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潮目の記録  作者: 白い愛
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母を待て

登場人物




浅倉 澪あさくら・みお  古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。




前田征司まえだ・せいじ  元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。




前田理花まえだ・りか  征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。




黒瀬達也くろせ・たつや  島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。




夏目圭介なつめ・けいすけ  鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。




篠宮冬子しのみや・ふゆこ  島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。




曽根警部そね  島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。

「その字は、どこから出てきたんですか」

黒瀬が、紙を見たまま尋ねた。

「裏に残っていた筆圧です」

理花が答えた。

「表の文字を消しても、紙の下に跡が残ることがあります」

澪は、照明の角度を変えた。二字目は「を」。最後の二字は「待て」。最初の文字だけが、まだ曖昧だった。

「母、でしょうか」

「船かもしれません」

理花が言った。

「線の一部が消えています。『舟を待て』なら、観測記録に残す言葉としては自然かもしれない」

「母を待て、なら?」

曽根が聞いた。

理花は、すぐに答えなかった。

「誰かへの伝言でしょう」

黒瀬は、紙に手を伸ばさなかった。

「三十六年前、あなたのお母さんは、誰かを待っていたんですか」

澪が尋ねると、黒瀬は石碑のほうを見た。

「父の話では、母は隣の家の子を起こしに行った。戻ってくるのを待っていた人はいたかもしれない」

「お父さんは、その紙を見たことがありますか」

「分かりません」

「前田さんから、何か聞きましたか」

黒瀬は、乾燥室の壁に掛かった古い観測器を見た。

「父は、前田さんが記録を正確に書かなかったと言っていました」

「どの記録を?」

「高潮の記録です」

「理由は?」

「分かりません。父は、母が亡くなる前に何があったかを話さなかった」

黒瀬の答えには、言葉を選んだ跡があった。

曽根は、紙の裏側を写真に撮った。

「この紙は、前田さんが隠していた。あるいは、誰かが前田さんの部屋へ持ち込んだ。そう考えられます」

「母を待て、という言葉が、前田さんの字かどうか調べてください」

黒瀬が言った。

「筆跡を照合します」

「それが分かれば、誰が書いたかも分かる」

「書いた人と、消した人が同じとは限りません」

曽根は、記録紙を証拠袋へ入れた。

その夜、冬子が記録館へ来た。彼女は紙を見るなり、息をのんだ。

「その文字を、どこで見つけたの」

「三十六年前の観測紙に残っていました」

「『母を待て』と書いてあるのか」

「最初の字は、まだ確定していません。『舟』にも見えます」

冬子は、紙の端を見た。指は触れず、目だけで字を追う。

「私は、これを見たことがある」

「どこで?」

「電話交換室に、同じ言葉が書かれた紙が置かれていた。あの夜、二時十一分の電話のあとに」

「誰が書いたんですか」

「分からない。受話器の横に、鉛筆で走り書きしてあった」

「何と書いてありました?」

冬子は一度目を閉じた。

「『舟を待て』だったと思う」

曽根が顔を上げた。

「あなたは、鐘を鳴らす前に舟を待ったんですか」

「待っていない」

冬子は、首を横に振った。

「二時十一分に電話を受けたあと、私は役場の当直責任者に確認した。返事は『待て』。何を待てと言われたのかは分からなかった。舟を待てという意味だったのかもしれない」

「避難のための舟?」

「連絡船は、その時間には港にいなかった。島の人が持っている小舟のことかもしれない。でも、あの潮で出せる舟はなかった」

「それなら、何を待ったんでしょう」

「分からない」

冬子は、紙から視線を外した。

「私は、二時十七分に鐘を鳴らした。誰かが舟を待つよう言ったとしても、待つべきではなかったのかもしれない」

澪は、記録館の窓を見た。海の上に、月明かりが細く伸びている。

「前田さんは、二時十一分の電話を受けたあと、何をしたんでしょう」

「知らない」

冬子は立ち上がった。

「ただ、三十六年前の朝、前田さんは私に言った。『あの六分は、誰かが決めた時間じゃない。誰かが待った時間だ』と」

その言葉を、曽根は手帳に書き留めた。

「誰が待ったのか、前田さんは言いましたか」

「言わなかった。私も、聞かなかった」

冬子は扉の前で立ち止まった。

「今度は聞いておけばよかったね」

彼女が帰ったあと、澪は「母」とも「舟」とも読める文字を見た。誰かが何かを待ち、その六分のあいだに三人が亡くなった。

前田は、昨夜、誰を待っていたのだろう。

そして、自分が襲われる前に、何を伝えようとしていたのだろう。


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