。
「叔父さまと話しましたか」
「食事のときだけです」
「昨夜、何か変わった様子は?」
「いつもより静かでした」
「何を考えていたと思いますか」
「わかりません」
理花は膝の上で両手を重ねていた。
親指の爪に、紙の繊維がついている。
薄い灰色で、指で払っても取れなかった。
「それは?」
「修復用の紙です。古い帳面を扱うと、つくことがあります」
曽根はその繊維を採取した。
最後に話を聞かれたのは冬子だった。
宿の時計は、ここ数年ずっと八分ほど進んでいるという。
昨夜、八時五十八分を指していたなら、実際には八時五十分ごろだったかもしれない。
鐘が八回鳴ったのは、八時を知らせたのではなく、鐘を打つ仕組みが正常に動かなかったためだと彼女は説明した。
「壊れているんですか」
「鐘を打つ仕組みがね。時間と音が合わない日がある」
「前田さんは、知っていた?」
「もちろん。あの時計は、前田さんが島に来たころからあった」
冬子はそこで話を切った。
けれど曽根が、前田と長い付き合いだったのかと尋ねると、彼女は窓の外を見た。
「長いよ。島の人は、誰もがあの記録館と関わってきた」
「記録館で、何かあったんですか」
「昔の高潮のことを、聞いたことはある?」
澪は首を横に振った。
「三十六年前の秋、潮が予報より高く上がった。町の低いところが水につかって、三人亡くなった。記録館は、潮位を読み違えたのか、知らせるのが遅れたのか、ずっとはっきりしないまま」
曽根が手帳を閉じた。
「前田さんは、その記録を担当していたんですか」
「当時は若い観測員だった。数字を書いたのが誰か、警報を出すよう伝えたのが誰か。記録は残っている。でも、何をどこまで信用するかは、今も人によって違う」
冬子は立ち上がった。
窓の外では、潮が少しずつ戻り始めていた。
「前田さんは、昨日、何か言っていましたか」
澪が聞いた。
冬子は振り返らなかった。
「『ようやく、正しい時刻を出せる』って」
曽根の手が止まった。
「正しい時刻とは、何の時刻ですか」
「それは聞かなかった」
冬子は部屋を出ていった。
事情聴取が終わると、澪は記録室へ戻った。
乾燥室の扉には、警察の封印が貼られている。
彼女は、廊下に残された観測簿の写しを見た。
前田が最後に書いた数字、その下の消された跡。
紙の上で、二時十七分と二時十一分が重なっている。
そのとき、夏目が棚から古い台帳を一冊取り出した。
「三十六年前の記録です。警部に頼まれて、町の控えを持ってきました」
台帳には、高潮の日の記録が綴じられていた。
表紙は新しいものに替えられ、背表紙の文字も最近書き直されている。
中の紙は茶色く変色していた。
澪は日付を探した。
高潮の記録は、二時十七分から始まっていた。
最初のページには「警報伝達」とあり、その横に前田征司の名が記されている。
次のページには、被害状況が並ぶ。
三人の名前。
うち一人は、当時まだ子どもだった。
最後の一行だけ、紙が切り取られていた。
破れた縁は、まっすぐではない。
紙を引き裂いたような毛羽立ちの間に、鉛筆の黒い筋が残っている。
澪はページを裏返した。
表からは見えないが、次の紙に文字のへこみが残っていた。
強く書きつけた跡らしい。
曽根が横から覗き込む。
「読めますか」
澪は紙の角度を変えた。
文字は、ひとつだけ浮かび上がった。
鐘。
その下には、続きがあるはずだった。
けれど、へこみはそこで途切れていた。
廊下の時計は、まだ二時十七分を指していた。




