第十章 一つだけの足跡
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
澪が靴底から採取した塩は、曽根が警察の鑑識に渡した。乾燥室の前に残っていた水の成分と比較するためだ。
結果が出るまで、曽根は床に残された足跡の記録をもう一度確認した。現場で撮影した写真と、採取した足跡の資料を机に並べる。
「前田さんの靴底とは違うようですね」
理花が言った。
「どうして分かるんです」
「叔父は、底が平らな靴を履いていました。これは深い溝がある」
「黒瀬さんの靴に似ています」
澪が言うと、黒瀬は自分の靴底を見せた。
溝の形は似ていた。靴底の外側には、細い欠けがある。
「同じ型です。島の作業員がよく履いている」
曽根は、足跡の写真と黒瀬の靴底を見比べた。
模様の間隔は近い。けれど、黒瀬の靴には外側の欠けがあり、床の足跡にはそれが確認できなかった。
「同じ型の別の靴かもしれません。あるいは、靴底の模様だけを利用した可能性もあります」
曽根はそう言った。
黒瀬は、腕を組み直した。
「私の靴を疑っているんですか」
「まだ何も決めていません」
澪は、写真に写った足跡を見た。
踵もつま先も、ほぼ同じ濃さで残っている。
人が歩いた跡なら、足の運び方によって濡れ方に差が出ることもある。けれど、この跡は、靴底全体を一度に押しつけたように均一だった。
「これ、歩いてできた跡じゃないんじゃないですか」
曽根が彼女を見た。
「一歩だけで、しかも濡れ方が均一です。靴を手で押しつけたようにも見えます」
「犯人が、外から来たように見せるために?」
「そうかもしれません」
「でも、床の濡れ方は?」
「靴底を濡らせば、同じような跡を作れるかもしれません」
曽根は、足跡の縁を指さした。
「端がほとんどにじんでいません。濡れた床を歩いた跡とは違う可能性があります。ただ、実際に再現してみないと断定はできません」
その説明を聞きながら、澪は窓の曇りガラスを思い出した。
塩のような匂いがした水滴。ガラスの下端に残った白い粒。
乾燥室の湿度は低く、部屋に大量の海水が入り込んだ形跡もない。
「窓の水滴も、誰かがつけたものかもしれない」
「窓は内側から閉まっていました」
「だから、窓から入ったとは限らないんです。誰かが、窓に水をつけただけかもしれない」
曽根は答えず、窓枠をもう一度調べた。
部屋の中には、前田の観測簿があった。
ページには、コップの底のような輪染みが残っていた。机の上にも床にも、コップは見当たらない。
「足跡も、水滴も、輪染みも」
澪は言った。
「誰かに、何かを信じさせるためのものだったのかもしれません」
理花が顔を上げた。
「何を信じさせるんですか」
「この部屋に、誰かが入ったこと。前田さんが、二時十七分に亡くなったこと」
曽根が、少しだけうなずいた。
「その二つを分けて考えましょう。前田さんは、本当にこの部屋で亡くなったのか。時計が示す二時十七分に亡くなったのか」
その午後、曽根から医師の見立てが伝えられた。
前田の体に、明らかな致命傷は見つからなかった。倒れたときにできた打撲はあるが、死因とは考えにくい。
詳しい検査には時間がかかる。死亡時刻も、室内の温度や遺体の状態を考慮すると、現段階では絞り込めないという。
「つまり、まだ分からないんですね」
澪が言った。
「分からないことが、少しはっきりした」
曽根は、乾燥室の机を見た。
「時計には、針の動きを妨げる紙片が挟まっていた。足跡は、歩いた跡ではない可能性がある。窓の水滴も、海水が入り込んだ証拠にはならない。部屋に残ったもののうち、誰かが意図的に用意したものはどれだろう」
「輪染みは、どうでしょう」
「そこに円形の底を持つ何かが置かれた可能性はある。けれど、コップだったのか、何が入っていたのかまでは分からない」
澪は、前田が夕食で湯呑みをほとんど空にしていたことを思い出した。
乾燥室の机には、茶の跡はなかった。
「前田さんは、いつも水を飲んでいたんですよね」
黒瀬が答えた。
「はい。部屋にはコップを置いていたはずです」
「そのコップは、どこへ行ったんでしょう」
誰も答えなかった。
記録館の玄関には、来客用の長靴が並んでいた。濡れた床を歩くときに使うものだ。
曽根は警察官に指示し、長靴の底を一足ずつ撮影させ、足跡の記録と照合した。
どれも完全には一致しなかった。
けれど、最後の一足だけ、外側の縁に薄い欠けがあった。
床の足跡には、その欠けが写っていない。
「この長靴も、足跡を残したものとは違うんでしょうか」
澪が言った。
「欠けができた時期によっては、可能性が残ります。足跡をつけたあとに傷ができたのかもしれません」
曽根はそう答え、長靴を証拠品として保管するよう指示した。
そのとき、理花が乾燥室の机の前で立ち止まった。
「輪染みの位置が、少し変です」
「何が?」
曽根が聞く。
「前田さんは左利きです。飲み物を置くなら、机の左側に置くことが多かったはずです。でも、この輪染みは右側にあります」
「右利きの人が置いた、と?」
「それだけでは分かりません。ただ、叔父がここで何かを飲んでいたとは限らない」
澪は、輪染みの外側に重なっている、薄い鉛筆の跡を見た。
円の端から、短い線が一本伸びている。
まるで、何かを置く位置を測るために引いた印のようだった。




