第十二章 塩の水
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
乾燥室の窓と、扉の前に残されていた足跡の水は、単なる海水ではなかった。
曽根が鑑識から受け取った報告には、どちらの試料からも塩化カルシウムが比較的高い濃度で検出されたとあった。採取した海水とは成分の比率が異なり、記録館の中で使われている薬剤に由来する可能性があるという。
「乾燥剤の水かもしれません」
黒瀬は、乾燥室の隣にある保守室を指した。
棚の下に、四角い受け皿が置かれている。中には透明な液体が溜まっていた。
「塩化カルシウムは湿気を吸います。吸収した水分に溶けて、こうして受け皿に溜まるんです」
「この水を、窓や床につけたんでしょうか」
澪が聞いた。
「成分が合えば、その可能性はあります」
曽根が答えた。
黒瀬は受け皿の中を見た。
内側には、液面の跡と思われる乾いた線が二本残っている。今の水位は、そのうち低いほうに近かった。
「いつ、最後に捨てましたか」
「先週です」
「それから、どれくらい溜まるんです」
「天気によります。今の時期なら、一週間でこのくらいです」
曽根は受け皿を写真に撮った。
上部のカバーの裏側には、細い布きれが貼られている。埃を防ぐためのものらしいが、角に小さな裂け目があった。
「昨夜、誰かが触った跡ですか」
「分かりません。乾燥剤の点検は、私がします」
「鍵は?」
「保守室は鍵をかけていません。薬剤に直接触れないようにはしていますが、出入りはできます」
「受け皿を持ち出した人がいても、不思議ではない?」
「持ち出す理由はありません」
黒瀬の声が少し硬くなった。
「窓と足跡についた水は、どちらもこの受け皿の液体に近い成分かもしれません。誰かが利用した可能性はあります」
曽根は言った。
「では、その人は記録館の乾燥剤を知っていた」
「知っている人は、何人もいます」
「どの人が、どれくらい詳しく知っていたのかを調べます」
澪は受け皿を見た。
内側に残った二本の線には、指二本ほどの差がある。
先週からどれだけ溜まったのか分からない以上、昨夜、水が減ったかどうかは判断できない。
「水の量について、前の記録はありますか」
黒瀬は棚から点検簿を出した。
毎週の点検内容が、日付と一緒に記録されている。先週の欄には、「交換」とだけ書かれていた。液面の高さは記されていない。
「前田さんが記録していたんですか」
「私です」
「この週は?」
「私が書きました」
黒瀬は、点検簿を曽根へ渡した。
澪は、曽根が開いた昨年の記録を横から見た。
黒瀬の字は、数字の七を横棒なしで書く。
前田の観測簿に残された二時十七分の数字は、七の横棒が長い。以前に見た前田の筆跡とも違っていた。
誰が書いたのか。
それが、まだ分からない。
保守室を出ると、理花が乾燥室の入り口に立っていた。
彼女は、机に広げられた観測簿の輪染みをもう一度見ていた。
「文鎮の底には、濡れた跡が残っていなかったそうです」
「水は、そこに置かれていたわけじゃない?」
「少なくとも、文鎮が濡れていたと分かる痕跡は見つかっていません。底のフェルトも、古いままだそうです」
「では、輪染みは何の跡ですか」
「コップだった可能性はあります。でも、コップが置かれたのは昨夜とは限りません」
曽根は、観測簿のページを斜めから照らした。
輪染みの内側に、薄い鉛筆の線がもう一本見つかる。円の中心を通るように伸びていた。
「この線は、輪染みの下にあるように見えます」
澪が言った。
「線を引いたあとに、何かを置いたんでしょうか」
「重なり方を詳しく調べる必要があります」
曽根が答えた。
理花は、机の端に置かれた観測紙の留め具を見た。
「叔父は、紙を固定するときに文鎮を使っていました。丸いものを重しにする習慣はありませんでした」
「コップは?」
「乾燥室では飲まないようにしていました。紙が濡れるからです」
曽根が目を上げた。
「それを知っているのは?」
「この部屋を使っていた人なら、誰でも」
澪は、輪染みから伸びる線を見つめた。
コップを置いた跡に見せかけるため、誰かが円形の染みを作ったのだろうか。
あるいは、記録紙の位置を示すため、前田が印をつけたのか。
まだ見つかっていないものが、部屋のどこかに残っているかもしれない。
「床の箱を、もう一度調べてもらえますか」
曽根はうなずいた。
先ほど封筒が見つかった箱とは別に、壁際には「昭和五十六年」と書かれた古い箱が置かれていた。
鑑識担当者が箱の周囲を撮影し、慎重に持ち上げた。
底の擦り跡のそばに、細い紙片が挟まっている。
担当者はピンセットで紙片を取り上げ、曽根に見せた。
青い点のある伝票の切れ端だった。
紙片には、押印の跡だけが残っている。朱肉の色は薄れ、文字は欠けていた。
それでも、印影の端に二つの漢字が読めた。
夏目。




