円の跡
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
輪染みの直径を測ると、六センチ半あった。
澪は、宿の食器棚を見た。昨夜の食事で使った湯呑みは、どれも底が小さく、輪染みより一回り細い。冬子は棚の上段から、透明な水差しを下ろした。こちらの底は、円の跡とほぼ同じ大きさだった。
「この水差しを、記録館へ持っていったことはありますか」
「ないよ。これは帳場に置いてあるもの」
「乾燥室に、同じものは?」
「前田さんが使っていたのは、ガラスのコップ。背の低い、厚いものだった」
「いまもありますか」
冬子は食器棚の下を開けた。透明なコップが五つ並んでいる。どれも底が厚く、縁が丸い。底の直径は、輪染みと同じだった。
「前は六つあったんだけどね」
「いつから一つないんですか」
「いつからだろう。欠けたのか、誰かが持っていったのか、気にしていなかった」
澪は、前田が夕食のあとに使った湯呑みを思い出した。茶を飲んだ湯呑みは、宿に残っている。記録館の乾燥室にあった円の跡は、湯呑みではなく、水を飲むためのコップのものらしい。
「前田さんは、記録館へコップを持っていったんですか」
「自分で持っていくこともあった。記録館には、水道があるから」
冬子は棚を閉めた。
「ただ、前田さんはコップを持ち歩かなかった。あそこに置いていたはずだよ」
「昨夜、どなたかにコップを貸しましたか」
「貸していない」
曽根は、食器棚の内側を確かめた。木の棚板には、コップを置いていた丸い跡が六つある。ひとつだけ、その跡が薄く、他の場所より埃が積もっていた。
「一つなくなったのは、最近ではないかもしれません」
「そうだね」
「それでも、記録館の輪染みと同じ形のコップが、この宿にあった」
冬子は答えなかった。
澪は、コップを一つずつ持ち上げ、底の形を比べた。五つのうち、ひとつだけ底の縁に小さな欠けがある。輪染みの机に残っていた線の先には、短い切れ込みが見えた。コップの底を滑らせたときについた傷かもしれない。
「この欠けたコップを、前田さんは使っていましたか」
冬子は、手にしたコップを見た。
「覚えていない」
「それは、いつから欠けていますか」
「分からないよ」
澪は底を照明に透かした。欠けた箇所に、細い黒い筋が残っている。鉛筆の芯のようにも、金属が擦れた跡のようにも見えた。
「このコップを、記録館へ持っていった人がいる」
曽根が言った。
「前田さんかもしれないし、別の誰かかもしれません」
「コップが部屋にあったのなら、どうして見つからなかったんでしょう」
「誰かが持ち出した」
「犯人が凶器として使ったから?」
曽根は、すぐには答えなかった。
澪は、左耳の後ろにあった薄い内出血を思い出す。傷はなかった。固いもので殴られたなら、ガラスの縁が割れるほどの力ではなく、重い底を当てるように使ったのかもしれない。
「コップに水が入っていたら、重さは増します」
「水差しの跡と、足跡の水。どちらも乾燥剤の液体に近かった」
曽根が言った。
「コップの中身も、同じ液体だった可能性があります」
冬子が、二人を見た。
「その水を飲んだの?」
「まだ分かりません」
「前田さんは、そんなものを飲む人じゃない」
「水が入っていたとは限りません」
曽根は、コップを袋に入れた。透明なガラスの内側には、水滴が乾いた跡も、口をつけた跡も見当たらない。
そのあと、三人は記録館へ戻った。理花が乾燥室の机を見た。輪染みの外側の鉛筆線と、コップの底の欠けた部分を照らし合わせる。
欠けは、線の端と一致した。
「このコップが、ここに置かれていたんですね」
理花が言った。
曽根は、コップを袋ごと机から離した。
澪は、輪染みを見た。円の跡に沿って、紙の繊維がわずかに潰れている。コップを置いたのは、前田がいつも使っていた位置ではない。机の右端、彼の利き手とは反対側だ。
誰かが、水の入ったコップを置いた。
そのあとで、コップを持ち去った。
「前田さんは、襲われる前に水を飲んだんでしょうか」
「そうかもしれない」
曽根は言った。
「あるいは、飲まなかった。コップを置いただけかもしれない」
「もし、中に何か入っていたら?」
「それも調べます」
曽根は、コップの底に残った黒い筋を拡大撮影した。
澪は、前田の右手についた鉛筆の粉を思い出す。彼が何かを書こうとしたのは、頭を打たれた後かもしれない。机の上には、コップの跡と、消された数字が残っている。
前田は、コップを見ていたのか。
それとも、コップを持ってきた人を見ていたのか。




