交換室の時計
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
旧電話交換室は、港の近くに残っていた。
建物は使われなくなって久しい。窓は板で塞がれ、入口の鍵は錆びていた。冬子は、帳場から持ってきた鍵を差し込んだ。扉の奥に、古い交換台がある。回線をつなぐ穴と、短いコードが並んでいた。
「ここで、三十六年前の電話を受けたんですね」
曽根が聞いた。
「そう」
冬子は交換台の前に立った。机の隅には、時計の台座だけが残っている。文字盤はなく、針もない。
「時計は?」
「壊れて、ずいぶん前に捨てた」
「二時十一分や二時十七分という時刻は、何を見て記録したんですか」
「腕時計。交換台の時計もあったけど、いつも正確とは限らなかった」
澪は、宿の時計を思い出した。八分進んでいた針と、時刻に合わない鐘の音。時間を示す道具は、どれも少しずつずれていた。
冬子は交換台の下から、薄い帳面を取り出した。表紙には何も書かれていない。ページの端は黄ばみ、何度も開かれた跡がある。
「これは、あなたの記録ですか」
「私が書いたもの」
冬子は帳面を曽根に渡した。
最初の記録は、高潮が起きた日のものだった。二時十一分、記録館からの連絡。二時十二分、町役場からの連絡。二時十七分、警報の操作。どれも、役場の台帳に残った時刻と少しずつ異なる。
二時十二分の欄には、短い言葉が書かれていた。
待て。舟を待て。
「これを書いたのは、あなたですか」
「電話で言われた言葉を書き留めた」
「誰が言ったんです」
「分からない」
冬子は、交換台の穴を指した。
「声は聞こえた。けれど、回線が悪くて、相手が名乗ったかどうかも覚えていない」
「役場からの電話では?」
「番号は、役場の回線だった。だけど、誰が受話器を取ったのかは分からない」
「その指示に従って、鐘を鳴らすのを待った?」
「そう」
冬子は、帳面の二時十七分の欄を指した。
「六分後、記録館からもう一度電話があった。今度は前田さんの声だった。『鐘を鳴らせ』と言った。私は二度鳴らした」
「その間、舟は来ましたか」
「来なかった」
「町の台帳には、舟を待てという記録はない」
「そうだね」
曽根は、帳面を一頁ずつ撮影した。
「この記録を、前田さんに見せましたか」
「見せていない」
「前田さんは、あなたがこれを書いたことを知っていましたか」
「知らないと思う」
冬子は、交換台を見回した。
「私は、この帳面を誰にも見せたことがなかった」
澪は、二時十一分の時刻を見た。観測紙に残った線と同じ時間。前田はそのとき、潮位が警戒線を越えたと記録している。
「前田さんの電話は、二時十一分に『危険だ』と知らせた。二時十二分に、役場から『待て。舟を待て』と指示があった。二時十七分に、前田さんがもう一度『鐘を鳴らせ』と言った」
「そう記録しています」
「その六分のあいだに、舟は来なかった」
冬子は、返事をしなかった。
曽根は帳面を閉じた。
「役場の控えに書かれた夏目重蔵の名前は、あなたの記録にはありません」
「私は、相手の名前を聞いていない」
「では、名前は誰が記録したんでしょう」
「それは、私には分からない」
冬子は、交換台の上に手を置いた。指先が、古い木の表面をなぞる。
「前田さんは、電話のあと、何と言いましたか」
澪が尋ねた。
冬子は、しばらく黙ってから答えた。
「『六分は長すぎた』と言った」
「誰に向けて?」
「電話口にいた私に」
「それは、二時十七分の電話で?」
「そう」
「前田さんは、自分が待たせたとは言わなかったんですか」
冬子は、首を横に振った。
「言わなかった」
交換室の窓板の隙間から、細い光が床に落ちていた。光の中で、曽根の手帳に書かれた二つの時刻が並んでいる。
二時十一分。
二時十七分。
その間に、誰かが「舟を待て」と言った。
けれど、舟は来なかった。誰が指示を出したのかも、まだ分からない。
冬子は帳面を曽根に渡したまま、交換台の前から動かなかった。




