塞がれた道
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
古い保守通路の入口は、記録館の裏手にあった。
黒瀬が崩れた階段を照らす。鉄の扉は、内側から木材で塞がれていた。釘は錆びている。木の表面にも、近年誰かが触れた跡は見当たらない。
「この先が、岬の下へ抜ける道です」
「乾燥室の真裏につながっているんですか」
澪が聞くと、黒瀬は首を横に振った。
「建物の外を回る形です。裏手の壁に、古い換気口がある。昔の観測小屋へ続いていました」
「人が通れますか」
「成人なら、通れる幅はあります。ただ、今は途中で崩れている」
曽根は封印の写真を撮ってから、扉を留めている木材を調べた。釘は一本も抜かれていない。木の隙間に細い紙を差し込んでも、奥へは進まなかった。
「ここから誰かが出入りした可能性は低そうです」
曽根が言った。
「それでも、換気口は確認します」
三人は外壁沿いに歩き、背面の換気口を見つけた。格子の奥に土と枯葉が詰まっている。格子の端は錆びて、開けられた形跡もない。幅は人が通れるほどではなかった。
澪は、格子の下に白い粉がたまっているのに気づいた。
「これも塩ですか」
黒瀬が指先に取り、匂いを確かめた。
「乾燥剤の粉です。古い壁の中に残っていたんでしょう」
「新しいものかどうか、分かりますか」
「粉だけでは難しい」
曽根は、その粉も採取した。
換気口の内側には、短い金属棒が引っかかっていた。黒瀬が慎重に取り出すと、先端に小さな輪がついている。
「これは何ですか」
「古い計器の調整棒です。針をゼロ位置へ戻すときに使う」
「いつからここに?」
「分かりません。観測小屋が使われなくなったあと、壁の中へ落ちたのかもしれない」
棒の先には、黒い油が固まっていた。曽根はそれを袋に入れた。
「これで閂を動かすことはできますか」
「できません。届かないし、形も違う」
「窓の格子を外すことは?」
「無理です」
黒瀬の答えに、曽根は小さく頷いた。
乾燥室の閂も、窓も、裏の通路も、誰かが外から使った形跡はなかった。前田が自分で閂をかけたという考えは、少しずつ現実味を帯びてくる。
記録館へ戻る途中、岬の斜面に石碑が見えた。潮害で亡くなった三人の名前が刻まれている。文字は風雨で浅くなっていたが、いちばん下の名は読めた。
黒瀬文江。
澪が振り返ると、黒瀬は石碑を見ていた。
「あなたのお母さんですか」
黒瀬は、すぐには答えなかった。
「そうです」
「三十六年前の高潮で?」
「家の裏まで水が来た。母は、鐘が鳴る前に外へ出た。逃げ遅れたんじゃない。隣の家に子どもを知らせに行った」
黒瀬は、石碑に近づかなかった。
「記録には、母が警報を聞いてから避難しようとした、と書かれている」
「本当は?」
「母は、二時十一分に警戒線を越えたと、前田さんから聞いていた。鐘が鳴ったのは、そのあとだ」
澪は、黒瀬の顔を見た。
「いつ聞いたんですか」
「母が亡くなったあと、前田さんが父に話した。父は誰にも言わなかった」
「前田さんは、ずっとその記録を持っていたんですね」
「そうかもしれません」
黒瀬の声に、怒りはなかった。けれど、言葉の間に、長い時間が横たわっていた。
「あなたは、前田さんに真実を尋ねましたか」
「一度だけ」
「何と言われました?」
「記録が正しいとは限らない。でも、記録に書かれた人間が正しいとも限らない、と」
黒瀬は、石碑から目を離した。
「前田さんは、何を見せるつもりだったんでしょう」
「分かりません」
「あなたは、昨夜、前田さんに会いましたか」
黒瀬は澪を見た。
「会っていません」
曽根は、その答えを手帳に書いた。
記録館の中へ戻ると、理花が保守室の棚を調べていた。彼女は、昔の観測記録を束ねた箱をひとつ開ける。
「これ、父の字です」
一枚の紙には、三十六年前の潮位が記録されていた。二時十一分の欄に、波形が急に上がっている。二時十七分の欄には、別の鉛筆で、短く「確認」と書かれていた。
その二つの文字の間に、薄い擦り消し跡がある。
澪は紙を照明にかざした。消された文字のへこみが、裏側に残っている。
そこには、短い言葉が浮かび上がっていた。
母を待て。




