潮の道
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
白いものは、紙片だった。
澪と曽根は潮の引いた道を歩き、岩の窪みに引っかかった細長い紙を見つけた。表面には塩が乾いてこびりつき、端は水を吸って柔らかくなっている。
曽根が手袋をはめて拾い上げた。
「記録紙のようです」
紙には細い青線が引かれていた。途中でいったん途切れ、また少し先から続いている。潮位計の紙送りに使う、薄いロール紙に似ていた。
記録館へ戻り、曽根は前田の部屋で見つかった観測紙を、証拠袋越しに机へ広げた。切り取られた端と、道で拾った紙片の縁を合わせる。
紙の毛羽立ちが、ぴたりと重なった。
「同じ紙から切り離されたようです」
理花が言った。
拾った紙片の青い線は、観測紙の線とつながった。上昇していた線が、そこで急に折れている。折れた先には、鉛筆で小さく印がついていた。
二時十一分。
紙片の裏に、文字はなかった。ただ、鉛筆の黒い跡と、紙を押さえたような二つの丸いへこみがある。
「これを持っていた人が、道を渡ったんでしょうか」
澪が聞いた。
「落ちた時刻は分かりません」
曽根は紙片の塩を採取した。
「ただ、ここで見つかった。潮が上がれば流されていたはずです」
道の途中には、浅い水たまりがいくつも残っていた。紙片の周りには新しい靴跡がない。塩の付着具合から、昨夜のうちに落とされたのか、もっと前なのかも判断できなかった。
それでも、切り取られた観測紙の一部が、記録館の外で見つかったことには意味があった。
「この紙に、誰が触れられたんでしょう」
澪が言った。
「乾燥室へ入った人。記録紙を扱った人。道を渡った人」
曽根は、紙片を袋へ収めた。
「条件を一つずつ確かめます」
記録館へ戻ったあと、曽根は昨夜の潮位表を調べた。町の測候所が保管していた表には、道が水に覆われる時刻が記録されていた。昨夜、歩いて渡れる時間は、日没後の一時間あまり。夏目が宿を出たという時刻は、その終わりに近い。
「冬子さんの時計が八分進んでいたなら、夏目さんが宿を出たのは、九時前です」
澪が言った。
「その時刻なら、道はまだ渡れた」
「紙片が道に落ちていた時刻は分からない」
「はい」
「でも、これを持って町へ渡った人がいたとしたら、記録館の紙を持ち出したことになる」
曽根は、警報盤の古い控えを机に並べた。
三十六年前の記録では、二時十一分に潮が警戒線を越えた。紙片の青い線も、二時十一分のところで折れている。その先の記録は、拾った紙片には続いていなかった。
「この線は、二時十一分に何かが起きたことを示しているんでしょうか」
「潮の動きが変わっただけかもしれません」
黒瀬が答えた。
「潮位計の針が跳ねたら、線が折れることがあります」
「二時十一分に、必ず異常があったとは言えない?」
「言えません」
黒瀬は記録紙から目を離した。
「ただ、前田さんはこの時刻に印をつけていた」
理花が言った。
「それが三十六年前の時刻と同じです」
夏目は黙っていた。曽根は、彼に話を促さなかった。
澪は、記録紙に残った鉛筆の点を見た。二時十一分。紙片の裏にも、同じ黒い跡がある。誰かが紙を押さえながら、裏側に別のものを書いたのかもしれない。
「紙片のへこみを調べられますか」
「表に書かれた文字を、裏から読めることがあります」
曽根は紙片を照明の下へ置いた。斜めから光を当てると、へこみが浮かび上がる。
円が二つ。短い線が一本。その先に、数字のような形があった。
理花が身を乗り出す。
「これ、丸い印の跡じゃないですか」
「印章を押した跡?」
「いえ。印章なら、円の中にも凹凸が出ます。これは、何か丸いものを紙の上に置いて、強く押さえた跡です」
澪は、乾燥室の机にあった輪染みを思い出した。
コップのような円。そこから伸びる短い線。
記録紙の裏に残った円の跡も、机の上の輪染みと似ていた。
「同じものを、紙の上にも置いたんでしょうか」
曽根は、紙片を持ち上げた。
「あるいは、同じ場所で書いた」
記録紙は、誰かが切り取って持ち出した。
その紙に残る円と線は、乾燥室の机にあった跡とよく似ている。
前田が最後に見ていたのは、時計でも、観測簿でもない。
二時十一分に、誰かが記録紙の上へ置いたものだった。




