第十一章 利き手
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
理花が指摘した輪染みは、机に広げられた観測簿の右端にあった。
その外側には、短い鉛筆の線が引かれている。
澪は線の向きを確かめた。コップを置く位置を示す印にしては、円の外へ線が伸びすぎている。
「これは、飲み物の跡じゃないかもしれません」
「何の跡だと思いますか」
曽根が聞いた。
「まだ分かりません。ただ、コップを置いたなら、この円だけで十分です。線まで必要なのは、別のものの位置を測ったときかもしれない」
「たとえば?」
「観測器の部品とか、紙を固定する重しとか」
理花は机を見渡した。
観測台の端に、四角い金属製の文鎮が置かれている。底には薄いフェルトが貼られ、角が少し欠けていた。
澪はそれを指さした。
「この文鎮も、調べられますか」
曽根は文鎮の位置を撮影し、手袋を着けて持ち上げた。
底の一辺は、鉛筆の線とほぼ同じ長さだった。
「これを置いた跡なら、円はコップではなく、文鎮の底についた水かもしれない」
「文鎮が濡れていた?」
「あるいは、文鎮の下に水があった」
曽根は文鎮を証拠品として保管した。
その日の夕方、医師から追加の連絡があった。
前田の頭部を詳しく調べたところ、左耳の後ろに、ごく薄い内出血が見つかったという。皮膚に傷はない。転倒でも起こりうる程度だったが、硬いものが当たった可能性も否定できない。
「体のほかの場所に、転んだときの傷は?」
曽根が電話口で尋ねた。
返事を聞いて、彼は受話器を置いた。
「両手にも肘にも、体を支えようとしてできたような傷は確認されていないそうです」
「倒れる前に、頭を打った?」
「そうかもしれません。ただ、傷だけでは判断できません」
澪は、床に落ちていた鉛筆を思い出した。
前田の右手の爪の周囲には、鉛筆の粉がついていた。理花の話では、前田は左利きだ。
「頭を打ったことで、左手が使いにくくなった可能性はありますか」
「可能性はありますが、傷の位置だけでは分かりません」
曽根はそう言って、観測簿の複写を見た。
二時十七分。
その数字は、前田が普段書いていた文字とは少し違っていた。
線が妙に揺れ、数字の最後に力が抜けている。
「この数字を書いたとき、前田さんは、いつものように書けなかったのかもしれません」
澪は言った。
「あるいは、別の人間が書いた可能性もあります」
曽根が答えた。
「だとすれば、二時十七分という数字を残した理由は何でしょう」
「でも、時計は誰かが紙を挟んで止めたんです」
「そうです。時計が示す時刻と、前田さんが倒れた時刻が同じとは限らない」
曽根は、観測簿の複写を閉じた。
その夜、理花は澪に、前田が使っていた鉛筆の写真を見せた。
乾燥室の床から見つかったものではない。事務机の引き出しにあった、短く削られた鉛筆だ。
「叔父は、左手で鉛筆を持つと、いつも芯の近くを握りました。右手で持つと、もっと後ろを持っていた」
写真に写った鉛筆には、芯のすぐ上に黒い指跡がついていた。
澪は、観測簿の写真を見た。
二時十七分の「七」は、最後の線だけが妙に短い。
消された二時十一分の跡は、その下にまだ残っている。
「もし、誰かに頭を打たれたあとで書いたなら」
「叔父は、倒れる前に、自分で扉を閉めたのかもしれない」
理花は、そう言った。
澪は答えなかった。
乾燥室の閂を動かせるのは、室内にいる人だけだ。
けれど、前田が襲われたあと、意識のあるうちに自分で扉を閉めたのなら、密室を作ったのは犯人ではない。
廊下に残った足跡は、部屋へ入った証拠ではなく、誰かがそう見せるために残したものかもしれない。
時計もまた、死亡時刻を示すものではない。
「前田さんは、誰に襲われたんでしょう」
澪が聞いた。
理花は、写真をしまった。
「叔父は、昨日、誰かを待っていたのかもしれません」
「誰を?」
「それが分かれば、記録館にいた理由も分かると思います」
そのとき、曽根から電話があった。
乾燥室の前に残っていた水と窓の水滴について、鑑識から preliminary な分析結果が届いたという。
どちらにも塩分は含まれていたが、一般的な海水とは成分の比率が異なっていた。
また、二つの試料には共通する特徴があった。
「島と町を結ぶ道の海水ではないんですか」
澪が尋ねた。
「少なくとも、採取した海水とは成分が一致していません。別の場所から持ち込まれた可能性があります」
「では、どこから来たんでしょう」
「記録館の中に、同じ成分の水がないか調べています」
電話が切れたあと、澪は乾燥室の窓を見た。
窓に水をつけた人間は、海から来たのではないのかもしれない。
犯人は、最初から記録館の中にいたのだろうか。




