印章
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
紙片は、役場で使われていた伝票の一部だった。
曽根は夏目に電話をかけ、記録館へ来るよう頼んだ。夏目は一時間ほどして現れた。彼は床の箱を見て、それから証拠袋の中の紙片を見た。
「これは、父の印です」
「間違いありませんか」
「はい。役場で使っていた印です。父が当直責任者だったころ、伝票にも押していました」
「この紙片を見たことは?」
「ありません」
夏目は袋の中をじっと見た。印影は欠けているが、姓の下に「重」の一部が残っている。
「この伝票は、何に使っていたんですか」
「資料を町へ移すときの搬出票です。古いものは、記録館にも残っているかもしれません」
「あなたが担当した移管作業にも使いましたか」
「使いました。ただ、父の印は使いません」
「なぜです」
「今の役場には、父の印はありません。記録館に持ち出されたかどうかも知りません」
「三十六年前の控えには、あなたのお父さんの名前がありました」
「知っています」
「前田さんは、その記録を見つけていた」
夏目は、答えなかった。
曽根は、紙片を箱の底に置かれていた位置へ戻した。紙は箱の隅に挟まっていた。紙片の上には埃がほとんどない。箱の下にあった床の擦り跡にも、薄い埃がかかっている。
「この紙は、長い間ここにあったわけではないようです」
澪が言った。
「箱の底に紙があれば、箱を動かしたときに一緒にずれます。けれど、床の跡には埃がある。箱はしばらく動かされていない。紙片だけ、あとから差し込まれた可能性があります」
「誰かが、ここへ置いた?」
理花が聞いた。
「そうかもしれません」
「夏目さんを疑わせるために?」
夏目は澪を見た。
「私は、前田さんの部屋に入っていません」
「まだ、誰もそうとは言っていません」
「この紙片は、父の名前をここに残している。時計を止めた紙も、役場の伝票に似ている。あなたたちは、同じ方向を見るように誘導されているのかもしれない」
夏目の言葉に、曽根は何も答えなかった。
「前田さんは、父の記録を直そうとしていた。だから、誰かが父を犯人に見せかけている。そう考えることもできる」
「その誰かに、心当たりは?」
夏目は、少しだけ間を置いた。
「ありません」
彼が帰ったあと、曽根は記録館の床をもう一度調べた。箱の下には、紙片が挟まっていた跡が残っていない。箱を動かさず、下から差し込むには、紙を細長く折って押し込む必要がある。
「この紙の切り口は、時計を止めた紙片と同じです」
理花が言った。
「紙の質も似ています。伝票の余白から切ったものかもしれません」
「誰が切ったんでしょう」
澪は尋ねた。
「まだ分かりません。けれど、時計を止めた紙片にも青い点があった。伝票の一部なら、印を押す前か、印を避けて切り取ったことになります」
曽根が、部屋の隅に置かれた古い伝票の束を確かめた。表紙には「資料移管」と書かれている。いちばん上の伝票は、最近使われたものだった。青い点の位置、紙の厚さ、印の大きさは、見つかった切れ端とよく似ている。
「この束を、誰が管理していたんですか」
「役場から持ってきたものです。移管作業の間は、夏目さんが使っていました」
理花が答えた。
「今は?」
「私が整理していました」
曽根は束の枚数を確かめた。最後の一枚が、途中で破られている。伝票の半分が残り、印を押す欄だけがなくなっていた。
澪は、紙片の印影を見つめた。
「印を押したあと、必要なところだけ切り取ったんでしょうか」
「その可能性はあります」
「だとすると、紙片を作った人は、伝票の束に触れられた」
曽根は、束を証拠袋に入れた。
「伝票を扱った人間は、夏目さんだけではありません。整理した理花さんも、運び込んだ前田さんも、紙質を知っている黒瀬さんも」
誰も反論しなかった。
窓の外では、風が強くなっていた。海が引き、島と町を結ぶ道が長く現れている。その道の途中に、白いものがひとつ落ちていた。
澪は双眼鏡を借りて確かめた。
紙のように見えた。
曽根が道へ出る支度を始めた。潮が戻るまで、二十分もない。
彼は何も言わず、長靴を履いた。




