水の中身
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
ガラスのコップから、毒物は見つからなかった。
内側に残っていたのは、ごく薄い塩化カルシウムの跡と、細かな紙の繊維だった。水を飲むために使われたとは限らない。指紋は拭き取られていた。
「このコップは、前田さんのものではありません」
理花が言った。
「なぜ分かるんですか」
「叔父が使っていたのは、持ち手のついた金属のカップです。ガラスは、紙のそばに置きませんでした」
「それは、いつからですか」
「何年も前からです」
曽根は、コップの底を拡大した写真を見ていた。
「輪染みの線と、底の欠けは一致しています。誰かがこのコップを乾燥室に置いたのは確かでしょう」
「水を入れて、紙を押さえたんでしょうか」
澪が聞いた。
「紙を押さえるなら、文鎮で十分です」
理花が答えた。
「水を入れたコップを使う理由はありません」
「重さが要るなら、入れてもいい」
黒瀬が言った。
「ただ、乾燥剤の水を入れたのは、紙を濡らすためではないでしょう。紙を押さえる目的なら、ふたのないコップは不安定です」
「では、何のために置いたんでしょう」
「分かりません」
黒瀬は、コップの写真から目を離した。
その日の夕方、曽根は医師から新たな所見を受け取った。前田の左耳の後ろには、鈍器で一度打たれたときにできる内出血がある。外側に傷はないが、頭蓋内で出血が広がっていた。転倒だけでは説明しにくい位置だった。
「コップで殴られた可能性はありますか」
澪が聞くと、曽根は首を横に振った。
「凶器がそれだとは断定できない。丸い底のある重い物なら、同じような傷になる」
「手近にあったものではなく、持ち込まれたものかもしれない」
「そうです」
「前田さんは、倒れる前に扉を閉めたんでしょうか」
「扉を閉めて閂をかけたのが本人なら、襲われたあとに部屋へ戻ったことになる」
「襲った人は、その前に出ている」
「そう考えるのが自然です」
澪は、乾燥室の観測台を見た。前田が倒れていた場所と、扉までの距離は短い。襲われたあと、意識が残っていれば、扉を閉めて閂をかけることはできる。
「では、あの足跡は」
「誰かが、部屋の外にあとから置いたものかもしれない。足跡が一つしかない理由も、それなら説明できます」
「犯人が、誰かに侵入の跡を見せたかった?」
「あるいは、部屋の中から出た人間がいると思わせたかった」
曽根はそう言ったが、誰を疑っているのかは口にしなかった。
夏目の帰路についても、改めて確認された。昨夜、宿を出たのは、壁時計の表示で八時五十八分。時計が八分進んでいるなら、実際は八時五十分ごろ。道はまだ歩けた時間だ。
「夏目さんが町へ渡ったなら、記録館へ戻るのは難しい」
澪が言った。
「潮が道を覆ったあとは、戻れません」
「誰かが船を出せば別ですが」
「昨夜、船は出ていないそうです」
曽根は、港の記録を確認したあとだった。
夏目は、島に戻っていない。少なくとも、船で戻った形跡はない。
「それなら、犯人は島に残っていた人の中にいる?」
「そう決めるのは早い」
曽根は、窓の外を見た。
「潮が満ちたあと、誰も島から出られなかったとは限らない。島には、もうひとつの道がある」
澪は、彼の顔を見た。
「もうひとつ?」
曽根はすぐに答えなかった。かわりに、宿から記録館までの古い地図を広げた。海岸線に沿って、細い線が引かれている。観光用の地図には載っていない道だった。
「昔の保守用通路です。今は使われていないと聞いています」
黒瀬が地図を覗き込んだ。
「一部が崩れている。潮が低いときなら歩けますが、夜は危険です」
「どこへつながるんですか」
「記録館の裏手から、岬の下へ。町の道ではなく、古い観測小屋に出ます」
「その観測小屋は?」
「もうありません。基礎だけ残っています」
澪は、地図に描かれた線の終点を見た。記録館の裏から岬の下へ抜ける道。地図上では短いが、実際には崖と岩場を通る。
「前田さんは、この道を使っていたんですか」
「昔は、観測器を運ぶために使っていました」
黒瀬が答えた。
「出入口は、乾燥室にあるんですか」
「いいえ。裏の地下通路です。今は入口を塞いでいるはずです」
曽根は、地図を折りたたんだ。
「明日の朝、確かめに行きましょう」
澪は、乾燥室の扉を見た。閂を動かしたのが前田だったとしても、誰かが別の道から部屋を出入りした可能性は消えていない。
ただし、床に残った水は海のものではなかった。
犯人が通路を使ったのなら、なぜ乾燥剤の水で足跡を作ったのか。
そして、なぜ前田は、襲われたあとで自分から閂をかけたのか。




