第二章 閂の内側
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
曽根警部は、乾燥室へ入る前に廊下の時計を見上げた。
「止まった時刻は、記録しておいてください。時刻そのものを信じるかどうかは、後で考えます」
時計は二時十七分で止まっている。澪は手帳に書き写した。次に、扉の閂を確認する。
木枠の中を横切る鉄の棒は、扉を閉めると室内側からしか動かせない仕組みだった。棒の先端には、古い黒ずみがある。昨夜、誰かがこじ開けようとした跡には見えなかった。
「窓は?」
「鉄格子を外せば、人ひとり通れるかもしれません。ただ、内側からは外せない。外からも、工具なしでは難しいでしょう」
曽根は窓の曇りガラスを調べた。格子に錆びたところはあるが、外された形跡はない。窓枠の内側に、細い水滴が一筋伝っていた。
澪は昨夜、そこに指を触れた感覚を思い出した。塩の匂いは、今はしない。
「床の跡は、誰の靴ですか」
「まだ決められません」
曽根は足跡の縁に紙の定規を添えた。水の跡は、扉の前に一つだけ。
靴底の模様ははっきりしているのに、踵の外側が床に触れた形がなかった。
澪はそれを見て、廊下に出た。
「この建物の床は、濡れるとすぐ吸いますか」
「木の床です。廊下は、塗り直してありますが」
「それなら、こんなふうに残るのは変ですね」
誰も答えなかった。
医師が前田の死亡を確認したあと、曽根は室内を少しずつ調べた。
乾燥室には、観測台のほかに棚が二つ、書類箱がいくつか置かれている。棚のひとつは壁に固定されていた。
窓の下には、外気を取り込む小さな換気口がある。網は内側から埃で塞がり、外からも手が届かない。
「閉じ込めるための部屋ではないんですね」
澪が言うと、曽根は返事をせず、部屋の隅に積まれた箱を見た。
その箱の底に、細長い擦り跡があった。重いものを何度か引きずったような跡だ。箱の表には「昭和五十六年 潮位記録」と書かれている。
澪が前田に見せてもらったことのある年代だった。
「箱は動かされたんでしょうか」
「この跡がいつできたか、分かりますか」
「分かりません。ただ、周りに埃がたまっているので、最近ではないと思います」
曽根は箱の表面を指でなぞらなかった。代わりに、観測台の上の記録簿を見た。
「このページを最後に見た人は?」
夏目が答えた。
「昨日、午後に前田さんと私で、移管する資料の確認をしました。でも、この部屋には入りませんでした」
「前田さんが、入るなと言ったからですか」
「乾燥室は古い資料があるから、調査まで触るなと」
「それを聞いたのは、あなた一人ですか」
夏目は、答えるまでに間を置いた。
「理花さんも聞いていたと思います」
理花は扉の向こうに立っていた。両手をコートの袖に隠している。
「私は聞いていません」
「そうだったかな」
「私は、乾燥室の鍵を預かっていました。入るなと言われたのは、夏目さんだけです」
「鍵を持っていたのは、なぜですか」
曽根の問いに、理花は目を伏せた。
「紙の状態を見るためです。前田さんに頼まれて」
「いつ、最後に入りましたか」
「一昨日の夕方です」
「そのとき、前田さんは?」
「外にいました」
夏目が口を開きかけ、閉じた。曽根は理花を見たまま、次の質問をしなかった。
澪は記録簿の最後のページをもう一度見た。湿った紙の上に、青いインクで数字が書かれている。
二時十七分。
そのすぐ下に、前田の署名があった。
紙の左下には、円い跡がついている。コップの底ほどの大きさだ。
濡れて色が変わったようには見えない。乾いた輪郭だけが、紙に残っていた。
「ここにコップが置かれていたんですか」
曽根が見た。
「たぶん。けれど、室内にコップはありません」
黒瀬が答えた。
「前田さんは、ここで何か飲むんですか」
「コーヒーは飲みません。いつも水です」
「水を、どこから?」
「宿で汲んだものを持ってくることもあれば、記録館の水道を使うこともあります」
曽根は、観測台の下に置かれた小さな金属缶を調べた。ふたは閉じている。中には鉛筆の削りかすと、短い鉛筆の芯が数本入っていた。
床に落ちていた鉛筆と同じ銘柄だったが、削ったばかりに見える芯は一本もなかった。
「手に鉛筆の粉がついていました」
医師が言った。
「どの手に?」
「右です。指先と、爪の下にも」
澪は前田の右手を見た。人差し指の爪の脇に、黒い線が残っている。
記録簿の数字を書いたときについたものかもしれない。だが、前田の手は鉛筆を握った形ではなく、机の縁をつかむように曲がっていた。
「前田さんは、左利きでした」
理花が言った。
曽根は彼女へ顔を向けた。
「間違いありませんか」
「はい。字を書くときも、観測器の調整をするときも、左手を使っていました」
「昨日も?」
理花は答えなかった。
曽根は、記録簿のページを閉じずに、上から薄い紙を重ねた。鉛筆の筆圧を写し取るためだという。紙を押さえる手つきは慎重だった。
しばらくして、前田の手書きらしい数字が浮かび上がった。二時十七分の下に、別の数字の跡がある。
澪は身をかがめた。
「二時……四十一分?」
曽根は紙を動かし、角度を変えた。
「二時十一分にも見える」
「書き直したんでしょうか」
「書き直したのか、最初から別の数字だったのか。まだ分かりません」
澪はページの表面を見た。消しゴムの跡は、数字の上にだけ集中している。
二時十七分。
けれど、紙にはその前の数字が残っていた。
部屋の外で、黒瀬が言った。
「その時刻は、潮位計が止まった時間です」
曽根が振り返った。
「どうして、そう分かるんです」
「観測記録の数字が、最後に記された時刻だからです。壁時計は電池式でしょう。潮位計は、機械で紙を送る。紙が止まったのなら、機械の動力が切れた時刻が分かるはずです」
「それは、二時十七分だった?」
「私は見ていません。紙にそう書いてあるんです」
澪は記録簿を見た。数字の下には署名がある。前田のものに似ているが、最後の一画が短い。彼がいつも書いていた署名より、筆が速いように見えた。
「この記録簿、毎晩書くものですか」
「決まっていません」と黒瀬が言った。「大きな変化があったときは、その日のうちに記録します。潮位計の紙にも数字が出るので、あとで帳面に写すこともあります」
「写す人は?」
「前田さんです」
夏目が低く咳払いした。
「町に移す記録のうち、正式なものは役場の台帳にもあります。ここで書き直しても、元の記録と照合すれば分かります」
「元の記録というのは?」
「観測簿です。紙送りの装置に残ったロール紙もあります」
「それを見せてください」
夏目は、乾燥室の奥を見た。
「ここにあるはずです」
曽根は、その言葉を手帳に書き留めた。
澪は窓のそばへ戻り、曇りガラスを見た。昨夜、内側についていた水滴は、今は消えている。
窓枠に濡れた跡もなかった。かわりに、ガラスの下端に小さな白い粒がひとつ残っていた。塩の結晶のようだった。
彼女は手を伸ばさず、曽根を呼んだ。
曽根は粒を写真に撮り、それから小さな紙袋に入れた。
「海水かどうかは、あとで調べます」
「この部屋の窓から、海は見えません」
「見えなくても、海水は来ます」
曽根は袋に日付を書いた。澪は、廊下の時計が止まったままなのを見上げた。
二時十七分。
扉は内側から閂がかかっていた。窓は閉じ、格子も外れていない。
部屋に残った記録は、書き直された時刻と、濡れたページだけだった。
それでも、澪にはひとつだけ確かなことがあった。
前田征司は、死ぬ前に何かを記録しようとしていた。
そして、誰かがその記録を消しかけていた。




