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潮目の記録  作者: 白い愛
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第一章 低い潮

登場人物


浅倉 澪(あさくら・みお)  古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。


前田征司(まえだ・せいじ)  元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。


前田理花(まえだ・りか)  征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。


黒瀬達也(くろせ・たつや)  島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。


夏目圭介(なつめ・けいすけ)  鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。


篠宮冬子(しのみや・ふゆこ)  島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。


曽根警部(そね)  島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。

島へ渡る船の窓は、内側から曇っていた。

澪は手袋を外し、袖口でガラスを拭った。

白く濁った向こうに、鳴瀬島の岬が浮かんでいる。切り立った岩の上には、灯台ではなく、背の低い四角い建物が見えた。

潮位記録館。かつて観測所と呼ばれていた。

「解体は来月だそうです」

船室の隣で、町役場の夏目が言った。澪はうなずいた。

解体前の建物調査を頼まれたとき、彼はそう説明した。記録館には古い測器と紙の観測記録が残っている。使える資料を選び、残りは廃棄する。

仕事は簡単なはずだった。

ただし、依頼の電話をかけてきた前田征司は、建物の話をほとんどしなかった。

「来て、見てほしいものがある」

それだけだった。

船が桟橋につくと、冬子が迎えに来ていた。厚手のコートの襟を立て、澪を見るなり、懐かしそうでも驚いたようでもない顔をした。

「変わらないね」

「島のほうが、変わったんじゃないですか」

「変わったところは、だいたい埋め立てられたよ」

冬子は夏目に鍵を渡し、澪の鞄を持とうとした。澪は断った。

桟橋から町へ上がる坂道の途中、振り返ると海面が目に入った。

船が出たばかりなのに、潮はもう引き始めている。岩場のあいだに、黒い筋のような水路が現れていた。

記録館は町の外れにあった。

海から少し離れた高台で、白い壁の一部が薄茶色に変色している。玄関脇には潮位を示す古い金属板が埋め込まれていた。

澪はその目盛りを見た。いちばん上の線だけ、塗料の色が新しい。

「塗り直したんですか」

夏目が振り返った。

「さあ。前田さんがやったのかもしれません」

答えた声は、少しだけ早かった。

玄関を開けると、紙と金属の匂いがした。奥の廊下に立っていた前田征司は、背が縮んだように見えた。白髪はきれいに撫でつけられ、濃紺のセーターの肘には、小さな繕い跡があった。

「澪さんか」

「お久しぶりです」

「十年になる」

「はい」

「君が島を出た年から、ここの記録は一度も途切れていない」

挨拶の代わりに、前田はそう言った。

彼は澪たちを記録室へ案内した。壁いっぱいの棚に、年ごとの観測簿が並んでいる。棚の中央だけ、長方形の空きがあった。

そこには本が置かれていたのだろう。埃の跡が、周囲より薄い。

「明日の朝、見せたいものがある」

前田はそう言った。

「今日は見せていただけないんですか」

「明日のほうがいい」

「何か理由が?」

前田は、澪ではなく棚の空白を見ていた。

「潮が合わない」

その夜、島の宿には五人が集まった。澪、前田、理花、黒瀬、夏目。

冬子は食事を運んだあと、店の帳場へ戻った。

前田は夕食のあいだ、観測の話をほとんどしなかった。理花は黙々と魚をほぐし、黒瀬は記録館の暖房が古いと文句を言った。夏目は、移管する資料の量について説明した。

「記録簿は三十箱くらいです。測器は動作確認をしてから、保存できるものを町に移します」

「捨てる資料は?」

澪が聞くと、夏目は湯呑みに手を伸ばした。

「前田さんが選ぶと聞いています」

「選んでいない」

前田が言った。

湯呑みを持ち上げかけた夏目の手が止まった。

「まだ、何も」

前田はその先を続けなかった。理花は魚の骨を皿の端へ置いた。黒瀬は「暖房のせいで紙が乾く」と言い、窓のそばに置かれた小さな加湿器を指さした。

会話が途切れたとき、宿の壁時計が九時を打った。

一つ。二つ。三つ。

澪は箸を止めた。

「八時じゃないですか?」

冬子が帳場から声をかけた。

時計は九つ目の音を鳴らさず、短く軋んだ。針は八時五十八分を指していた。

「古い時計だからね」

冬子はそう言った。

前田は湯呑みを置いた。彼の手元には、茶がほとんど残っていなかった。澪の湯呑みは一口も減っていない。夏目のものは半分ほど、理花のものは空だった。

食事のあと、澪は前田と一緒に記録館へ戻った。翌日の調査に備え、建物の鍵を受け取るためだった。

前田は事務机から鍵束を出し、そのうちの一本を外した。

「奥の乾燥室は開けないでくれ」

「何があるんですか」

「古い紙がある」

「紙は、どこも古いでしょう」

前田は答えず、鍵束をしまった。

乾燥室の扉は廊下の突き当たりにあった。扉の上には、丸い小窓が一つ。曇りガラスの向こうは暗い。

帰り際、澪は廊下の壁に掛かった潮位表を見た。表の下端に、鉛筆で短い線が引かれている。日付は昨日。線の横には、数字が書きかけたまま止まっていた。

「前田さん、これ」

彼は振り返らなかった。

「明日の朝に」

翌朝、記録館の玄関は内側から鍵がかかっていた。

冬子が合鍵で開けた。

廊下の奥、乾燥室の扉の前に理花が立っていた。彼女の手には、小さな鍵が握られている。扉の向こうから、黒瀬が何度も前田を呼んでいた。

返事はなかった。

曇りガラスの小窓には、内側から水滴がついていた。澪が指で触れると、水は冷たく、指先にわずかに塩の匂いが残った。

黒瀬が肩で扉を押した。動かなかった。

理花が鍵を差し込んだ。鍵は回った。扉は、内側の閂で止められていた。

「中から、かかっています」

夏目が言った。

曽根警部が到着するまで、誰も扉に触れないことになった。窓は鉄格子の奥にあり、手を入れられる大きさではない。

廊下の床には、濡れた足跡が一つだけ残っていた。

それは扉の前で始まり、扉の前で終わっていた。

澪は足跡のそばにしゃがんだ。靴底の模様は、記録館の誰かが履いているものと同じかもしれない。

けれど、濡れた跡の縁は不自然にくっきりしていた。水が床へ染み込んでいない。

廊下の壁時計は、二時十七分で止まっていた。

「この時計、昨日も止まっていましたか」

澪が聞いた。

冬子が答える前に、夏目が言った。

「昨夜は動いていましたよ。少なくとも、私が帰るときには」

「何時ですか」

「九時過ぎです」

「時計を見て?」

夏目は口を閉じた。

曽根警部が来て、扉の閂を外した。

乾燥室の中で、前田征司は観測台にもたれて倒れていた。頭に傷はなかった。机の上には開いた観測簿と、蓋の閉じたインク瓶。床には鉛筆が一本落ちていた。

窓は閉じている。

室内の空気は乾いていた。

ただ、観測簿の最後のページだけが、湿って波打っていた。

澪は、そのページに書かれた時刻を読んだ。

二時十七分。

そして、その数字の上には、消しゴムで消された跡があった。

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